アプリ限定 2024/01/30 (火) 12:00 69
2023年末、ガールズケイリン選手3人が代謝制度により引退した。1期生の白井美早子、2期生の田仲敦子、12期の奥平彩乃の3選手だ。
今月の『すっぴんガールズ』ではガールズケイリン創世期の功労者である白井のメッセージを紹介する。
大阪出身の白井美早子は、妹と2人姉妹だ。小さいころから足が速く、小学生のころはリレーの代表選手として女子で唯一選ばれ優勝するなど、抜群の運動神経を発揮していたという。中学、高校でも陸上競技に熱中し、大学は陸上競技で進学したい志望校もあったそうだ。
しかし最初の躓きが高校3年生のときに起きた。
クラス対抗のバレーボール大会で他の生徒と接触。右足首の靭帯を負傷してしまい、左上腕から腱を移植した。大学進学を控えた大事な時期にケガで手術となり、陸上競技の成績は伸び悩んでしまう。行きたかった大学への進学は諦め、高校付属のびわこ成蹊スポーツ大学へと進んだ。
競輪との出会ったのは大学時代だった。進学したびわこ成蹊スポーツ大学の低酸素トレーニングに競輪選手が来ており、当時競輪のことは全く知らなかったが、興味を持った。
もうひとつのきっかけはゼミが一緒だった青木愛(元アーティスティックスイミング選手・2008年北京五輪出場)の存在だ。
「青木さんは年がふたつ上だけど、私が3年生のときに青木さんが復学されたことで一緒のゼミになりました。大学でも有名人で、北京五輪は自分もテレビで応援していました。ダイジェスト番組で青木さんを見ていたら、ちょうど永井清史さんが銅メダルを獲得した男子ケイリンの映像が流れたんです。ケイリンは日本発祥のスポーツで、女子の自転車競技もあるということをそのとき知りました。陸上競技では伸び悩んでいる時期だったので、心に響きました」
北京五輪終了後には一宮で行われたオールスター決勝(優勝・伏見俊昭)もテレビで観戦。競輪への興味はふくらむばかりだった。
「大学を卒業した後のイメージが湧いていませんでした。スポーツメーカーへの就職も考えたけどあまりピンと来ず…。女子の競輪はまだなかったけど、まずは自転車競技をやってみようと思いました」
そうして陸上競技から自転車競技に転向した白井。大学4年になると、大会にも出場するようになった。
「4年生のときの新潟国体で、JKAの方からエキシビションレースに参加してみないかと声をかけられました。タイミングがすごくよかったですね」
当時の日本自転車振興会(現・JKA)では女子競輪復活の動きがあり、2008年から各地の競輪場で女子の自転車競技者によるエキシビジョンレースを行っていた。白井もそのタイミングで声がかかったというわけだ。
大学卒業後の2010年秋にガールズケイリン1期生の募集が始まり、2011年冬に試験が行われた。白井は無事合格し、同年春に102期生として日本競輪学校へ入学した。
当時は教える側も教わる側も手探りだった競輪学校。学校生活はとにかく楽しかったと白井は当時を振り返る。
「競輪学校の思い出ですか…。楽しかったことが多かったけど、練習は苦しかったですね。とにかく乗り込み、バンクを120周することもありました。当時はきついし苦しかったけど、今思えばとても大事な練習だったと思います。あの乗り込み練習のおかげで、レースの周回中の追走技術は身についたと思う。日本競輪選手養成所になってからは乗り込みの練習が減っていると聞いています。追走が上手にできないとか、レース中の不用意な落車とかにつながっている気もします。私たちは基礎練習がしっかりできたことは良かったと思います。楽しかった思い出はガールズケイリン普及のイベントで全国各地に行けたことですね。とにかく同期に恵まれていました」
厳しくも楽しい学校生活だったが、卒業間近はケガに悩まされた。
「2月に伊東で行われた展示訓練のときです。バスで修善寺の競輪学校から伊東競輪場へ行くときギックリ腰になってしまい、椅子から立てなくなってしまいました。3月に松戸で行われた卒業記念レースも万全の状態で臨むことはできず…。このままの腰の状態では厳しいかも、と思っていました」
競輪学校を卒業し京都に戻ると、白井の腰の状態を心配した先輩からアドバイスを受け、手術を受けることを決断した。
「周囲の先輩から『デビューしたら長期間休むことはできない。手術するならデビュー前の時期のほうがいいんじゃない?』と。不安もあったけど、手術することにしました。だから2012年7月のデビュー戦(京王閣)も万全の状態ではなく、しっかり練習して臨めたわけではなかったんです」
競輪学校の在校成績は7位。華やかなルックスも相まって1期生の“広告塔”として注目を集め、周囲の期待は大きかった。デビュー戦からは4場所連続で決勝進出し、5場所目の広島では決勝入りは逃したが最終日の一般戦で初白星。その後もコンスタントに決勝進出と一定の成績は残したが、ケガの影響もあり飛び抜けた成果を挙げることはできなかった。
翌年からは素質と才能にあふれる後輩たちが続々とデビュー。車券には貢献するも、優勝になかなか手が届かない、悔しい状況が長く続いた。
すると再び白井を悲劇が襲う。デビュー5年目の2016年の夏、レースから離れたテレビ収録中にアキレス腱(けん)を切る大ケガを負ってしまったのだ。このケガで心にも大きな傷を負った。
「もう選手をやめようと思いましたよ。5月の松戸で2、2、2着の準優勝を挙げて、7月の名古屋では同期の藤原亜衣里さんがデビュー初優勝を達成した。自分も続こう、と思ったタイミングでのケガでした。メンタルは相当落ちこみました。またガールズケイリンに復帰する自分の姿がまったく想像できず、もう無理かなと諦めかけていました」
しかし、そんな本人の気持ちとは裏腹に、白井の復帰のため力を尽くしてくれる人たちの姿があった。
「支えてくれた周りの方々のほうが諦めていませんでした。川崎の関東労災病院の整形外科でお世話になったんですが、いろいろ声をかけてもらえて…。それでリハビリも頑張れました」
レース復帰は2017年3月小倉。万全の状態ではなかったが、復帰に踏み切った。
「競輪選手には代謝制度があるので、点数が取れなければクビになってしまいます。これ以上休んでしまうと、点数が危ない。だから走りながら調子を戻していくしかなかったんです」
なかなか予選を勝ち上がれない苦しい開催が続いたが、根気強く練習をして競走に臨んでいた。地道な繰り返しで少しずつ成績が上向き、同年12月のいわき平で悲願の初優勝を達成した。
「優勝は複雑でした。いわき平の決勝はアクシデントがあったので…。でもレース後に落車してしまった選手からも『おめでとうございます』って声をかけてもらえてホッとしました。すごく苦しい1年だったけど、最後に初優勝できたことはやっぱり強く印象に残っています」
しかし、またしても苦境は訪れる。選手生活の晩年は落車に泣かされることになった。
2022年7月の函館で左肩を負傷、同年9月富山で右肩を負傷。流行り病にもかかり、なかなか思い通りのトレーニングをすることができない日々が続いた。2023年は治療とリハビリの繰り返しだった。
「治療はつらかったです。最後の半年(2023年後期)は痛み止めの注射を6本打ったりしてレースに向かっていました。特に左肩がひどくて、発走機から出るのすらキツかった。『ダメかも』と思うとすべてが崩れてしまいそうで、気持ちを保つのに必死でした」
苦しいレースは続き、成績はなかなか復調しなかった。そして代謝制度により2023年後期をもって選手生活を終えることとなってしまった。
ラストランとなったのは12月松阪。この開催には、デビュー前から苦楽を共にした1期生も3人参加した。
「松阪の前にいろんな人にあいさつをしました。『これで最後か』と…。でも周りにいろいろ気を遣われるのは得意じゃないんですよ」と平常心でその日を迎えたという。
結果は3日間7着。車券に絡むことはできなかったが、最後まで全力でもがいてレースを終えた。松阪には多くのファンも訪れ、最後の勇姿を見届けた。白井はゴール後も送り続けられた声援に、“投げキッス”で応えた。
「最終日もレースが終わるまで涙は出なかったんです。でもレースを走り終えて、敢闘門に戻り、(同期の藤原)亜衣里さんの顔を見たら涙が出てきて…。亜衣里さんから『よく頑張った』って声をかけてもらって、涙が止まりませんでした。開催後、松阪競輪さんのご厚意で同期や大阪の後輩たちが駆けつけてくれていて、本当にうれしかったです。周りの人に恵まれた競輪人生だったな、とあらためて思いました」
こうして競輪選手としての生活は終わりを告げたが、これまでもガールズケイリン1期生として競輪の普及に努めてきた白井は引退後も競輪界に携わることを選んだ。1月には和歌山記念の中継やトークショーなどに出演し、すでに第二の人生を歩みだしている。
選手としては苦しい時期が長かった彼女。それでも胸を張って「ガールズケイリン選手になってよかった」と話す。
「ガールズケイリン選手になってよかったです。普通に生活していたら行くことがない日本全国に行けたし、いろんな出会いを通じて価値観、世界観が広がりました。友だちも今は全国各地にいます。選手生活の後半はケガで苦しかったけど、最後まで投げ出さないでよかったと思います」
ケガに振り回されたアスリート人生、厳しい選手生活だったことは間違いない。最後もケガが引き金で引退まで追い込まれてしまった。しかし、今は前を向いている。そして自身の苦労があるからこそ、今も現役を続ける同期や後輩たちを思いやる。
「現役選手にはケガに気を付けて頑張ってほしい。自分もケガの影響で選手生活が終わってしまったので…。最近レース中の落車が多いのは気になっています。ガールズケイリンはタテ脚勝負が基本。車券に貢献したい気持ちが出ていることはわかるのですが、真っすぐ踏んでケガのないようなレースを心がけてほしいです」
当初は「数年で終わる」とも言われたガールズケイリンだが、今や選手数が増え、女子だけの開催も大いに盛り上がった。GIも始まり、今後の発展に注目が集まる。
未来を担うガールズケイリン選手たちへ「この先20年、30年と続いて、たくさんの若い人から『ガールズケイリンをやりたい』って言ってもらえるようになってほしいです」と、変わらぬ明るい笑顔でエールを送った。
1期生33人でスタートしたガールズケイリン。白井美早子の引退で残された1期生は16人となった。彼女たちには、ケガをすることなく元気に1年でも長く現役生活を続けてもらいたい。
松本直
千葉県出身。2008年日刊プロスポーツ新聞社に入社。競輪専門紙「赤競」の記者となり、主に京王閣開催を担当。2014年からデイリースポーツへ。現在は関東、南関東を主戦場に現場を徹底取材し、選手の魅力とともに競輪の面白さを発信し続けている。