2025/01/30 (木) 18:00 11
netkeirinをご覧の皆さんこんにちは、伏見俊昭です。
2025年は和歌山が走り初めとなりました。今回は2025年のスタートと昨年引退された神山雄一郎さん。そして最後にぬか喜びとなった悲しい出来事をお話ししようと思います。2025年もどうぞよろしくお願いいたします。
2025年は和歌山記念からのスタートでした。その2日目二次予選でなんと内抜きで失格してしまいました。もちろん、内外線間を走っている選手を内側から抜いちゃいけないっていういうルールがあるので100%自分が悪い、自分のミスです。でも、初日の感触がよかったので、“ここで負けたくない”っていう気持ちもあって、バックを踏めば失格にはならないけど、おそらく8、9着になって準決勝には進めない…。これを内から抜いたら失格するかもという自分の中での迷いがあって、最後は勢い余って抜いてしまったという感じです。
見ていた選手仲間にも「あれは抜いちゃダメですよ」って言われましたね…。和歌山だったので車で参加したんですが、松阪までの約3時間の帰りの道中で、ずっと「なんであそこで抜いてしまったんだろう」って考えてましたね。反省もしつつ、でも自分の中でもモヤモヤが残って…。2025年もまだ始まったばかり。ここからマイナス3点を取り戻さなくちゃいけない。なのでより一層、自分の中で気持ちを入れていかなくちゃいけないなと思い、その後はいい練習ができました。次の立川FIでは、それがつながったのかな。初日こそふがいなかったですが、準決勝、決勝は上がりタイムもよかったし、特に準決勝はいい伸びでしたね。2着ですが、太田海也君相手にあそこまで差し込めたのは自信になりました。
立川は「HPCJC」(ハイ・パフォーマンス・オブ・ジャパン・サイクリング)の冠だったので現ナショナルチームの太田君、山崎賢人君が参戦してGIIIなみの豪華なメンバー。旧ナショナルチームの渡邉一成君もいて、自分は旧旧…くらいかな(笑)。実況の方も「新旧ナショナルチーム対決」って言っていましたね。その中で戦えたのも楽しかったし、現在、世界で戦うスピードがどれだけすごいかということも体感できて、刺激的でした。
決勝戦は太田君と山崎君が並ぶかもしれないって話に一瞬なってたんですよ。山崎君に聞いたら「太田君が考え中みたいです」って言われて。その時、僕は「並んじゃだめだぞ」って思わず言ってしまいました。まあ、冗談ぽくですけど「プライドを持って走ってくれ」って。こういう話ができたのもよかったです。
太田君とはあまり接点がないので話したりはしなかったんですが、彼はとにかく礼儀正しい青年。食堂、検車場、どこで会っても笑顔であいさつしてくれる。なんかもう親目線になっちゃいますけど、おおらかな感じでとってもいい子ですね。普段は穏やかだけど、レースになると顔色が変わる。オンとオフもはっきりしている感じですね。若い子ってこんな感じでしたっけ? 慎詞(中野)もすごく礼儀正しいんですよ。何度か連係したことはありますが、ものすごく気を遣って話してくれるというか。太田君と慎詞の2人は若手の中でもちょっとずば抜けてる感じはありますね。次の五輪は2028年。まだ3年あるのでイメージは湧かないんですが、同じくナショナルチームで戦ってきた先輩としては頑張ってもらいたいですね。
神山雄一郎さんが昨年末、引退されました。
神山さんがA級に落ちることがほぼ確実になったくらいから、競走に参加すると選手間では「神山さん、A級走るのかな?」「いや、関係者がそれは許さないだろう」と必ず神山さんの話題が出ていました。自分は神山さんにお会いする機会がなかったですが、もし会っても「A級でも走られるんですか?」とはさすがに聞けなかったでしょうね。
ただ、ラストランとなった12月の取手FIのメンバーを見たら、練習仲間や同期があっせんされていて、やめるのかなと思いますよね…。何かあるよね?って…。結果的にラストランの翌日に会見をしてそこで神山さん自身から引退が表明されたんですが、その会見で「もっと走りたかった。いつまでもトップの位置で走りたかった」って悔しそうに語っていたのが印象的でした。神山さんって本当に競輪が好きなんだなあって思いました。
僕の憶測ですが、神山さんだけの気持ちだったらA級も走ったんじゃないかなと思います。でも、関係者の中には『神山雄一郎をA級で走らせるわけにはいかない』という考えの人もいたでしょう。輪界であれだけの金字塔を打ち立てた存在なら自分の意思だけでは決められなかったのではないしょうか。
僕が神山さんと最初にお会いしたのは1996年春にいわき平で行われた全日本プロ選手権自転車競技大会(通称・全プロ)です。1,000mタイムトライアルはその年のアトランタ五輪の選考になっていました。五輪はこの大会から競輪選手も出場が可能になりました。優勝候補筆頭はもちろん、神山さん。僕も地区プロで勝って出場したのですが、あの神山さんと同じ舞台で競走できるなんてってだけで嬉しかったです。ところが、番狂わせが起こり、僕の同期の十文字貴信君が当時の大会記録を1秒以上も更新する好タイムを叩き出し、神山さんにも大きな差をつけて圧勝で優勝。それで十文字君が1,000mの五輪代表になりました。
その後、ワイルドカード枠でスプリントの出場権ができたんです。その代表選考会が伊豆で行われることが決まったときに、当時の日本代表監督が僕の師匠である班目秀雄さんでした。班目さんが神山さんを僕の地元である泉崎競技場に呼んで合宿をすることになりました。神山さんは同県の坂本英一さんと一緒にやってきて、若手である僕が練習相手に。『ラビット』という練習方法で僕が先頭になって神山さんが車間をあけてハロンをかけるという内容です。神山さんはスプリントに日本代表としてアトランタ五輪出場を決めたんですが、少しでもお役に立てたのかなという気持ちです。
合宿は2泊3日。昼食を食べに白河で有名なラーメン店「とら食堂」に行ったときのことです。ラーメン店で注文するのってだいたいはラーメン1つですよね? お腹が空いていれば大盛りにしてライスつけるかな、くらいで。でも神山さんはラーメンの大盛りと冷やし中華の大盛り、合計2つを頼んだんです。それを見た班目さんが「オマエも食べろ!」って言ってきて、無理やり2つ食べさせられたのが強烈に印象に残っています。
その後はナショナルチームでもご一緒させていただいたので、いろんなお話を聞かせてもらったり、合宿などで練習もさせてもらいました。神山さんに質問をすると、いつも真剣に答えてくれます。でも、本当に大事なことは教えてくれなかったのかもしれません。自分で言うのはおこがましいけど、若くてこれからライバルになるかもしれないっていう選手に、手の内を全部明かすことはしないと思うんですよ。なので本当にコアなところはちょっと聞けなかったです。神山さんの全盛期の当時に聞きたかったこととかいっぱいあったけど、そこはプロとして言えないだろうなとも感じていました。
でも身体の状態が悪いときには「ここ行ったらいいよ」って神山さんも頻繁に通っている宇都宮の元選手がやっている整体師さんを紹介してくれたこともあります。そこは今でもずっと通い続けてます。ナショナルチームで海外に行ったときは一緒にトランプで遊んでくれたりもしました。神山さんは僕の7歳上。7歳ってけっこう離れてますよね?でも、同じ目線でバカ話とかにも付き合ってくれました。ナショナルチームの打ち上げでお酒を飲んだこともありますが、酔っぱらった神山さんを見たことは一度もないですね。お酒に強いのか、いや、多分、自分の中でセーブしていたんでしょうね。
自分から志願して宇都宮競輪場に行って、競りの勉強もさせてもらったこともあります。神山さんだって自分のトレーニングがあるのに、時間を作ってくれて親身に教えてくれました。その神山さんが4月から日本競輪選手養成所の所長に就任されます。神山さんにぴったりのポジションですね。滝澤正光さんの後任は神山さんしかいないって誰しも思っていたことでしょう。大げさですが、これでこれからの競輪界も安泰だなって思いました。でも、いい選手がどんどん誕生すると僕が現役の内は苦労しちゃうのでそれがネックかな(笑)。神山さんが所長として候補生の前でどんな話をするのかこっそりのぞきに行きたいです。
今回、神山さんは現役引退を決意されたんですが、A級戦での走りも見たかったという気持ちも少なからずあります。数々の伝説を作った年長者がそれでも走る続ける姿を見て、それを見習って頑張りたいという思いもありましたね。でもそれは僕のエゴでしかないです。
神山さん、お疲れ様でした。そして本当にありがとうございました。
立川FI前検日のことです。デイリースポーツのまっちゃん(松本直記者)が「伏見さん、ウィナーズカップ、出場できますね」って言ってきたんです。ボーダーが13勝っていうことは知っていたんですが、僕もまさに13勝。滑り込めたか、とすごく嬉しかったです。
準決勝を走り終えて、決勝進出も決めていい気分だったところにまっちゃんがやってきたので決勝のコメントを聞かれると思っていたら「ごめんなさい」って。「えっ?なんのこと?」と思ったら「伏見さん、ウィナーズカップ出られなかったです」って。出場選手一覧を見たら確かに僕の名前は正選手にも、補欠にもありません。13勝で同じだったら次は2着の回数が多い方が優先なんですが、僕は2着が少なかったようです…。決勝に乗れて気持ちも上がっていたのにいきなり底までドスンと落とされた感じ。まっちゃんに「上げといて落とすのはやめてよ」って笑いながら言ったら「ごめんなさい」って何度も謝っていましたね。まっちゃんは金成(和幸)同様、点数や選考基準にすごい詳しくて、わからないことがあればすぐJKAにも問い合わせてくれるので、“まっちゃんが言うなら間違いない”って信じ切ってたのもあります。
なので、今年の目標は「ボーダーライン上ではなくゆとりのある点数確保」です。余裕があればそんな心配しなくていいんですからね。というわけで、まずは目先のレースを精一杯頑張る、そういう感じで今年も走っていきますので、よろしくお願いいたします。
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伏見俊昭
フシミトシアキ
福島県出身。1995年4月にデビュー。 デビューした翌年にA級9連勝し、1年でトップクラスのS級1班へ昇格を果たした。 2001年にふるさとダービー(GII)優勝を皮切りに、オールスター競輪・KEIRINグランプリ01‘を優勝し年間賞金王に輝く。2007年にもKEIRINグランプリ07‘を優勝し、2度目の賞金王に輝くなど、競輪業界を代表する選手として活躍し続けている。 自転車競技ではナショナルチームのメンバーとして、アジア選手権・世界選手権で数々のタイトルを獲得し、2004年アテネオリンピック「チームスプリント」で銀メダルを獲得。2008年北京オリンピックも自転車競技「ケイリン」代表として出場。今でもアテネオリンピックの奇跡は競輪の歴史に燦然と名を刻んでいる。