2022/01/28 (金) 18:00 22
ようこそ【ASAI☆LAB】へ
新年明けましておめでとうございます。本年も“netkeirin”そして“浅井康太”をどうぞよろしくお願いします。
私事ですが、立川記念競輪では“初転び”をしてしまいました。怪我は打撲と擦過傷そして肺挫傷と、骨には異常がなく、大事には至りませんでした。出場を予定していた大垣競輪は肺挫傷により口から出る血がなかなか止まらず欠場をして治療に専念しました。
さてここで、落車の後に「やること」や、落車の後に「必要なこと」をいくつか紹介していきます。
①擦過傷の部分にバンクの色(緑や黒)が付着している場合
→タオルを口に咥えて色が消えるまで思いっきりタオルで擦ってもらう。そうすることで肌に色が残らず、少しでも綺麗な皮膚の状態に戻せます。
②骨が折れている場合
→医務室に寝転んで待機
→(救急車がくるまでに)ジャージやスリッパなどの身軽な服装の準備をしてもらいそのまま病院へ運ばれる。特にすることはない。
※さらに擦過傷の①もある場合は、救急車が来るまでにやる人もいますが、動けない場合は病院でやります。
③軽傷の場合
→とりあえずシャワーを浴びて汗を流す。④最初にやること(浅井流)
→ブランコです。
落車をすることで“三半規管”に異常が出ます。まずは“水平感覚”を戻す為に数時間ブランコに乗る。
※想像してください。中年のおじさんが数時間の間1人でブランコをしている姿…。やばい(笑)。
⑤自転車に乗る
→乗りこみ(モガキなし)をすることで、歪んだ箇所を修正していく。身体の痛み・身体の歪みがある状態でのダッシュやスピード練習はダメ×
※すぐにスピード練習に入ると治ってからのパフォーマンスの向上が劣る。腰痛持ちになる可能性もアリ。
⑥昭和の先輩に教わったこと
→よく寝て、よく食べて、よく練習する。
引退した選手(松岡彰洋さん)からのアドバイスを受けて、誰よりもトレーニングをするようになった。身についたのは我武者羅さ。
※我武者羅さがあるからこそ、今の理論を取り入れて能力の開花に繋げられている。理論だけでは強くなることは無理でしょう。
…この他にも色々やるべきことがあり、元の身体に戻すにはとても苦労します。時速70キロでの落車のダメージは相当なものがあり、選手はどれだけ頑丈なのかと…選手の私でも感じます。まるで、ゴキブリのよう(笑)。
復帰戦の別府競輪は、弟子の伊藤稔真と師弟参加でした。前検日にやる事(受付・医務検査・検車・指定練習)が終わった後、長めにローラー練習をしてから宿舎に戻りました。
既に弟子は深い眠りに。
夜ご飯の予定が18時でしたが弟子は全く起きず、20分経過…。
「稔〜、起きろ〜」っと。
そして食事を済ませ、お風呂を済ませ、消灯。
その日の夜、大きな地震がありましたが、弟子は深い眠りに。
「稔〜、起きろ〜」っと。
またまた弟子を起こすことに。
避難するかどうかの判断があったので1時間くらい様子をみていましたが、余震もなくそのまま寝ることにしました。
そして初日が終わり、2人とも準決勝へ…。
準決勝の番組が発表…なんと、初の“師弟ライン”
そしてその3番手には久米選手が並んでくれたので、3車のラインができました。
弟子には「落ち着いて走れば大丈夫。失敗しても俺が何とかするから安心しろ」っと声をかけ、その日も夜ご飯とお風呂を済ませて寝ることになりました。
翌朝、珍しく放送が入りました。目が覚めた私はその内容を聞くと「コロナウィルス感染者が出たため、 2日目以降は中止になりました」と。
この頃アイツ(弟子)は深い眠りについていたので、
「稔〜、起きろ〜」っと。
今開催3度目(笑)。
中止になったことを教えてあげると一言、こう返ってきました。
「緊張して5時まで眠れませんでした」と。
確かに“師匠”との連係となると緊張するんだろうな。私は師匠と走ったことがないのでその気持ちはわかりませんが、一流選手と走る時の責任感は感じながら走ってきましたし、厳しく「やれ、やれ」「行け、行け」と指導してくれた昔の選手には感謝の気持ちがあります。(強くなれたから言えること)
私が人に教える場合“指導”ではなく“アドバイス”として、弟子や学びにくる人に伝えています。“指導”だと強制的にやらせているようで、考えることのできない人になると思うから。“アドバイス”にすることで、やるかやらないかの判断はその人次第になります。
私は絶対的なアドバイスをあげるので、やった分だけ結果に繋がるだろう。と思っていますが、全ては本人次第です。
よく“育てろ”と言われますが、“育とう”と思っていない人は育つはずがありません。今の子はどのように意志・意欲を出せるようにしてあげられるか、明確な答えを示してあげられるかが必要と思っています。
いつまで経っても昔のような育て方をする人は辞めた方がいい。絶対、育たないから。そのスタイルを変えられれば、あなたもまたいい結果を出せるかもしれませんね。
別府後のインスタライブを見てくれた方には、弟子や後輩との関係性がわかってもらえたと思います。私、ほんとは厳しくないんです(笑)。自分のトレーニングは厳しくやりますが、あとのことは少しでも楽しく、少しでも笑顔でいられたら…と。
これからもそうでありたい。
“幻の師弟ライン”
ほんの少しでも上のレベルで披露できることを楽しみに、頑張ります。そして、弟子には厳しく、時には優しくしてあげてください。
(※文中敬称略)
浅井康太
Asai Kota
1984年、三重県生まれ。日本競輪学校90期卒、ホームバンクは四日市競輪場。2005年7月松坂競輪場にてデビュー。第20回寛仁親王牌(GI)で特別競輪初優勝を決めた。その後もKEIRINグランプリを2度制するなど競輪界の中心選手として活躍、中部を牽引する存在としていまなお進化を続けている。キーワードは「KEEP LEFT」