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【伏見俊昭とKEIRINグランプリ】“超一流”まであと一歩…越えられなかった10回出場の壁

2021/12/22 (水) 18:00 15

 netkeirinをご覧のみなさん、こんにちは。伏見俊昭です。
今年も残すところあとわずか。年末には風物詩とも言える「KEIRINグランプリ2021」が控えています。僕は過去にKEIRINグランプリには9回出場、そして2回優勝しました。やはりKEIRINグランプリに出場することは、格別です。今回は競輪選手にとっての最高峰でもある「KEIRINグランプリ」についてお話しします。

(PHOTO:島尻譲)

競輪人生 最初で最後、“ゾーン”に入った3分間

 僕がKEIRINグランプリ(以下:グランプリ)に初めて出場したのは、2001年の平塚大会。当時25歳でした。同年の9月に岐阜競輪で行われた「オールスター競輪」で番手を回った兄弟子である岡部芳幸(51歳・福島=66期)さんとワンツーを決めて、出場権を獲得しました。岡部さんもその2着の賞金で出場が見えていたのでグランプリでも再度ワンツーを決めたいと意気込んでいました。

 しかし、オールスター後の世界選手権に出場し、落車をしてしまい、鎖骨骨折。調子がいいときほどすんなりいかず、ケガをしちゃうんですよね…。グランプリまで残された時間はわずか2ヶ月。間に合うには間に合うけれど、オールスターのときをピークとすると7〜8割の調子でした。実際、負傷明け初戦は全然良くなくて…。焦りもありましたが、それでも“グランプリ出場”という目標があったからその2ヶ月間は、モチベーションを落とさずに練習に打ち込むことができました。そんな万全ではない状態だったので、周囲からの僕に対する評価は低かったですね。

 当日のレースは4分戦。3番手に高木隆弘(52歳・神奈川=64期)さんがついてくれ、先行主体が自分一人しかいなくて、戦いやすかった。これが勝因となり、初出場で初優勝を手にすることができました。実は当時アスリートでよく言われる“ゾーン”というものに入ったんです! 周囲のヤジはもちろん声援も聞こえない。聞こえるのはただバンクの車輪やタイヤの摩擦音だけ。今思うととても集中していたんだと思います。後にも先にもゾーンに入れたのはこの一度きり。後の立川競輪でのグランプリ優勝時は、きちんと雑音も聞こえていましたからね(笑)。どうやってゾーンに入ったのか…入れたきっかけは何なのか…今だに不思議です。

2001年にKEIRINグランプリで1着になった伏見俊昭選手(右端) (写真:共同通信社)

 平塚大会の優勝は何もかも初めてだったので、無我夢中で気付いたら「あれ? 勝っちゃった? 」という印象でした。優勝という頂点に手が届いたことはうれしかったのですが、番手の岡部さんのところが大競りになってしまった。まさか稲村成浩(49歳・群馬=69期)さんがインで粘るなんて…兄弟子を競らせていいのかって悔いも残りました。あのレース内容では逃げ切ったからって力の証明にもならない。それでも岡部さんがウィニングランで自分の手を上げてくれました。

 競りになってしまったレースなのにゴール後に優勝を讃えてくださった岡部さんの懐の深さに感無量でした。欲を言えばオールスター同様、ワンツーを決めたかったです。今でも岡部さんを競らせてしまったことはモヤモヤが残ります。もう本当に岡部さんには一生、頭が上がりません。

フレデリック・マニェに教えてもらった競輪とケイリンの走り方

 2度目の優勝は、2007年の立川大会。当時は翌年に北京五輪を控えていてナショナルチームでの活動も最高潮でした。

 12月にワールドカップで初めてフレデリック・マニェが監督に就任しました。国際競輪でも活躍したマニェはケイリンのスペシャリストでグランプリを前に走り方だけでなく、国際レースと国内レースの気持ちの切り替え方など、いろいろと教えを乞うことができました。

 立川大会にマニェが観戦に来ることも知っていたので、良いところを見せたいという思いもあり、とても気合いが入っていました。優勝した直後、敢闘門までマニェがお祝いにかけつけてくれて、「やったよ! 」という気持ちもあり、あれは本当にうれしかった。

2007年のKEIRINグランプリで山崎芳仁選手と抱き合う伏見俊昭選手(左) (写真:共同通信社)

 最初の2001年の優勝は自力で逃げ切りでしたが、ここは山崎芳仁(42歳・福島=88期)君の先行に乗って最終BSでまくってきた小嶋敬二(52歳・石川=74期)さんに切り替えて、ゴール前で小嶋さんを差すことができました。マニェの教え、ナショナルチームでの練習が最大限に生きた走りでしたね。平塚大会での優勝は、レース内容にモヤモヤが残りましたが、立川大会は申し分ない走りができたなと自負しています。

何もできなかった不甲斐ない2005年

 一方で、悔いが残る大会は2005年の平塚大会。そのレースでは加藤慎平(岐阜・2018年12月13日引退)君が優勝したけど、後閑信一(当時は群馬・2018年1月9日引退)さんがガッツポーズしてて…。

 最終BSでシンタロウ(佐藤慎太郎 45歳・福島=78期)と接触。シンタロウは落車して、僕は後輪が車体故障…。中団で小嶋さんと並走していましたがサラ脚で回っていて、そこからという時だったのに脚を何も使わずに終わってしまいました。何一つ出来なかったという不甲斐ないレースになってしまいましたね。

KEIRINグランプリの醍醐味だった前夜祭

2011年KEIRINグランプリの前夜祭(PHOTO:村越希世子)

 グランプリでの思い出は、12月半ばに行われる前夜祭。ここ2年はコロナ禍のため中止していますが、前夜祭はとても盛り上がるんです。グランプリの出場が決まるとほとんどの選手が調整のため12月は出走しない。なので前夜祭で久々に顔を合わせるんですよ。相手から自分はどう見えているのかなとか思ったりして。何とも言えない緊張感というか空気が流れていました。そんな前夜祭ならではの雰囲気を味わうのも楽しみだった。何よりお客さんがたくさんいますしね!

 前夜祭では自分の好きな曲をかけて、ステージに入場できたのですが、それもいい思い出です。ちなみに僕は当時いきものがかりさんの曲が大好きでよくかけていました。

 そのほか、車番抽選もありましたね。マントの下にユニフォームを着ているアイドルを選んで抽選っていうのがあって1番車狙いの僕は一番人気のありそうなとか一番のリーダー格みたいな人を真剣に選らんで当てにいったんですけど車番、8番車でした(笑)。年に一度のお祭りという感じで、本当に楽しかったです。

KEIRINグランプリは10回出てこそ“超一流”

 僕は、グランプリには9回出場しました。

 スポニチにベテラン記者の中林(陵治)さんという方がいらっしゃるのですが、その人にいつも「グランプリは10回出てこそ超一流。伏見君も10回出場を目指して頑張ろう」と言ってもらっていました。多くの選手を見てきたベテラン記者さんの言葉は重みがあって、“10回出なかったらホンモノじゃない”と自分に言い聞かせ、「10回出場」を目指していました。9回出場し、S級S班から陥落してそれでも“もう一回頑張ろう”ってやってきたんですけど…。

 中林さんも会うたびに「次で10回、頑張ろう」って何年かは言ってくれてましたが、さすがに最近は言われなくなってしまいました(寂笑)。どうしてあともう一回…あの年頑張っていれば出られたんじゃないかと思ったり…。10回目の壁はとてもとても高い壁でした。

「これが最後と思って走ります」と語り続けてきたKEIRINグランプリ記者会見(2010年) (PHOTO:村越希世子)

 僕自身はグランプリには「これが最後」という気持ちで常に挑んでました。会見でも「これが最後と思って走ります」って言っています。それほどグランプリ出場って厳しいものだと思います。その年すごく調子がよくても翌年、まったくダメになる選手を何人も見てきました。速いからといって出場できるものではなく、本当に選ばれし9名が走る別格なレースなんです。

 今年のグランプリは新田(祐大)君と脇本(雄太)君が出場できないのはさみしい限り。それでも選ばれし9人で日本一の決める大会ですし、競輪の魅力をグランプリで示す一戦です。9人には最高のパフォーマンスで最高の走りをしてもらいたいですね。


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伏見俊昭

フシミトシアキ

福島県出身。1995年4月にデビュー。 デビューした翌年にA級9連勝し、1年でトップクラスのS級1班へ昇格を果たした。 2001年にふるさとダービー(GII)優勝を皮切りに、オールスター競輪・KEIRINグランプリ01‘を優勝し年間賞金王に輝く。2007年にもKEIRINグランプリ07‘を優勝し、2度目の賞金王に輝くなど、競輪業界を代表する選手として活躍し続けている。 自転車競技ではナショナルチームのメンバーとして、アジア選手権・世界選手権で数々のタイトルを獲得し、2004年アテネオリンピック「チームスプリント」で銀メダルを獲得。2008年北京オリンピックも自転車競技「ケイリン」代表として出場。今でもアテネオリンピックの奇跡は競輪の歴史に燦然と名を刻んでいる。

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