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【伏見俊昭のメンタル】落車やケガ…何度も心が折れかけたときの良薬は“1着”だった

2022/02/27 (日) 12:00 10

 netkeirinをご覧の皆さま、こんにちは。伏見俊昭です。
前回に引き続き、今回もユーザーの方からのリクエストテーマにお答えして、「メンタル面」についてお話ししたいと思います。若い頃と今ではメンタルの持ち方なども変わったので、昔のことも振り返りながらお伝えしていければと思います。

(撮影:島尻譲)

野心メラメラの若手時代

 競輪選手としてデビューを果たした10代の頃は、とにかく野心に燃えていました。ただ「他の選手に負けたくない」という気持ちが強くて。その気持ちがあったからこそ、苦しい練習にも耐えられました。

 勝って歓声を浴びると気持ちが上がり、アドレナリンが出て心地良くなる。“あの歓声をまた浴びたい、また浴びたい”って… 一種の麻薬ですよね。当時はそれでモチベーションが持続され、また苦しい練習に挑むことができました。ずっとそのループです。

 10代、20代はがむしゃらにすべてをやっていたからか、あっという間に過ぎましたね。プロデビューしてまずはS級昇級が目標でした。その後はGIII優勝、GII優勝、GI優勝、GP出場そしてGP優勝。ゼロから追い求めるのはすごく楽しかったし、いつもギラギラしていましたね。

どんなに高いモチベーションでもガクっと下がる瞬間

 若い頃は常にモチベーションは高いまま。練習は本当に苦しかったけど、楽しかったですし、寝る間も惜しいくらい練習に励んでいました。ナショナルチームに所属していた頃は体を休める日も1時間のロード練習でリカバリーする感じだったし、振り返れば20代まではガツンと休んだことはなかったですね。

高いモチベーションが一気に落ちてしまう「落車」(撮影:島尻譲)

 しかし、その高いモチベーションが一気に落ちてしまうものがあります。

 それは「落車」。

 一度、落車するとプラスになることは一つもない。大きなケガではなくても、時速60km以上のスピードで転んでいるのだから見えないところへのダメージがあります。さらに頭を打っていたらいろんなものが破壊され、判断力も鈍ってしまい… なんとも言えない不調に陥ります。調子を戻すために練習すると治癒するための休む時間がなく、結局不調になっての完全に負のループ…。

 21歳の時に生まれて初めて左鎖骨を骨折しました。当時は三重県の病院でしか手術ができなかったので、福島から飛行機で名古屋空港に行って、そこからタクシーで三重県へ。一泊入院で手術をして翌日帰宅したんですけど、もうその日は気が気じゃなくて練習しちゃいました。

 左腕を三角布で吊っているから片手が使えないので、右手だけでハンドルを握って固定ローラーで。全身麻酔が切れてからの痛さは強烈で歩くのもままならない。しかしその痛みより練習を休むことのほうが恐かったんです。まるで休むことが悪のように感じ、とても罪悪感がありました。今では治療すること、休むことも練習と同じくらい大事って理解しています。

気持ちが折れなかったら何とかなる

メンタルの大きさをした25歳のオールスター(PHOTO:村越希世子)

 実際にメンタルの大事さを痛感したのは25歳の時にオールスターでGI初優勝を遂げたときでした。その翌日に世界選手権出場のためにベルギーへ。そこで落車して右鎖骨を骨折しました。当時グランプリまでは3ヶ月… 時間はまだあるし、無理もできる年齢だったので、またいつものように手術してすぐ練習を始めました。

 ケガをしてからの3ヶ月間は「グランプリ出場」という事実がモチベーションを保っていました。体の違和感にも気づかず、かなり無理もしたんでしょうね。その甲斐があってグランプリは満足の行く走りができ、逃げ切って優勝できました。

 しかし、その翌年に相当ガタが来ました。グランプリを終えたことで脳が安心したのか同じ練習をしてもまったくパフォーマンスが上がらない。そうなったらどうするか? じっとガマンの忍耐です。腐っても仕方がないし。そういうときは開き直ることが大事です。強い人ってどこか開き直りがあってみんな良い意味で能天気。重く考える人ほど弱いんじゃないかな。体のケガはいつか治る、気持ちさえ折れなかったら何とかなるんですよ。プロスポーツ選手って身体能力よりもメンタルが強い人の方が結局最後は強いと思います。練習での自信の裏付けは大事だけど、練習だけ強くて本番は全然ダメっていう人もいますからね。

ケガの連続で折れかけた30代後半

 競輪人生の中で一番精神的に辛かった時期は、30代後半から40代前半。当時はケガの連続で本当にキツかった。2011年には震災もあって練習、生活環境が大きく変化したことも影響していると思います。前厄の年齢の時に肋骨が肺に刺さって肺気胸。そこから体力が戻らなかったですね。その後も立て続けにケガして何度も気持ちが折れそうになりました。それでも結局、自分にはこの世界しかない、競輪しかない。腐る年齢でもないし、引退する年齢でもないって思い直して言い聞かせていました。

 さらにケガ明けの練習は苦しいです。そんな時は練習仲間の存在がとても大きい。一人だったら「こんなに苦しいんだからここまででいいか」って途中で練習をやめていますよ。仲間がいるから頑張れたと思いますね。

30代後半から40代前半は何度も心が折れかけた(撮影:島尻譲)

 この経験もあって、心境も徐々に変化し始めたような気がします。「中堅」と呼ばれるようになり若手も出てくるし、年上もまだまだ頑張っている。若手と呼ばれる時は下から上を追っかければいいだけの気持ち。しかし中堅にもなると追われる立場になって自分の位置を死守しなくては…と感じるようになりました。若い頃のように自分の気持ちをガツガツ全面に出すやり方ではなく、上手くバランスをとっていますね。もちろん、諦めたら終わりという気持ちは常にあるので、あまり気持ちの上下幅がないように保っています。

 萩原操(三重)さんという超人が身近にいるのも大きいです。58歳でS級ですよ? すごくないですか? 今も操さんは朝と午前の2回の練習を欠かしません。オンとオフの使い分けがうまくて練習ばっかりでもなく趣味もあって…それでいてレースで結果も出している。この生き方っていいなと思っていて、参考にしています。ちなみに操さんはスニーカーや帽子にこだわりがあって格好だけでなく気持ちも若いんですよ。

競輪選手にとっての良薬である「1着」

「勝つこと」が一番の良薬(撮影:島尻譲)

 一番、モチベーションが上がるのはやっぱり「勝つこと」。競輪選手は1着が良い薬ってよく言いますが、それは本当です。1着になると自分の気持ちが高揚する、そして声援を受けて心地良くなる、さらにまた1着を目指そうって気持ちを繰り返します。

 練習以外でのモチベーションの上げ方もあります。僕の中のパワースポットは、伊勢神宮。25歳の時に伊勢神宮の関係者の方から誘われて訪れたことがきっかけで、そこから毎年、年に数回は足を運んでいます。

 四日市、松阪競輪に行ったついでにお参りというのはよくないそうなので福島から6時間かけて参拝に行っていました。なんというか神々しい伊勢神宮に行くと心が癒されます。独特の空気感があって、体が浄化される気持ちになります。伊勢神宮に行くことはよくSNSでアップするのでいろんな選手から「伊勢神宮に行ってみたいです」と声をかけてもらっています。最近ではあの山崎(芳仁)からも言われましたよ(笑)。

 最後に近況を少し。実戦から遠ざかっているのは家族がコロナに感染し、濃厚接触者に認定されたからです。GI全日本選抜も予備選手から繰り上がれたんですが、残念ながら欠場。ずっと室内練習して出前のお世話になっていました。伊勢神宮も行くつもりだったんですけど…もちろん行けていません。ウィナーズカップの前に一度行けたらなと思っています。

 あ、今は三重県で練習しているので伊勢神宮に行きたいって選手がいたら車に一緒に乗せていきますよ。そしたら自分も行けますしね(笑)。



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伏見俊昭

フシミトシアキ

福島県出身。1995年4月にデビュー。 デビューした翌年にA級9連勝し、1年でトップクラスのS級1班へ昇格を果たした。 2001年にふるさとダービー(GII)優勝を皮切りに、オールスター競輪・KEIRINグランプリ01‘を優勝し年間賞金王に輝く。2007年にもKEIRINグランプリ07‘を優勝し、2度目の賞金王に輝くなど、競輪業界を代表する選手として活躍し続けている。 自転車競技ではナショナルチームのメンバーとして、アジア選手権・世界選手権で数々のタイトルを獲得し、2004年アテネオリンピック「チームスプリント」で銀メダルを獲得。2008年北京オリンピックも自転車競技「ケイリン」代表として出場。今でもアテネオリンピックの奇跡は競輪の歴史に燦然と名を刻んでいる。

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