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【伏見俊昭のスタート地点】「世界のナカノ」に憧れて歩み始めた競輪選手への道

2022/01/29 (土) 12:00 12

 netkeirinをご覧の皆さん、こんにちは。伏見俊昭です。
 今回はユーザーの皆さまから募集したコラムテーマの中から「競輪選手になろうと思ったきっかけ」についてお話しします。最近は新しい記憶が入ると昔の記憶がデリートされるような状態ですので、曖昧な部分もありますがそこは大目に見て読んでください(笑)。

(撮影:島尻譲)

“世界のナカノ”に衝撃を受け目指した競輪選手

 僕は、幼少期の5歳くらいまではいわき市に住んでいました。そのときに父親に連れられて、いわき平競輪場に足を運びました。階段に座ってサンドイッチを食べましたね。僕の中ではこの1回しか記憶にないんですけど、何回も連れて行ってもらったような…そんな気もしています。ただ、そのときに「競輪選手ってかっこいいなぁ」って思った記憶はうっすらあります。

「世界のナカノ」こと中野浩一氏(撮影:島尻譲)

 「競輪選手になりたい」と自分の心の中で確信的なものになったのは、中野浩一さんのニュースを見たとき。そのニュースは中野さんが日本のプロスポーツ選手として初の1億円プレーヤーになったという内容でした。プロ野球選手じゃなくて競輪選手が一番最初ということに衝撃を受けてしまって、それを見て競輪ってすごくかっこいいなと改めて強く思いましたね。それとあわせて小学2年生のときに親戚の人に「将来は競輪選手になったらいいんじゃないの?」って言われたのも覚えています。それですっかりその気になりましたね。小2のときに将来の夢をテーマにした作文を書いたのですが、同級生が将来は学校の先生、警察官になりたいっていうなかで僕はちゃんと「競輪選手になりたい」って書いています。今でも保管してありますよ!

野球では巨人のクロマティの大ファンだった幼少期の思い出(撮影:島尻譲)

 それから競輪選手を目指す日々が始まります。
 福島県には自転車部のある小中学校はなかったので、小学校では基礎体力をつけるために3年生から陸上部に入部。心では競輪選手を目指すことに何も揺らぎはなかったのですが、球技も好きだったので、サッカーやソフトボールもやっていました。特に野球では巨人のクロマティが大好きで憧れもしました。かなり夢中になっていましたね。

 しかし周りと比べたときに自分には野球の才能はない、と小学校高学年ですでに実感…。球技では頑張ってもなかなか花は咲かせそうもないなと思い、かなわない夢は追わないほうがいいと思い、球技への憧れはそこで折り合いをつけました(笑)。

競輪選手にさせてもらった、恩師との出会い

 小中高生で基礎体力はしっかりつけ、次はいよいよ本格的に自転車と触れ合いました。高校は自転車部のある白河実業に進学。そこで出会った顧問の小松先生は自分の競輪選手人生に欠かせない先生です。小松先生に競輪選手にさせてもらったと言っても過言ではないですね。

 小松先生は今、平工業高の自転車部で指導していて数多くの競輪選手を育て上げ、指導者としては日本一だと思います。先生の指導はとにかく親身。街道練習に車で後ろからついてきてくれて。お正月に実施する箱根駅伝のあの応援カーじゃないけど車から「スピード落ちてるぞーもっと上げろ! 」とか声をかけてくれます。日曜日とかの練習にもきてくれたし。

恩師である小松先生が競輪選手への自信をつけてくれた(撮影:島尻譲)

 でも卒業してから聞いたんですが当時、ガソリン代は距離に応じて支給されていたんじゃなくて、決まった額だけだったから大赤字だったらしいです。家族サービスとかも犠牲にして自腹で練習見てくれていたなんて本当に頭が上がりません。大会前には「苦しい練習をしてきたんだから自信を持っていけ。やった分だけ結果として返ってくる」って先生に言われると不思議と大丈夫って自信にもなった。また先生に「頑張れ」って言われれば、力が湧いてきて、自ずと頑張れましたね。

 しかし、実際に練習はとにかくきつかった。パワーマックスでミドルパワーという30秒ダッシュして2分休んで3本ダッシュという内容なんですがそれを2、3セットやるともう立ってもいられない。ときには戻すこともありました。仲間もみんな倒れて…それをほぼ毎日やるのはもう嫌で嫌でしょうがなかった。でも苦楽をともに励んだ仲間がいたからなんとか頑張れました。

 同級生が10何人かいて「アイツが頑張っているんだからオレも頑張らなきゃ」という気持ちだけで自分を奮い立たせていましたね。先にやり終わった仲間が苦しそうだけどやり切ったという顔をしているのを見ると「よっしゃーやったろかー」ってスイッチが入るんですよ。練習やだなーと思っているのに。

競輪学校に受かる自信は50%

 高1のときは1kmのタイムが1分13秒台でまだまだ競輪学校を受験できるレベルではなかったんです。高2で1分11秒台を出せるようになってこれでやっと競輪選手目指せるなと思いました。高3の時にはインターハイの4000m速度競走で準優勝。強い選手は1kmTTやスプリントに出るから速度競走なら入賞できるかもっていう作戦でした。

1分11秒台を出せるようになり高校2年で成果が出てきた(撮影:島尻譲)

 4000m速度競走は「先頭責任」っていうのがあるんです。大逃げをしたんで最後、力尽きて集団から大きく離れてゴールしたんですけど責任を果たしたのが自分と村本大輔(静岡・77期)さんだけで優勝は村本さんでした。1kmは太田真一(埼玉・75期)君や十文字貴信(茨城・75期)が強くて、スプリントは八日市屋浩之(石川・79期)が3位だったのを覚えています。そんな強い同級生を目の当たりにすごいなあと思っていました。彼らは僕にとっての英雄です。

 インターハイの後には国体もありますが先生と相談して競輪学校を受験するならいわき平の愛好会で練習したほうがいいということでアマチュア会のようなところで練習させてもらっていました。白河からいわきは遠いので高校の先輩で同期の鈴木規純(福島・75期)さんが車で連れてってくれていました。そこでは西丸直人(福島・76期)、程塚毅志(福島・76期)さんと一緒に練習しました。1kmで1分9秒代を出せましたが競輪学校に合格できるかは50・50くらいの気持ちでした。だって技能免除の太田、十文字君たちは7秒代で走っていましたから、到底そこのレベルには追いつけなかったです。

緊張のあまり一次試験ではあり得ないミス

 静岡競輪場での一次試験の1km走では極度の緊張でペダルのセッティングを右、左間違えたんです。気づいたのはスタートした後…。右踏み込みスタートなのに左踏み込みにしちゃってて。まさか再発走なんかできるわけないし“やっちゃったなあ”って。タイムは公開されないのでわからなくて、かなり不安でしたが、運良く受かっていました。

 一次試験が通れば二次(200m、学科、面接等)はなんとかなると思っていたので無事合格できましたね。やっと小学校2年生からの夢をかなえることができました。

たくさんの人に支えられている競輪人生(撮影:秋田麻子)

 僕自身さまざまなメディアで「小2からの夢をブレずに持ち続けるってすごい」ってよく言われますが…どうなんでしょうか?

 夢を叶え、競輪選手になってからもたくさん苦しいこともありますが、今はとても誇りに思っています。競輪選手になるまでにはたくさんの方々に助けていただいたので、選手としてできることを恩返しをしていきたいですね。



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伏見俊昭

フシミトシアキ

福島県出身。1995年4月にデビュー。 デビューした翌年にA級9連勝し、1年でトップクラスのS級1班へ昇格を果たした。 2001年にふるさとダービー(GII)優勝を皮切りに、オールスター競輪・KEIRINグランプリ01‘を優勝し年間賞金王に輝く。2007年にもKEIRINグランプリ07‘を優勝し、2度目の賞金王に輝くなど、競輪業界を代表する選手として活躍し続けている。 自転車競技ではナショナルチームのメンバーとして、アジア選手権・世界選手権で数々のタイトルを獲得し、2004年アテネオリンピック「チームスプリント」で銀メダルを獲得。2008年北京オリンピックも自転車競技「ケイリン」代表として出場。今でもアテネオリンピックの奇跡は競輪の歴史に燦然と名を刻んでいる。

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