2022/05/29 (日) 18:00 11
netkeirinをご覧の皆さま、こんにちは。伏見俊昭です。
前回のダービー(日本選手権競輪)を語ったコラムではさまざまな方から「よかったよ」と反響があり、とても嬉しかったです。なかでもせーちゃん(中川誠一郎)は爆笑したと言ってくれて、「やった! せーちゃんを笑わせたぞって(笑)」とガッツポーズです。今回は6月に開催される「高松宮記念杯競輪(GI)」について、思い出のレースをお話しします。
高松宮記念杯競輪は、第1回(1950年)から61回大会(2010年)まで2011年3月に廃止された滋賀県の大津びわこ競輪場で開催されていました。毎年GIがあり、記念開催はなく当時はFIにも呼ばれなかったので、『高松宮記念杯競輪=大津びわこ競輪場』の思い出が強いです。
今振り返ると、まず思い出されるのが「すっぽん鍋」。
びわこ競輪場の選手食堂にはほかの競輪場にはない別注メニューがありました。その中にすっぽん鍋があり、以前のコラムでお話ししたように北日本は全員で食事をする慣わしがあったので、前検日には一匹10,000円のすっぽんを全員揃って食べました。8〜10人で3鍋くらいだったかな。そのほかには別注でフルーツがあって、メロンが一玉で4〜5,000円くらい。1人一玉は多いので、2人で分けて食べましたね。
宮記念杯は連続出場も何度か途絶えているし、決勝3着が最高着順。僕自身あまり活躍できていないので、印象に残るのは食堂のメニュー(笑)と他の選手のレースが多いです。
まずは同期の太田真一(埼玉)君が先行逃げ切りで優勝した、1999年第50回大会決勝。太田君はいずれGIを獲るだろうなとはずっと思っていましたが、まさか500バンクで先行逃げ切り…とは思ってなかったので衝撃的でした。
500バンクは直線が長くて走り方が難しい。先日の宇都宮記念(ワンダーランドカップ)で優勝した吉田拓矢(茨城)君も「500は仕掛け方が難しい」って言っていたように、仕掛けが早すぎてももたないし、遅くても別線の巻き返しがある。その反面、仕掛けどころがたくさんあるとも言えます。簡単に言ってしまえば、どこからでもスパートできるので、どうしようかなと…自分的にはいろいろ考えるところがあります。
そのほかにも思い出深いレースがたくさんあります。
2005年第56回大会で村本大輔(静岡)君は、武田豊樹(茨城)さんの先行に乗って優勝。自分はまくり追い込みになって結果は5着。まくり不発の小嶋敬二(石川)さんのあおりを受けて外外走らされてしまい…。タラレバですがそれがなかったら村本君といい勝負ができたんじゃないかと悔しい思いをしました。
同級生の村本君とは高校3年生の時のインターハイ(宇都宮)の4000メートル速度競走で戦った過去がありました。結果は村本君が優勝、僕が2着。この種目はとっても駆け引きが重要で『先頭責任』というものを果たし、さらに最初にゴールを駆け抜けた選手が優勝です。競輪とは違うけど似たような要素のある種目で争った選手と時を経て、GIの決勝でも戦えて感無量でした。インターハイでは負けたのでそこでは自分が勝ちたかったのですが、やはり村本君には勝てませんでしたね…。
そして2006年第57回大会は、後輩の山崎芳仁(福島)君がGI初制覇。番手が佐藤慎太郎(福島)君だったんですが、ゴール前にシンタロウが一度、山崎君を抜いているんです「シンタロウの優勝だ! 」と思ったら山崎君が内からハンドルを投げてゴールで抜き返したんです。差されて差し返す、あれはびっくりしました。
自分の走りというより「GI初制覇」をする選手が多いという印象が強いのが宮記念杯な気がします。
びわこ競輪場が廃止になって以来、初めてびわこ以外で開催されたのが、2011年第62回大会の前橋。そこでは深谷知広(静岡・当時は愛知)君がデビュー最速の記録でGI初優勝を果たしました。村上義弘(京都)さんが2着、僕が3着。宮記念杯ではこの決勝3着が最高の成績です。深谷君は残り1周からカマして優勝、スイッチした村上さんが2着で佐藤友和(岩手)君目標から最後、内に行った僕が3着。
表彰式を待つ間、優勝者の深谷君は別場所だったので村上さんと2人きり。そこで村上さんが「これからは深谷の時代だな」みたいなことを言ったんです。翌年に引退することになる山口幸二(岐阜)さんも「これからは深谷の一人横綱かな」って…。
2人の口から時代が変わるような発言が出て、あの時は何か考えさせられましたね。
宮記念杯でこれから先も忘れることのできないレースは、同期の手島慶介(群馬)さんの走りです。
2005年第56回大会の初日一次予選のこと。宮記念杯は6月開催で「雨の宮杯」とも言われます。梅雨時期に開催されるので雨が降ることがとても多く、雨の日のバンクはウォークトップで一応、滑り防止はされていますが濡れるとスリップしやすくなります。
その日も雨。号砲がなってスタートけん制になり、外枠だった手島さんは1コーナーを登る感じでした。そこでスリップしたのか落車してしまったんです。競輪ではスタートから25mライン内で何か起こったら再スタートができます。しかしこの落車は25mを越えているので再発走にもならない。
「あぁ…手島さん一次予選敗退かぁ…」と思った瞬間…
なんと手島さんは自転車に乗ってクリップバンドも締め直して走り出したんです。他の8人は誘導を追っていてもう半周くらいは先を行っています。手島さんはその群勢を追いかけ、残り2周くらいで追いついて合流。そして3着に入ったんです! 検車場のモニターで観戦していた選手たちは「ウソだろ? 」ってどよめきました。落車したのはわかったんですがカメラは当然、前8人を映していて、手島さんは映っていませんでした。赤板前で手島さんが突然、ひょっこり現れて9人になったときは、さすがにまさかと思い驚きました。
競輪はボートレースのようなフライング返還はなく、もし、手島さんが再乗してなかったら落車時点で手島さん絡みの車券は紙くずです。手島さんから車券も売れていたし、まさにプロフェッショナルですね。あれは強靭な精神力と脚力がないとできない芸当。自分だったら…落車した時に「これは不慮の事故だった」と反省してまた明日から頑張ろうって思っていたかな。はっきり言って僕にはできないです。
手島さんとは学校時代はそれほど交流がなかったのですが、1997年競輪祭新人王決勝戦で僕の番手についてくれました。結果はカマした僕を差した手島さんが優勝、僕は2着でワンツーでした。手島さんは卒業記念チャンピオンで才能の塊という感じの人。そのエリート手島さんに自力型として認めてもらえたんだと嬉しかった記憶があります。これを機に一緒に食事をしたり、たくさん交流するようになったので特別な思いもありましたね。あの一戦は後世に語り継ぐべきエピソードです。
今年の高松宮記念杯は岸和田競輪場で開催されます。以前の岸和田は1センターから2コーナーにかけてガタがありました。リニューアルされてから初出走なのできれいになった走路を走るのも楽しみです。去年、出場できなかったので一つでも上のレースを走れるように頑張ります。
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伏見俊昭
フシミトシアキ
福島県出身。1995年4月にデビュー。 デビューした翌年にA級9連勝し、1年でトップクラスのS級1班へ昇格を果たした。 2001年にふるさとダービー(GII)優勝を皮切りに、オールスター競輪・KEIRINグランプリ01‘を優勝し年間賞金王に輝く。2007年にもKEIRINグランプリ07‘を優勝し、2度目の賞金王に輝くなど、競輪業界を代表する選手として活躍し続けている。 自転車競技ではナショナルチームのメンバーとして、アジア選手権・世界選手権で数々のタイトルを獲得し、2004年アテネオリンピック「チームスプリント」で銀メダルを獲得。2008年北京オリンピックも自転車競技「ケイリン」代表として出場。今でもアテネオリンピックの奇跡は競輪の歴史に燦然と名を刻んでいる。