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平原康多の勝ちペダル

【平原康多×武田豊樹(前編)】“関東は1つ”の歴史を動かしたゴールデンタッグーー強く並んだ2本のペダル

アプリ限定 2025/07/15 (火) 18:00 18

年齢も育った環境も違う2人が、同じ競輪観を持っていました。最初はライバルとして戦っていた2本の糸は、導かれるように交錯すると、とても強固な鎖となったのです。関東ゴールデンタッグと呼ばれた2人のストーリーは、競輪界の歴史に名を残しました。平原康多コラム「勝ちペダル」の最終回は、前後編に分けて戦友・武田豊樹選手との対談で締めくくります。後編ではお二人のサイン入りグッズもプレゼント!
【インタビュー・編集=松井律(日刊スポーツ)】

競輪界の歴史に名を残した、武田豊樹(左)と平原康多の初対談(撮影:北山宏一)

◆無我夢中のスタートライン 平原康多と武田豊樹の原点

ーーこのお2人が顔を合わせて対談するのは、初めてではないですか?

武田 そうですね、初めてだと思います。

ーーまず平原さん、23年間の現役生活お疲れ様でした。

平原 ありがとうございます。

ーー生活が激変したと思いますが?

平原 今は色々な所に呼んでいただいて、楽しくやらせてもらっています。

ーーでは早速、お2人のストーリーを振り返っていきたいと思います。デビューは平原さんが1年早かったですね。

平原 そうですね。

ーーデビュー当時のお2人はどんな選手を目指していましたか? 武田選手の88期は同期に山崎芳仁選手を筆頭にすごい選手がそろっていましたし、競争も激しかったと思います。

武田 僕はデビューが30歳ですから、“とにかく10年間で結果を出さない”といけないと思っていました。不安を抱えていたし、誰を目指すとか、どんな選手になりたいというよりは、自分にいっぱいでしたね。

平原 僕は自己肯定感がなく、自分がGIで戦うような大それたイメージは全くありませんでした。やはり自分にいっぱいだったのだと思います。

デビュー当時は自分がGIで戦うようなイメージは持てなかった(撮影:北山宏一)

ーー平原さんは高校時代から自転車競技で名を馳せていましたが、それでも自信はなかったですか?

平原 全然なかったですよ。自分の実力は自分でよく分かっていましたから。

ーーS級に上がって特別競輪に出始めたのは、ほぼ同時期になりますか?

武田 ほぼ同じころですよね。半年ぐらい僕が早かったのかな。

ーーA級時代にお2人の対戦はありますか?

平原 記憶にないですね。

武田 同じあっせんになった事がないと思います。

◆「康多に先行されて仕掛ける勇気がなかった」ーー恐れと敬意が交差したライバル時代

ーー武田選手のデビューしてからの活躍を平原さんはどう見ていましたか?

平原 「凄かった」としか言いようがないですよ。脚質が当然違うというのもありますけど、自分に出来ない走りをしていたから余計にすごみを感じましたよね。

ーー武田選手は地足が武器ですよね。これだけやり合って、まだ踏めるのかというレースを何度も見ました。

武田 スピードスケートの頃から持久戦で強くなるように考えてトレーニングしていました。その影響もあって、自転車でも同じように持久戦の方が強かったと思います。

ーー武田選手はどれくらいから平原さんを意識しましたか?

武田 早い段階で知ってはいました。A級でのレースで後ろの選手が千切れるのも見たし、切れ味の凄い選手だなという印象でした。

平原康多の印象は対戦すると怖い選手だろうなというイメージだった(撮影:北山宏一)

ーー若かりし平原さんは、かなり荒っぽいレースもしていましたね。

武田 そういうシーンを見ると、康多のレースに対する姿勢に感じるものがありました。対戦すると怖い選手だろうなというイメージでしたね。

ーー最初は別線で戦っていましたよね。当時は関東の中で埼京、栃茨、上甲信越と、はっきり細分化されていました。

平原 武田さんには栃茨で常に神山(雄一郎)さんがいましたし、当時の僕は手島(慶介)さんとか後閑(信一)さんとの連係が多かったです。

武田 もちろん同じ関東なので敵ではないんですけど、レースの前後に仲良くするような関係ではなかったですね。当時はまだ仲間意識というのはなかったです。

ーー対戦していた時はお互いにやりにくい相手でしたか?

平原 それはないですね。僕は挑む立場でしたから、プレッシャーはありませんでした。僕よりも武田さんは結果を求められていたので大変だったと思います。

武田 うん、僕の方がやりにくかったと思います。対戦成績だと負けてるんじゃないかな。

ーー受けて立つ方がきつい部分はありますよね。

武田 康多に先行されて、仕掛ける勇気が出なくて、まくり不発とか覚えていますね。

◆“平原康多が使う道具は流行る”という定説

道具へのこだわりは強かった平原康多(photo by Shimajoe)

ーー平原さんは、年に何台もフレームを作るほど道具へのこだわりが強かったと思います。お互いのセッティングは気にしていましたか?

武田 スピードスケートも道具を使うタイム競技だったので、自分も道具に対してこだわりはあるんですけど、競輪選手になってからはとにかく時間がなくて、体をいい状態で維持することと、ケアが優先でしたね。

平原 武田さんが開催中にセッティングをいじっているのは見たことがないです。来た時の自転車をそのまんま乗っているという感じでした。でも、本当に体のケアに関してはスゴかったです。

ーー武田選手から見て、平原さんの競輪場での雰囲気というのはどのように映っていましたか?

武田 常にいいものを求める姿はよく見ました。あとは決断が早い印象がありました。

ーー平原さんが使う道具は流行るというのが定説でした。だから噂を聞きつけた売店が大量に仕入れると、もう平原選手はその部品に見切りをつけていて、大量に在庫を抱えたなんて話も聞きました(笑)

平原 ああ、ありましたね、ははは。

◆ 「まとまろう」神山雄一郎の言葉が生んだ“関東のゴールデンタッグ”

(右から)武田豊樹ー平原康多ー神山雄一郎(撮影:北山宏一)

ーー当時の関東は、神山さんがリーダーとしてまとめている感じだったのですか?

平原  神山さんは僕らが上で戦い始めたころには追い込みになっていました。凄い人なのに、口うるさい事を言わなかったですね。ふわっとしているというか、GIに行けばいるのが当たり前の人という感じでした。

ーー当時、2人に厳しく助言するような人はいましたか?

平原 僕に色々と教えてくれたのは後閑さんでしたね。

武田 僕はデビューした年齢が遅かったこともあって、あまり周りの先輩には言われなかったですね。自分で考えながらやっている事が多かったと思います。それでも神山さんや後閑さんがいたから緊張感を持ってやれたという部分はあります。

ーー当時の関東は勢力的にそこまで強くなかった時代でした。

武田 GIに行っても、茨城からは僕1人で参加なんてこともありました。当時はとにかく近畿が凄かった。村上(義弘)君は1人でも強いのに、稲垣(裕之)、川村(晃司)、藤木(裕)といった自力が揃っていた。手がつけられなかったです。

ーー他にはどんな相手が怖かったですか?

平原 あとは新田(祐大)とか、浅井(康太)とよく戦っていた感じでしたね。

ーー近畿に対抗すべく、関東のゴールデンタッグが誕生するわけですが、きっかけは神山さんの一言だったんですよね。

平原 最初は2008年びわこの宮記念杯(高松宮記念杯競輪)だったかな。神山さんがまとまろうと提案してくれたんですけど、その時は手島さんもいたんです。

武田 ああ、いたね。

平原 でも、手島さんが4番手を納得しなくて、結局は別線で戦ったんですよ。

◆プライドを超えた信頼関係「毎回喜び合えるとは思わなかった」

どっちが前で、どっちが勝っても、周りから認めてもらっていた(撮影:北山宏一)

ーーGI決勝だと2009年オールスターで連係しています。この時は平原さんが逃げて武田選手が神山さんとワンツーでした。2人が連係するときは、どうやって前後を決めていたんですか?

平原 だいたいは自分に決めさせてくれていたと思います。

ーー前でも後ろでも?

平原 そうでしたね。

ーー自力でずっと戦ってきた2人ですから、前を回ることへのプライドがあったと思います。後ろを回るとなった時に、引っかかりはないものなんですか?

平原 初めての連係は僕が前でした。でも、最初にGI決勝で連係した時は、神山さんの一言で武田さんが前になりました。僕としては、そういう選択肢も許されるんだな、みたいな感覚でしたね。

ーー全体的に見ると、後ろを回った方の勝率が高かったと思います。逆に、ここで前はイヤだなと思ったことはありますか?

武田 統計ではそうかもしれないですけど、前を回っても押し切ってやろうというつもりで戦っていましたから。そのために苦しい思いもして準備しているわけで。

過去のレース映像を懐かしそうに見入る2人(撮影:北山宏一)

ーーなるほど。そこにこのタッグの強さを見た気がします。一般的には、このラインでは誰が勝つための作戦を組むのか、というのが外からも見えるものです。でも、2人には上下がなく、均衡が取れていたんですね。

平原 どっちが前で、どっちが勝っても、周りから認めてもらっていた。そういう段階だったんじゃないですかね。

ーー以前、平原さんが「武田さんの優勝を自分のことのように喜べた」と言っていました。たとえば、1着賞金が1億円で、2着が2000万円だとしてもそう感じられたと。8,000万円も相手が自分よりもらっていたら、ちょっと恨んだりしてもおかしくないと凡人の私は考えてしまいます。

平原 ははは、お金だけではないんですよ。

武田 康多とはGIでどちらが優勝しても、その後に食事に行って反省会みたいなことをしていました。毎回、こんな風に喜び合えるとは思ってもいなかったです。

ーーまたいつでも勝てるみたいな自信があったのですか?

武田 そんなことはないですよ。「これが最後かもな」なんて話もよくしていましたから。

◆西の猛者に挑んだ“関東タッグ”「重い責任を背負って前を回ることも」

小倉G1「競輪祭」
2014年11月24日 最終日 11R S級決勝
(協力:公益財団法人JKA 提供:小倉競輪場)

ーーお2人の絆の強さを特に感じた年がありました。2014年です。その前年から選手会騒動(SSイレブン)があり、走れない自粛期間もあった年です。でも、復帰してすぐに武田選手がオールスターを勝ち、平原さんが競輪祭を勝ち、グランプリは武田選手が勝ちました。

平原 やっぱりこの時期に絆がさらに深まったというのはありますね。

武田 僕はその年の競輪祭決勝が、今までで一番緊張したレースかもしれないです。

ーー武田選手はグランプリを決めていましたが、平原さんは優勝しかグランプリに乗るチャンスがない状況でしたよね。

平原 そうです、僕は優勝だけでした。

武田 もちろん自分が勝つためにやっているんですが、競輪祭の季節というのは特有の考え方がありますよね。

ーーグランプリに誰と乗りたいか、ですね。

武田 3番手の神山さんもその競輪祭の結果次第という状況だったと思います。

平原 確かにそうでしたね。

武田 言い方は難しいですけど、ここはしくじれないぞ、というプレッシャーがハンパじゃなかったですね。

ーー見事に平原さんの優勝が決まりましたが、武田選手も引っ張るだけではなく、ゴールまで勝負していたのがスゴいと思います。後ろから出ていって下さいみたいな走りではなかった。

平原 もちろん状況によっては、相手もいることなので、ここからだと自分は持たないなという場面で行くこともありました。でも、ラインが4車だったり、重い責任を背負って前を回ることもありますから。

武田 康多と一緒にグランプリに乗りたい気持ちは当然ありました。でも、相手がいることですし、警戒もされている。特に近畿地区が強かったから、そこに対しての闘争心みたいなものが常にありましたね。漢字の競輪。いい時代だったと思います。

東の武田(撮影:北山宏一)、西の村上(photo by Shimajoe)と何度も言われいていた

ーー東の武田、西の村上、というフレーズは何度も使われました。

武田 村上君の場合は、周りにも競輪を分かっている選手がたくさんいたので、こちらは勝ち上がるのも大変でした。

ーー近畿は次々に斬り込み隊長が出てきましたからね。

武田 村上君は誰もいなくなって、一人になっても怖かった。やっぱり必ず意識してしまう相手でした。

平原 当時は本当に近畿がまとまっていた気がします。

ーーしかし、近畿にとっても、平原ー武田というタッグはイヤな相手だったはずです。大きなレースの大事な場面で何度もワンツーを決めていました。

武田 もちろんワンツーが決まるというのは自分もうれしいけど、お客さんに貢献するという点でもいいことだと思うんです。やっぱりお客さんに喜んでもらいたいじゃないですか。

ーーそういった意味では、ものすごい貢献度だったと思います。競輪祭では3年連続で2人がワンツーなんて時期もありました。

武田 その3回以外にも何度もありましたよね。2人で決まるとうれしかったですね。

◆準決勝を先行で勝負できる度胸があれば決勝も戦える

取手G1「全日本選抜競輪」
2017年2月18日 3日目 12R S級準決勝
(協力:公益財団法人JKA 提供:取手競輪場)

ーー先ほど、競輪祭決勝が武田選手の一番緊張したレースというお話がありました。平原さんは武田選手との連係で、そういうレースはありましたか?

平原 あります。すごく鮮明に記憶に残っているのが、2017年の全日本選抜(取手)ですね。

ーー武田選手の地元ですが、優勝は平原さんでしたね。あの決勝はすごかったです。三谷竜生選手に競り勝って、さらに新田祐大選手のまくりにスイッチして直線一気。最後の4コーナーは新田選手の優勝だと思いました。

平原 そうでしたね。でも、一番緊張したのは準決勝だったんです。

準決勝12R

車番選手名府県年齢
1郡司浩平神奈川9926
2平原康多埼玉8734
3原田研太朗徳島9826
4脇本雄太福井9427
5武田豊樹茨城8843
6神山拓弥栃木9130
7金子貴志愛知7541
8石井秀治千葉8637
9大塚健一郎大分8239

ーー確かにすごいメンバーですね。 

平原 郡司がいて、ワッキー(脇本)もいて、この頃は石井秀治も強かった。武田さんの地元だし、すごく責任を感じました。結局、僕が先行したんですよ。

ーーこのメンバーで先行して残ったんですね。GIの準決勝で先行できるかが、超一流かどうかの判断基準とよく言われますね。

武田 先行で勝ち上がれたら、決勝でも勝てるんじゃないかなとは思っていました。

平原 レース後に武田さんと飲みながら、そんな話をしていたのを覚えています。準決勝を先行で勝負できる度胸があれば、決勝も戦えるみたいな。

ーーそれは共通認識だったんですね。

武田 康多とは考え方を共有できる部分が多かったと思います。

レース後に飲みながら、競輪への想いをぶつけ合った(撮影:北山宏一)

(※文中敬称略)

この2人の連係がきっかけで「関東は1つ」の流れが生まれたーーそんな熱い関係性や競輪観、後輩への想いを語る後編は、7月23日(水)公開予定。
さらに、平原康多さん&武田豊樹選手のサイン入りスペシャルグッズが当たるチャンスも! お楽しみに!

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平原康多の勝ちペダル

平原康多

Hirahara Kota

埼玉県狭山市出身。日本競輪学校87期卒。競輪選手・平原康広(28期)を父に持ち、その影響も受けて高校時代から自転車競技をスタート。ジュニア世界自転車競技大会などで活躍し、頭角を現していった。レースデビューは2002年8月5日の西武園。同レースで初勝利を記録。2009年には高松宮記念杯と競輪祭を制し、2010年も高松宮記念杯で勝利。その後もGⅠ決勝進出常連の存在感を示し、2013年は全日本選抜、2014年と2016年には競輪祭、2017年も全日本選抜などで頂点に輝く。最高峰のS級S班に君臨し続け、全国の強者と凌ぎを削っている。

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