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【伏見俊昭と北日本】誰よりも厳しかった 最恐ボス・俵信之のおかげで手にした数々の勝利

2021/11/30 (火) 12:00 21

 netkeirinをご覧のみなさん、こんにちは。伏見俊昭です。
僕は競輪選手としてデビューして26年、所属する福島県の地区である「北日本」には多くのことを勉強させてもらいました。今回はそんな「北日本」をテーマにお話ししたいと思います。オールドファンの方には昔懐かしい一流選手の話、若い方にはそんな時代もあったんだと感じながら楽しんでもらえたらうれしいです。

(PHOTO:島尻譲)

北日本の食事会は“必ず全員集合”が暗黙のルール

 当時の北日本には多くの先輩や仲間がいますが、そのなかでもこの人を抜きにしては語れない先輩がいます。それは俵信之(引退=北海道・53期)さんです。俵さんは北日本のなかではボス的な存在で「今日◯時に食堂な!」といえば、逆らうことはできません。今はコロナ禍ということもあって、宿舎でお酒を飲むことはできませんが、当時は食堂でお酒が販売されていて、好きなように飲むことができました。

北日本のボスとして大きな影響力を与えた俵信之氏(PHOTO:村越希世子)

 僕がGI、GIIに出場するようになった当時は、北日本の選手は全員で10人くらいしかレースに参加していませんでした。参加選手の多い地区だと、それぞれ所属する県ごとに食事をするんですが、人数が少ないということもあってか、北日本は全員で食事をするのが暗黙のルール。食事会ではレースのことはもちろん、プライベートなことなど多くの話で盛り上がりました。特にGI・GII開催期間の食事は、毎晩盛大な飲み会でしたね。

 ちなみに僕はビールをコップ1杯飲んだだけで頭が痛くなるほどの下戸。全然お酒が飲めなかった。それが北日本の先輩方にすすめられるままに飲んでいたら、いつもの間に内臓も鍛えられたのでしょうか…。ちょっとは飲めるようになりました(笑)。当時の北日本は上下関係というのが厳しかったので、若手が先輩にお酒をつがれたら断るなんて言語道断。内臓はもちろん鍛えられましたが、精神的にも鍛えられましたね。だってお酒のせいで次の日の競走に支障をきたすようなことがあったらいけないですから!

最恐すぎる北日本のボス・俵信之

 当時よく一緒に食卓を囲んでいた先輩は、俵さん、加藤忍(引退=秋田・59期) さん、坂本勉(引退=青森・57期)さん、松井一良(引退=青森・61期)さんたちでした。なかでも俵さんはすべてにおいて厳しかったです。競走で連係する時は先行しか許されなくて、前を取って引いてカマシでもダメで後ろ攻め、残り2周で抑えて駆けるのみでした。

 先行できればいいけど、もちろん相手に警戒もされるからできないこともあって…そうなると俵さんにはものすごく怒られましたね。

俵信之氏を恐れた選手の一人、有坂直樹氏

 俵さんがGI、GIIで決勝に乗るか乗らないかで北日本の雰囲気は大きく変わりました。決勝に乗ればいいんですけど、乗れないとその日の夜の酒量もすごいことに…。俵さんのレースを見ながら決勝に乗ってくれるようにいつも祈っていましたよ。

 当時の俵さんは僕にとっては厳しい印象でしたが、それでも昔よりは丸くなっていたらしいです。ちょっと上の先輩である有坂直樹(引退=秋田・64期)さん、岡部芳幸(51歳・福島=66期)さん、金古将人(49歳・福島=67期)さん、高谷雅彦(50歳・青森=67期)さん、斉藤正剛(引退=北海道・66期)さんたちは『こんなもんじゃない』とよく言っていましたから。有坂さんは連係で失敗すると逃げ回っていたそうです。自分の部屋に戻りたくないから東京の部屋に潜り込ませてもらっていたとか(笑)。

「やる気がないなら帰れ!」と怒鳴られたレース

 そんななか、決して忘れることのできない一戦を走ることになります。1998年の西武園ダービーの二次予選で僕と俵さんは連係しました。レースは小嶋敬二(52歳・石川=74期)さんが先行、僕は引いて7番手でまくり不発9着。もちろん俵さんも共倒れです。

 俵さんはいつも以上に怒っていて「やる気がないなら帰れ!」と、ものすごい剣幕で怒鳴られました。レースには集中していたけど小嶋さんと先行争いして「勝ってやろう」というまでの気持ちで挑んでなかったように思えて、悔しくて悔しくて…反省もしました。これが自分を見つめ直すターニングポイントの一戦になりましたね。俵さんに怒られたことで「自分が甘かった、今度からは後ろに迷惑かけないように」などと気を引き締めることができました。

厳しい指導で手にした数々の優勝

厳しい指導の中で着実に先行として勝てるようになっていった2004年日本選手権競輪(PHOTO:村越希世子)

 俵さんの厳しい指導あってか徐々に先行で勝てるようになりました。その結果、北日本の自力型の選手が番手についてくれるようになりました。記念初優勝は、1996年の地元のいわき平で同期75期の中で一番乗りでした!

 このときの番手には信頼できる選手の1人、マサさん(斉藤正剛/引退=北海道・66期)がついてくれました。マサさんが番手なら駆けてもどうにかしてくれるという安心感がありましたね。正直、デビューしたての20歳くらいの時はラインのありがたみ、大切さがわかってなかったんですよ…。でもこの記念優勝でマサさんがいたから勝てた、マサさんがいなかったら優勝できなかったと強く感じ、ラインのありがたみを感じました。この勝利には本当に成長させてもらいました。

 GII初優勝は2001年のふるさとダービー函館。渡辺晴智(48歳・静岡=73期)さんと同着での優勝でした。決勝戦は地元の俵さんが番手。当時は「イン切り」という戦法が主流でした。この戦法はラインの3番手、4番手の選手が番手の選手が競られないように、まず前に出て行ってその上をラインの自力選手が行くという流れです。楽に先行に持ち込めるし、番手の選手も無風で仕事がしやすくなるんですよ。

 その時は佐藤康紀(47歳・青森=73期)さんがイン切りしてくれたんですがうまくいかず、俵さんは伊藤保文(引退=京都・71期)に粘られちゃったんです。もつれたことで僕が逃げ切り優勝。俵さんは失格でした。俵さんは番手で厳しく仕事をして他のラインに脚を使わせる走りをしてくれてその結果が僕の優勝です。

 佐藤さんのイン切りといい北日本ラインのおかげで優勝させてもらったと感じました。長い写真判定の後、俵さんは僕の優勝を自分のことのように喜んでくれました。それが本当にうれしかったです。

メンタル面でアドバイスをくれた坂本勉氏(PHOTO:村越希世子)

 そして、GIで優勝した2001年岐阜オールスター。決勝前に坂本さんが「後ろを勝たせるつもりで走れ」とアドバイスをくれました。“優勝したい、優勝したい”の気持ちだとパフォーマンスを最大限に発揮できない、雰囲気に飲まれるけど後ろを勝たせるつもりなら気負わずに走れるってことだったのかなと思います。そのことだけに専念して力を出し切れるっていう。

 数々のタイトルを取っている坂本さんが自身の経験から助言してくれたんですね。ちなみに青森の坂本さん、松井さん、小原則夫(引退=青森・57期)さんには怒られた記憶はないですね。県民性なんでしょうか…(笑)。

北日本の教えを今もしっかり生かしながら走り続ける(PHOTO:島尻譲)

 こうして振り返ってみると北日本のボスであった俵さんやほかの先輩たちから多くのことを学ばせてもらいました。競輪はライン戦だからどうしても一人じゃ勝てないと思うんです。ラインのありがたみを感じつつ北日本で走れて良かったとしみじみ思います。北日本にいなければ多分タイトルは取れなかったですね。北日本の出会いに感謝です。



▶︎伏見俊昭blog「Legend of Keirin」

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伏見俊昭

フシミトシアキ

福島県出身。1995年4月にデビュー。 デビューした翌年にA級9連勝し、1年でトップクラスのS級1班へ昇格を果たした。 2001年にふるさとダービー(GII)優勝を皮切りに、オールスター競輪・KEIRINグランプリ01‘を優勝し年間賞金王に輝く。2007年にもKEIRINグランプリ07‘を優勝し、2度目の賞金王に輝くなど、競輪業界を代表する選手として活躍し続けている。 自転車競技ではナショナルチームのメンバーとして、アジア選手権・世界選手権で数々のタイトルを獲得し、2004年アテネオリンピック「チームスプリント」で銀メダルを獲得。2008年北京オリンピックも自転車競技「ケイリン」代表として出場。今でもアテネオリンピックの奇跡は競輪の歴史に燦然と名を刻んでいる。

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