2022/03/23 (水) 18:00 16
netkeirinをご覧の皆さん、こんにちは、伏見俊昭です。
毎年3月になると強く思い出すのが「東日本大震災」。福島県出身である僕にとってこの震災は人生が大きく変わった出来事となりました。今回は「東日本大震災」についてお話しさせていただきます。
2011年3月11日14時46分。
三陸沖を震源とする地震が発生したとき、僕は場外車券売り場「ラ・ピスタ新橋」で朝から行われていたイベントに参加していました。昼食を取り10階のフロアで休憩していると、突然ものすごい揺れに襲われ、身動きが取れませんでした。冗談ではなく初めて“死”を意識した瞬間でした。下の階からは女性の悲鳴が聞こえるし、物は落ちるし。“このままビルが倒れて死んじゃうんだ”って本気で思うほど揺れていました。
揺れが収まった瞬間に、エレベーターはもちろん動いていなかったので非常階段を使って、1階まで無我夢中で駆け降りました。当時僕はブーツを履いていたので、降りている最中に足をくじいてしまったのですが、命がかかっているから足の痛みどころじゃなかった。いや…痛がる余裕すらなかった。とにかく必死になって階段を駆け降りた記憶があります。
その後、自宅にいる家族に何度も電話を掛けても繋がらない…。家族の安否が確認できたときにはすっかり夜になっていましたが、その電話で「家が大変なことになっている」と告げられました…。
その日は電車をはじめ交通機関はほぼ止まってしまい、福島に帰る手段がなったのですが、「ラ・ピスタ新橋」の社長さんのご好意でご自宅に泊めていただくことになりました。もちろんイベントは即中止になりましたが、ラ・ピスタの建物では帰宅困難の人たちを受け入れることになったので社長さんをはじめ、スタッフの方々は夜遅くまで対応されていました。
対応がひと段落した後に社長さんのご自宅へ向かいましたが、普段4〜50分の道のりを3時間掛かりました。到着したときには真夜中でした。翌朝はゆっくりさせてもらったのですが、テレビから流れてくるニュースがすべて津波の映像。NHKで放送していたヘリコプターから撮影した仙台の津波の映像は、家も車も全部流されていってしまうという内容で…。今でもその映像は鮮明に覚えており、脳裏に焼き付いています。
地震発生から2日後、新幹線はまだ動いていなかったのですが、宇都宮線が動いて始め、東京駅から宇都宮駅までの臨時電車が出ることになりました。とりあえず宇都宮駅まで行き、そこからタクシーで福島に戻ろうと思い、お世話になった社長さん宅を出ました。
なんとか宇都宮駅まで辿り着くことはできたのですが、待てど暮らせどタクシーは来ず。1、2時間待ってやっと乗合で自宅のある新白河駅の一駅手前の那須塩原まで行けることに。宇都宮から那須塩原の道中、タクシーから見た景色は建物が倒れていたりして被害は酷かったです。そんな景色を見ながら募るのは不安ばかり…。那須塩原駅からは家族の迎えがあったので、そのまま自宅に戻ることができましたが、新幹線が動いていれば1時間半くらいで着くのに、この日は8時間以上掛かりました。
家の中は、棚は倒れてるし、物は落下してるし、壁紙も破れていて散乱状態。周囲の家もブルーシートがかかっていたり、マンホールが飛び出ていたり、本当に被害は甚大でした。落胆する間もなく、さらに次の落胆が押し寄せてくるような感じでしたね。なかでも一番ショックだったのは知り合いに作ってもらったお気に入りの神棚が壊れてしまっていたことでした。
新白河は内陸で海から80kmくらい離れているので津波の心配はなかったですが、沿岸部の津波被害は大きかったので、心苦しかった。15日になって近所に住んでいる兄弟子の岡部(芳幸)さんの家に状況を伺いに行きました。そしたらそこで「原発が爆発した」という一報が入り、すぐ避難しなくてならない状況に一変。新幹線は動いてないし、車にしてもガソリンスタンドがやってないから行けるところまでしか行けない。そうこうしているうちに翌日の16日に那須塩原から東京までの臨時新幹線が出るというので那須塩原駅に車を止めて、逃げるように東京に向かいました。
いざ東京に向かったはいいが、どこに避難しようかと考えたとき、前回のコラムでお話しさせていただいきましたが、思い入れの強い伊勢神宮のそばに行きたいという気持ちでいっぱいでした。不安な感情が続いていたので、すがるような心境だったのかもしれないですね。
当時、伊勢神宮には岩見(潤)さん、馬渕(紀明)さん(2016年05月16日引退)と一緒に行くことが多かったんですが、その岩見さんが「面倒見るから来いよ」とおっしゃっていただいて。そのお言葉に甘えて三重県松阪市に向かいました。岩見さんだけじゃなく、たくさんの選手仲間からも連絡をもらい、「困っているなら避難してくれば? 」とも言ってもらって…。本当にありがたかったです。持つべきものは仲間だなと、とても実感しましたね。
シューズと着替えさえあれば室内練習ならできるので、キャリー1つで移動。途中、名古屋駅に着いたときは自分の目を疑いました。東京では停電もしているし、止まっている電車もあった。しかし名古屋では人は普通に歩き回っているし、お店も通常通りやっている。ここは同じ日本なのか? と思ったんですが三重県に入ったらもっと平和でした。ほっとした半面、「なんでどうしてあの悲劇が東日本だけなんだ? 」と思ったりもしましたね。
松阪に着いて衰弱しきっていた僕を見て、岩見さんが食事に連れてってくれました。松阪の隠れた名物・鶏焼き肉のお店。あのときの松阪発祥の鶏網焼きの味は一生忘れることができません。ずっと緊張しっぱなしだったので、食べ物を味わっていなかったことにここで初めて自覚しました。
ほっとしたには、ほっとしたんですがご飯を食べながらも…
「あれ? 揺れていますよね? 」
「全然、揺れてへんやろ」
地震なんかきてないのに自分の体内の感覚が常に揺れていたんです。「地震ですよね? 」、「地震きてへんで」というやりとりがしばらく続きましたね。
原発の状況からすぐ福島に戻れるとは思えなかったので松阪でレオパレス(アパート)を借りようとしたんですが、手続きとか色々あり、すぐには借りられなくて。そこで岩見さんのお弟子さんで一人暮らしをしていた村田(洋剛)君の部屋で居候させてもらうことになりました。
車好きの村田君は車を2台所有しており、そのうちの1台を貸してもくれました。そこから1週間くらい、室内の練習器具を貸してもらって練習しましたが、いつまでもこれだけの練習じゃいけない。地べたにも乗らなくちゃいけないと、自転車を用意するために一度、福島に戻ることに。当時はガソリンの盗難が多かったので、那須塩原駅に止めっぱなしだった車はガソリンは抜かれているだろうと覚悟をしていたのですが、幸いなことにそのまま。よかった…という一言でしたね。
新白河には放射線量の測定器があちこちにあり、とにかく放射線量の高さが一目でわかりました。長居はできない状況だと思ったので自転車をはじめ、必要なもの一式を宅配便で松阪に送る手配をし、すぐに松阪に戻りました。その後やっと契約できたレオパレスに住み始めることができ、練習環境にもすぐ慣れました。バンクは近いし、多少車の交通量は多いけど道路練習も十分できましたし。新天地で新しい自分も見つけることができるかもしれないと前向きな気持ちでしっかり練習の環境を整えました。
震災後は競輪も開催中止でしたが4月になると再開され、武雄競輪場で共同通信社杯が復興支援として行われました。競輪を走ることによって「なんでこんなときに競輪をやっているの? 」ではなく、競輪の売り上げが復興支援に繋がり、また、福島の選手である自分が頑張ることで地元の方々を元気、勇気づけることができればいいなという思いが強かったです。
またその年はS級S班だったし、「震災で弱くなった」なんて言われたなかったから、とにかく競輪に集中して頑張りました。おかげで全日本選抜(GI)も優勝することができました。
どこかで書き記していたのを見たことがありますが、弟弟子の新田(祐大)君が「こんな状況の中、世界選手権に行ってもいいものか」と悩んでいた。そしたら僕と岡部さんに「世界選でいい走りしていい結果を出すことがおまえの役割」と叱咤激励されて背中を押してもらったという内容。僕がそんなこと言ったかどうか記憶にないけど(笑)、自分が新田の立場だったら欠場して何が始まるんだ、自分たちは走って結果を出すことが元気そして勇気になる。そこで傍観していてもしょうがない。自分がやれることをやる、と思ったでしょうね。
震災のあの日から11年。松阪で結婚して子供も授かったので家族のために生活の拠点は松阪のままでと考えています。老後とか福島に戻るかどうかはわかりませんが、今でも東日本で開催があれば福島に戻っているのでこのスタンスは競輪選手をやっている限りは、崩すつもりはありませんね。
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伏見俊昭
フシミトシアキ
福島県出身。1995年4月にデビュー。 デビューした翌年にA級9連勝し、1年でトップクラスのS級1班へ昇格を果たした。 2001年にふるさとダービー(GII)優勝を皮切りに、オールスター競輪・KEIRINグランプリ01‘を優勝し年間賞金王に輝く。2007年にもKEIRINグランプリ07‘を優勝し、2度目の賞金王に輝くなど、競輪業界を代表する選手として活躍し続けている。 自転車競技ではナショナルチームのメンバーとして、アジア選手権・世界選手権で数々のタイトルを獲得し、2004年アテネオリンピック「チームスプリント」で銀メダルを獲得。2008年北京オリンピックも自転車競技「ケイリン」代表として出場。今でもアテネオリンピックの奇跡は競輪の歴史に燦然と名を刻んでいる。
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