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伏見俊昭のいつだってフロンティア!

【伏見俊昭と東西王座戦】今じゃ考えられない伝説の作戦、そして有坂直樹の見たことのない裏の顔…

2023/03/31 (金) 18:00 30

 netkeirinをご覧の皆さま、こんにちは。伏見俊昭です。
 2月はGIIレースの「ウィナーズカップ」が開催されました。今回はGIIレースにちなんで2002年〜2012年まで毎年2月に開催されていた「東西王座戦」について、思い出をお話しようと思います。

伏見俊昭選手(撮影:島尻譲)

高松宮記念杯競輪のトライアル競走だった東西王座戦

 現在では開催されていませんが、東西王座戦は「高松宮記念杯競輪(GI)」のトライアル競走の位置づけとしての大会でした。競輪では全国を8地区に分けますが、東日本は北日本、関東、南関東の3地区だけ。3地区3人ずつで3分戦ならきれいに収まるけど、例えば北日本5人、関東3人、南関1人になったら、5人で並ぶとチャンスが減っちゃうので、北日本同士でも別線やむなしです。その時は北海道支部、青森支部、福島支部に分かれることになります。だから多少…気を遣うことはありますね。

「何、この人…」になっていたかもしれない、とんでもない作戦

ナショナルチームで活躍していた渡邉一成選手(撮影:島尻譲)

 一番記憶に残っているのが伊東競輪場で行われた2006年第5回大会です。
 決勝戦には僕、岡部(芳幸)さん、(渡邉)一成君、山崎(芳仁)くんの福島4人が乗りました。前年12月にヤンググランプリを優勝したばかりの山崎君はもちろん、ナショナルチームで活躍していた一成君も急成長していて、88期の勢いがあった。迷うこともなく4人で結束することになり、一成君ー山崎君ー僕ー岡部さんの並び。それが一番自然でした。

 これですんなり回れれば楽なレースになりそうだなと思ったのですが、群馬の手島(慶介)さんが『ドン競り』のコメントを出したんですよ。「さあ、どうする」って福島4人で作戦会議。

当時最強の自力型で恐れられていた手島慶介氏(写真提供:共同通信社)

 その時に、僕が今じゃもう考えられないような突拍子もない作戦を立てたんです。一成君はダッシュ力がある、山崎君は強地脚、その2人を全面的に信頼した内容でした。

山崎君がまず前に出る。
そこで一成君が仕掛けて手島さんを千切る。
一人で来た一成君の番手に山崎君が飛びつく。

 このとんでもない作戦を3人が賛同してくれたんです。手島さんは当時、最強の自力型で脚があるから一成君から離れないかもしれない。山崎君もカマシに飛びつかないといけないから脚を使う。そんなリスクがあるのに「福島ラインの作戦が決まるなら」ってすぐ賛同してくれたんですよ。リスクがあるとは思いつつも、なぜか当時の福島メンバーなら成功するという自信もありました。

その後大出世した一人、山崎芳仁選手(撮影:島尻譲)

 レースは一成君が手島さんを千切ってカマし、それに山崎君が飛びついて手島さんは自分のところに降りてきましたが、それをさばいてゴール前は福島4人の争いに。結果は山崎君が優勝し、2着が僕で3着は岡部さん、そして4着に一成君で見事に福島4人で上位を独占することができました。作戦が決まってとてもうれしかった。一成君と山崎君は「あんなにうまくいくとは思わなかった」って喜んでくれたし、岡部さんも「よかった」って言ってくれて。今までのなかでも一番作戦がうまくいったレースで、ベストバウトですね。

 これは一成君と山崎君が強かったからできた作戦。予想どおりこの後、2人は大出世しましたよね。でも今思うと、手島さんが千切れずに、山崎君も飛びつきに失敗していたら番手をすんなり回った手島さんが優勝して、福島4人とも飛んでいたかもしれない。そしたら福島の3人は僕に対して「突拍子もない作戦を立てて、何、この人…?」ってなっていたと思います。いやぁ、本当うまくいってよかったです(笑)。

レース映像でプレイバック!
2006年2月26日 伊東競輪「東西王座戦 東王座戦」最終日 11R 決勝


優しい先輩・金古将人に勝ってほしかった悔いの残る一戦

 一方で苦い思い出になってしまったのは、2003年の第2回大会。
 北日本は6人が決勝に乗ったので、福島3人で並びました。先頭が僕で番手は選手会でエラくなって走ることはない選手の金古(将人)さん、3番手が岡部さんでした。兄弟子の岡部さんはもちろんですが、金古さんにもとてもお世話になっていたんですよ。その頃は特別競輪に一緒に参加していた僕、金古さん、岡部さん、(佐藤)慎太郎の4人でよく合宿に行っていましたし、レースで一緒になればいろいろアドバイスをもらいました。

第2回大会では悔いが残る結果になってしまった(撮影:島尻譲)

 以前のコラムでもお話しましたが、当時の北日本は打ち上げの酒盛りが定番で、もう飲めないってなっている僕に「部屋帰って休んでろ」って。ほかの先輩から飲まされないようによく助け舟を出してくれた優しい先輩。金古さんは生まれも育ちもいわき。いわき平と言えば金古さんだったので、もちろん自分の優勝が一番ですけど、金古さんに勝ってもらいたい気持ちもすごく強かったんです。それなのに先行することができずに、金古さんは落車してしまうしで…本当に悔いの残る一戦になってしまいました。

有坂直樹の裏の顔を見てしまった!?

 2007年、宇都宮で行われた第6回大会は僕は決勝戦に乗れなかったんですけど、強烈な思い出があります。

 それは有坂(直樹)さんです。

血の気の多かった時代の有坂直樹氏(写真提供:共同通信社)

 優勝したのは(佐藤)友和君。有坂さんは何か道中、不利があって8着でした。福島の選手も決勝に乗っていたのでレース後、自転車を取りに敢闘門付近に行った時、有坂さんは興奮していて目を血走らせ、悔しさを爆発させていました。なんか変な物でも飲んだり食べたりしたんじゃないかって思うくらい(笑) 。あれほどキレている有坂さんを見たのは初めてで、今でも忘れられないくらい強烈でしたね。有坂さんとは昔から仲が良くて、いつもなら「惜しかったですね」などと声をかけるのですが、この時は声どころか近寄ることすらできなかったです。

 今でこそ白い歯、笑顔で競輪解説をしている有坂さんですがこの時は、ヤバい筋の人かと思うくらいの形相で迫力がありすぎました。でもこれが勝負師なのかなと。有坂さんはその前年にKEIRINグランプリを優勝し、東西王座戦の後、4月に平塚の日本選手権競輪でGI初優勝を果たしました。「全員ぶっ倒す」くらいの強い感情を持って2ヶ月間、練習に励んだ結果が、日本選手権で優勝という結果を残せたのかもしれないです(笑)。

現在は白い歯、笑顔で競輪解説をしている有坂直樹氏(右)

 平塚では準決勝で有坂さんと一緒のレースでした。僕はぶっ倒されたくないから頑張りましたよ(笑)。その甲斐あってか、僕は決勝に乗れなかったけど有坂さんは決勝に乗ってくれました。「この優勝は準決勝で伏見が頑張ってくれたおかげ」って言ってくれて。有坂さん愛用のマキノのフレームを作ってくれたのはとてもうれしかったです。あの時、必死で頑張ってよかったなって思います(笑)。

次走の立川に意欲を見せる(撮影:島尻譲)

 次は4月5日〜立川競輪で出走予定です。トレーニングやケアをして、しっかり走り切りたいと思います。応援よろしくお願いします。



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伏見俊昭

フシミトシアキ

福島県出身。1995年4月にデビュー。 デビューした翌年にA級9連勝し、1年でトップクラスのS級1班へ昇格を果たした。 2001年にふるさとダービー(GII)優勝を皮切りに、オールスター競輪・KEIRINグランプリ01‘を優勝し年間賞金王に輝く。2007年にもKEIRINグランプリ07‘を優勝し、2度目の賞金王に輝くなど、競輪業界を代表する選手として活躍し続けている。 自転車競技ではナショナルチームのメンバーとして、アジア選手権・世界選手権で数々のタイトルを獲得し、2004年アテネオリンピック「チームスプリント」で銀メダルを獲得。2008年北京オリンピックも自転車競技「ケイリン」代表として出場。今でもアテネオリンピックの奇跡は競輪の歴史に燦然と名を刻んでいる。

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