アプリ限定 2025/04/22 (火) 12:00 5
日々熱き戦いを繰り広げているガールズケイリンの選手たち。その素顔と魅力に松本直記者が深く鋭く迫る『すっぴんガールズに恋しました! 』。今回は19歳でガールズグランプリ初代女王に輝き、13年間トップを走り続けてきたガールズケイリン1期生・小林莉子選手(32歳・東京=102期)にインタビューを行った。昨年のGI『オールガールズクラシック』は決勝のスタートけん制で誘導を追い7着。今大会をリベンジの場とすべく、GIを勝つための試行錯誤を重ねてきた。
ガールズケイリン1期生の小林莉子は東京都あきる野市出身。小学校3年生でソフトボールに目覚めると、中学からスポーツの強豪・東海大菅生に進学。ソフトボール部で活躍した。
「ソフトボールは楽しかったですね。ずっと外野を守っていたんですが、自分たちの代にキャッチャーがいなかったので監督に言われてキャッチャーになりました」
厳しい指導に耐えバリバリの体育会系として高校時代を送り、3年生のときには全国大会で8位と好成績も残した。しかし2008年、北京五輪でソフトボール日本代表が金メダルを獲得したタイミングで五輪種目から除外されるという知らせが入った。小林は落胆した。
「つらいことがあってもソフトボールを頑張って続けていたのは、ソフトボールでオリンピックに出たかったからでした。五輪種目から除外されると聞いてからは何のために練習をしているのかわからなくなった。目標を失ってからは厳しい指導も苦しくなった」
五輪出場に代わる将来の夢は見つからなかった。部活を引退してからは、ぼんやりと過ごす日々が続いた。そんなとき、母親から突然『ガールズサマーキャンプに行ってみてはどうか? 』と提案されたという。
「最初は祖父がガールズサマーキャンプのチラシを見つけてきたそうです。それで母が私に『時間があるなら行ってみれば』と送り出してくれました。当時のサマーキャンプは参加費無料で交通費が支給されたので、気軽に参加できましたね。後々自転車競技について調べてみたら五輪種目だったので、興味が湧きました」
そうして高3の夏、伊豆の日本競輪学校で行われたガールズサマーキャンプに参加した。修善寺駅に着いたときの衝撃はいまでもよく覚えているそうだ。
「知り合いもいなかったので、1人で電車に乗って修善寺に行きました。そうしたらタクシー乗り場で加瀬(加奈子)さん、(藤原)亜衣里さん、(田中)麻衣美さん、(中川)諒子さんにいきなり声をかけられたんです。当時の加瀬さんは金髪で怖かった。男の人かと思って、同じガールズサマーキャンプに参加する人だとは思わなかったですよ。自分が言うのも何ですが(笑)」
思わぬ出会いに驚きながらも新潟組の4人と合流して日本競輪学校へ行くと、全国各地からいろんなキャリアを持った女子が集っていた。これから始まるガールズケイリンへの期待を胸に、練習がスタートした。
「全国からいろんな人が来ていたので、自転車を始めたきっかけを聞かせてもらいましたね。同級生の後閑百合亜(引退)、三輪梓乃(現・田口)もいて仲良くなりました。実際に練習で自転車に乗ってみたら楽しかった。近いうちに女子だけの競輪を始めたいという話を聞いて、まだどうなるかは分からなかったけど、自分も将来競輪選手になりたいと思いました。まずは自転車競技から始めてみようと」
地元へ帰ると、ガールズサマーキャンプで知り合った人から何人もの競輪選手を育ててきた実績がある富山健一(43期・引退)を紹介してもらい、弟子入りした。高3の秋以降は学校も休みになり、立川競輪場で毎日練習に打ち込んだ。
「家が裕福なわけでもないし、大学でソフトボールを続ける選択肢はなかった。実業団に入ってソフトボールを続けることも考えましたが、自転車に出会ってからは自転車の練習ばかりしていたので、実業団のセレクションは落ちてしまいました。もうそうなったら競輪選手になるしかないと思った。どんどん競輪への興味が大きくなっていき、調べるうちに男子選手の一番大きい大会(グランプリ)の賞金は1億円だと知った。自分はここで頑張るんだ、と思うようになりました」
しかしガールズケイリン1期生の募集や試験日はなかなか決まらず、小林自身も高校卒業後は浪人生活をするつもりだった。ソフトボール部時代にしていたマクドナルドのアルバイトに加え、近所のレストランでウェイトレスをしていた。
「試験の日程もまだわからなかったので、とにかく練習とバイトをしていました。朝バイトして、午前と午後は競輪場で練習、夜もバイトをして家に帰るという生活。レストランのバイトはヘマばかりしていましたよ(笑)。でも楽しかった。将来は選手をやりながらでもキッチンカーとかやりたいなって思っています」
その後、2011年1月に試験が行われ、同年2月末にガールズケイリン1期生(102期)の合格発表があった。小林莉子はガールズケイリン1期生として合格。競輪選手としての第一歩を踏み出した。
35人が同期として競輪学校に入学した。日々練習に打ち込んだ小林だったが、年上の自転車経験者たちに圧倒され、心が折れそうになったこともあったという。
「競輪学校に入ってすぐ、加瀬さん、諒子さん、中村由香里さん、渡辺ゆかりさんの同期のトップ組が強すぎたんです。自分も練習はしているけど、強くなるビジョンが全く見えなくて、互角に戦えるイメージが湧きませんでした」
小林は、担任を務めていた関谷敏彦教官に相談した。
「関谷先生から『もう一度考えろ、本当に強くなりたいのか』って聞かれたんです。自分は強くなりたいと即答した。先生は『他の人より長くもがくしかない』と教えてくれました。そこから自分は朝練習、夜練習、土日の練習も欠かさず続けました。練習が休みの日曜も、自分は外出したことは一度なかった。日曜も関谷先生がバイクを引いてくれたのでずっと練習していました」
ソフトボールで鍛えた根性で、小林はとにかく量をこなし経験不足をカバーした。
「競走訓練が始まってからは、強い加瀬さんが相手でもできるだけ長くもがくことを考えて臨みました。そういう練習と戦い方をしていたら自然と先行回数が増えていって、卒業するときには同期の中で一番先行回数が多くなっていました」
102期の在校成績は6位、卒業記念レースは4走全て主導権を奪う熱い走りを披露した。優勝はできなかったが、積み上げた努力はデビュー後に実を結ぶこととなる。
2012年7月、48年ぶりに復活した女子選手による競輪『ガールズケイリン』が平塚で始まった。開幕戦の中心は卒業記念レース優勝者である加瀬加奈子で、きっちり連勝で決勝進出を決めた。地元戦で気合が入る中山麗敏も連勝で勝ち上がり、決勝は2強対決かと思われた。
しかし、記念すべき開幕戦を制したのは小林莉子だった。先行する加瀬の番手に追い上げ、最後の直線で差し脚発揮。ガールズケイリン最初の優勝者に名を残した。
「うれしかったですね。学校を卒業してからも、これ以上はできないというほど自分を追い込んで練習した。優勝賞金は3日間トータルで36万円くらいだったかな。一瞬で消えましたが(笑)。バイトもしなくなってクレジットカードの上限額まで引っ張って生活していたので、賞金がうれしかった。家族にごちそうできたのはいい思い出です。あとは移動用のハードケースが5万円くらいして、同期の重光(啓代)さんにお金を借りていたので、すぐに返しました」
デビュー戦で優勝した後は予選敗退など悔しい思いをすることもあったが、10月の松戸で2回目の優勝をゲットした。
1年目のハイライトはやはり12月28日の『第1回ガールズグランプリ(京王閣)』だろう。同期7人で初代ガールズグランプリ優勝の名誉と、優勝賞金500万円を争った。
1枠の小林莉子は前を取ると、打鐘で仕掛けてきた加瀬加奈子の番手に入り、最終バック2番手の絶好展開。この好機を逃さず最終4角からしっかり前へ踏み込むと、抜け出して1着。ガールズグランプリ初代女王に輝いた。競輪学校時代に越えられなかった高い壁を、練習の成果で乗り越えた瞬間だった。
「競輪学校時代からコツコツ練習をした成果が出せました。在学中から、練習やレースで感じたことをノートに書き溜めていたんです。卒業前からデビュー後の目標を月単位で書いていました」
競輪学校時代に講義に訪れた村上義弘氏が話していた“目標はしっかり口にしていかないと実現できない”という言葉が印象に残り、それを実践していたという。
「村上さんの話が心に響いたので、ノートには2012年7月に『デビュー戦優勝』、12月には『グランプリ優勝』としっかり書いていたんですよ。本当にうれしい優勝でした」
まさに、有言実行のグランプリ優勝だった。
一方で小林はガールズケイリンの将来に危機感を感じていた。1期生しかいない開催は単調で、お世辞にも面白いとは言えなかった。2年目以降は毎年デビューしてくるルーキーたちとの対戦が待っていたが…。
「ガールズケイリンは当時、“3年で終わる、もって5年”と言われていた。自分を含めて1期生は危機感を強く感じていました。7月にデビューしてから、1期生だけのレースは盛り上がっていないと感じていた。2期生はもともと翌年7月デビューの予定だったのに、5月にデビューが繰り上がった。もちろん選手が足りないこともあるけど、1期生だけのレースで盛り上がっていないからじゃないかと…。2期生が入り強い選手も増えて、1期生vs2期生みたいな感じになって少しだけ盛り上がったけど、勝つ人はいつも一緒でつまらない。これはヤバいぞと思いました」
流れが変わったのは3期、4期の参戦だったと振り返る。
「3期、4期が入ってきてガールズケイリンは変わりましたね。スピードも上がったし、上がりタイムも変わった。道中一本棒みたいな単調なレースがなくなりました。みんな勝つために考えて、位置取りをしたりしてレースが面白くなったと思います」
小林自身も次々に登場するライバルを簡単には勝たせたくない、という気持ちは常に持ち続けた。セッティングを変えたり、戦法を変えたりして、トップクラスでいるための努力は惜しまなかった。
ガールズグランプリ初代女王の小林でも、第2回グランプリの出場権は得られなかった。その後もガールズケイリンのレベルは上がり続け、第3回は補欠、第4回は3着(優勝は小林優香)。第5回から第10回まではグランプリに出場できなかった。
以前のガールズケイリンのビッグレースであった『ガールズケイリンコレクション』も、出場回数は多かったが優勝は2022年8月のアルテミス賞の1回だけと、やや物足りない成績だ。
ガールズケイリンでは2023年から新たにGIが新設された。しばらくビッグタイトルからは離れている小林莉子だが、G1優勝、そしてグランプリ出場を虎視眈々と狙っている。
勝つための試行錯誤を続け、昨年11月にはフレームを長年乗り続けたカラビンカからブリヂストンに変更。初めはなかなかフィットせず成績も安定しなかったが、今年に入ってからは自転車との一体感が出て、成績は上向いてきた。
「自分はセンスがあるわけではない。練習することや研究することを辞めてしまえばすぐに成績は落ちると思います。自転車を変えたのは使用期限が切れるという理由もあるけど、新しい自転車に乗ることで変化が欲しかったから。メーカーを換えたら全くの別物で、初めて自転車に乗ったときのような感覚だった。でもリセットして昔の乗り方とかを試してみて、少しずつ方向性がつかめた。サイズもいろいろ試したけどSサイズが自分には合っている。新しい自転車に変わることはチャンスだと思います」
競輪選手に落車はつきものだが、ケガに強いのも小林莉子の特徴だろう。大きなケガは17年7月松戸と19年8月名古屋での鎖骨骨折、23年6月岸和田の脳しんとうが挙げられる。落車は多い一方で、この13年間長期欠場はない。
「落車で休まないことには理由がある。休みたい気持ちはあるけれど、休んだら今の位置に戻れなくなるような気がして…。休んでいる時間にもみんな練習しているから、差がついてしまうことが怖いんです」
たくましい印象とは裏腹に、走り続ける理由は“不安”にあった。それは小林莉子の研究熱心さから来るものだ。
「普段からテレビはあまり見ず、ガールズケイリンのレースを全部チェックしています。ケガをしている時もレースは見るので、休んでいると不安になる。だから休まないんです。骨を折った所は痛いけど、それ以外のところは動きますから」
ガールズケイリン1期生として、24年2月に通算1000走一番乗りを達成。
「デビューしたときは月にレースが1開催しかないときもありました。最初のころはどうなるかと思ったけど今は開催がすごく増えて、1000走も走れたことは本当にうれしいですね」
さらに今年4月の名古屋では、ガールズケイリン通算5人目となる通算500勝も達成した。
「500勝は達成したときはうれしかったけど、先に500勝しているメンバーを見たときに自分はまだまだだなと。もっと頑張らないといけないとすぐに思いました。後からデビューした選手に先を越されていることは悔しいです」
ガールズケイリン1期生というプライドは、今も心に秘めている。積み重ねた500勝のうち、最も思い出に残っているのは22年6月の平塚競輪『ALL GIRL'S 10th Anniversary』初日だ。小林は“期待枠”と呼ばれる1R1番車に抜擢された。
「ガールズケイリン10周年記念開催の1R1番車は、番組編成の方の期待も感じて光栄でした。ガールズケイリン開幕戦も最初のレースで1番車だったんですよ。緊張したけど勝ててホッとしました。あの開催には特に思い入れがあります。お客さんはガールズケイリンだけを見に来てくれていて、検車場にはガールズ選手しかいない。10年前には予想できなかった景色を見ることができて、感無量でしたね」
ガールズケイリンの始まりから中心にいる小林だからこそ、今のガールズケイリンに感じることもある。
「自分のスタートラインは“強い人に勝ちたい気持ち”で、ここまで頑張ってやってきました。最近の新しい選手にはその気持ちがまだ少ないように感じます。いきなりデビューしてすぐに児玉碧衣のような強い選手と対戦することは大変だと思うけど、いろいろできることをやってみてほしいですね」
男子と違ってラインのないガールズケイリンは、レベルアップを求めて所属している府県とは違う環境で練習する選手もいる。
「ガールズは県外移動しての練習もやりやすいと思うので、いろんな環境で経験を積んでほしい。力の差があっても、少しでも勝ちに近づこうとにガツガツした姿勢があるといいのかな。自分は今でもガツガツしていますから。いろんなタイプのガールズケイリン選手がいるので、自分のなりたいタイプとか戦法の選手を研究するのもいいと思います」
若手に貪欲な姿勢を求める一方で、あの“超新星”には舌を巻く。
「126期の仲澤春香さんにはびっくりしました。大宮で太田りゆちゃんと対戦したとき、まくられて厳しい展開になったけど、最後まで諦めないレースをして、最後に交わしていましたよね。他の選手にも、『絶対に着外にならない』という強い気持ちで頑張ってもらいたい。競輪には代謝制度があるので、成績不振が続くとクビになってしまう。巻き返すのはなかなか難しいので、頑張れるうちに頑張ってもらいたいです」と勝負敵でもある後輩へ熱いエールを送った。
そしてさらなるガールズケイリン発展を願うなかで、運営面にも思いがある。
「ガールズケイリンも10年が過ぎて、いろいろ変える時期だと思います。個人的にはフレームを男子と同じ鉄にしてほしい。今のカーボンフレームだと体の小さい選手には不利で、鉄のフレームなら自分の体に合ったものが作れると思う。ガールズケイリンの初期は華やかさが求められてカーボンフレームにディスクホイールだったけど、いまは選手を増やしていく時期だと思う。カーボンフレームは値段が高いので、ガールズケイリン選手を目指すうえでハードルになっているのではと感じます。鉄のフレームにしても問題はないと思います」
いよいよ今年最初のGI・オールガールズクラシックが迫っている。昨年のオールガールズクラシック決勝のスタートけん制を覚えているファンも多いだろう。先頭誘導員との間隔が大きく空いていくなか、追いかけたのは小林莉子だった。
「昨年の決勝は先頭誘導員を追わされたことよりも、面白くないレースになってしまったことが悔しかった。せっかく参加選手みんなでいいレースをして、決勝までのレースは面白かったのに…。決勝がつまらないレースになってしまったのは、ガールズケイリンのトップとしてあってはならないことだと思います」
誘導を追って前受けから逃がされる展開になり、結果は決勝7着だった。今年はリベンジの舞台にしたいところだ。
「今後、同じように先頭誘導員を追う展開で前受けになっても、そこから勝てるビジョンを作りたい。そうしないとGIの先のグランプリは勝てないと思うので」
トップ選手が集うGIは、勝ち上がりが難しい。もちろん小林莉子にとっても例外ではないが、GIがガールズケイリン全体に好影響を及ぼしていることを心から喜ぶ。
「GIができてからガールズケイリンのレベルが一段階上がりましたよね。決勝まで勝ち上がるのが大変ですが、やりがいも上がりました」
競輪の売上増加に伴い、ガールズケイリンの賞金額も増えている。小林莉子が勝った最初のグランプリの賞金が500万円だったのに対し、オールガールズクラシックの優勝賞金は900万円(副賞込み)だ。
「賞金も上がってガールズケイリンはより魅力的になりましたね。オールガールズクラシックは900万円ですよ! これはすごいこと。自分も勝つための準備はしっかりしていきたいです」
19歳でデビューした小林も、今は32歳。調整には以前より気を配るようになった。
「30代になってから疲れやすくなったので、生活面を変えています。食事も昔はカップ麺やポテトチップス、甘いジュースなどもあまり気にしていなかったけど、もう暴飲暴食はやめました。宿舎では自分でできる体のケアをしている。グランプリとかGIを勝つ選手と自分は土台が違うので、今のままでは上にいる選手に勝てない。しっかり調整して臨みたいですね」
選手生活は今年7月に14年目に突入する。まだまだGI優勝、グランプリ優勝の夢は諦めない。勝つこと以外にも、1期生として後輩を増やしていく使命もある。ガールズケイリンの前身『女子競輪』は、レースが単調で盛り上がらないという理由で15年で終わってしまった悲しい過去がある。
「ガールズケイリンをもっとメジャーにして盛り上げていきたい。高校生のなりたい職業にガールズケイリン選手が入るくらいを目指したいですよね。競輪選手は自分の努力次第で上に行ける、夢のある仕事。自分も憧れられる存在になりたいですね」
ガールズケイリンがもっと大きくなるためにーー。1期生小林莉子の挑戦はまだまだ続いていく。
松本直
千葉県出身。2008年日刊プロスポーツ新聞社に入社。競輪専門紙「赤競」の記者となり、主に京王閣開催を担当。2014年からデイリースポーツへ。現在は関東、南関東を主戦場に現場を徹底取材し、選手の魅力とともに競輪の面白さを発信し続けている。