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村上義弘 全ては競輪から教わった

村上義弘が語るライン論「若手にとって自信と成長につながる」その主張の真意とは!?

2021/11/11 (木) 18:00 28

前回に続きテーマは「ライン」。村上選手の思い出のライン戦や印象に残っている選手、単騎戦での戦い方や、なぜ若手選手が不利と言われるラインの先頭で走るのかまで、ラインについての持論を幅広く綴ってもらいました。

思い出のラインやラインに対して日頃から感じていることを書いてみたいと思う(撮影:島尻譲)

幼少の頃から憧れた選手同士の信頼関係

 前回は、長い競輪人生の中で、レースでラインを組むことによって学んだことや感じてきたことなどを、自分の経験から語ってみた。その最後に書いた通り、今回は、強く印象に残っている具体的なラインなどについて、取り上げてみようと思う。

 自分がラインというものを意識するようになったのは、実は、プロデビューするよりもかなり前のことだ。大の競輪好きだった父の影響もあり、子どもの頃から、競輪に対して興味を持っていた。最も好きだった選手は滝澤正光さん(43期・現日本競輪選手養成所所長)で、どんなときでも力強く先行する姿に、たえず目を奪われていた。

 特に、滝澤さんが走ると、そのラインで1着、2着が決まるという印象が強かった。

 レース中はいつも、滝澤さんからは、番手の選手も一緒にゴールに連れ込んでやろうという気迫が、番手の選手からも、滝澤さんを守り切るために、他のラインの選手をすべて止めてやろうという気迫が、それぞれ激しく伝わってきた。

 子どもながらに、ラインを組んだ選手同士の信頼関係が感じられ、心からカッコいいと思ったものだ。そんなふうにラインを意識するようになったことも、競輪の世界に憧れ、競輪選手を目指した理由の一つと言っていいだろう。

印象に残っているのは松本さんと走った2002年寛仁親王牌

 1994年のデビュー以降、印象に残っているラインは数多いが、もともと期待された選手ではなかった自分が、自信をつけることができたレースがある。それは、2002年に前橋競輪場で開催され、松本整さん(45期・京都)が勝利を収めた寛仁親王牌の決勝だ。

 同じ京都の大先輩であり、“心の師匠”でもある松本さんには、デビュー前からお世話になり、「競輪選手としてどうあるべきか?」ということを一から厳しく教えてもらってきた。

 そんな松本さんと初めて一緒にGIの決勝に進出し、ラインを組むことになったのが、このレースだった。自分としては、全力でラインに貢献し、1着を目指すのは当然とはいえ、たとえ自分が負けても、松本さんに勝ってもらえれば、それが恩返しになるという思いがあった。

 松本さんとしても、先行選手として力をつけてきた自分の番手で走れることは、1992年のオールスター競輪以来2度目となるGI制覇のチャンスと捉えていたのは間違いない。「任せてください」「任せたぞ」というわずかなやりとりを経て、お互いに熱い気持ちを持って臨んだレースでは、残り1周半から一気に先行した自分が4着。そして、ゴール前で松本さんと小橋正義さん(59期・新潟)が抜け出し、祈るような気持ちで見つめる中、松本さんが見事1着に入り、43歳という年齢で、GI最高齢優勝記録(当時)を達成することとなった。

 当時の映像を見ると、ゴールした後、自転車に乗りながら、松本さんと肩を組んで喜びを分かち合っているのだが、余りハッキリとは覚えていない。あまりにも興奮しすぎていたからだ。気がついたときには、表彰台に立つ松本さんの姿を見ながら、ただただ涙を流していた。同じ場所に一緒にいられたことが、嬉しくてたまらなかった。そして、ラインの中で、自分が思い描いた一つの仕事を達成できたことが、競輪選手として、大きな自信につながったというわけだ。

気持ち良かったマーク屋・小野俊之との連係

 寛仁親王牌といえば、同じ近畿の市田佳寿浩(76期・福井)が2010年に、稲垣裕之(86期・京都)が2016年に初めてGIのタイトルを獲得したレースでもある。

 そのとき、自分も一緒に走っていたのだが、1歳下の市田とは兄弟のような関係だったし、稲垣も同じホームバンク・向日町競輪場でともに汗を流してきた後輩である。力を出し切った結果、同じラインから優勝者が出ることは本当に喜ばしいことだ。それがGIならなおさらだろう。

 他地区の選手ではあるが、ラインを組んで気持ちよさを感じたのが、2歳下の小野俊之(77期・大分)だ。

他地区になるが小野俊之とのラインはお互いの良さが出たと思っている

 自分が「先行日本一」と呼ばれていた若い頃、小野は「マーク屋日本一」として注目されていた。競りに行くと滅法強く、レースで別のラインとして戦っているときは嫌な存在だった。

 そんな小野が、たまに自分の番手を選ぶことがあったのだが、「先行日本一」と「マーク屋日本一」が並んで走っているとき、「これはすごいな」とやけに興奮したものだ。

 小野はいつも自分をピッタリとマークして、後ろから捲ってくる選手をブロックしてくれたので、自分としても「よし、前は俺に任せとけ!」という意識を持って、思い切り先行することができた。他のラインの選手たちがまるで無抵抗のような感じがして、それが実に気持ちよかったことを覚えている。

 また、レースでどのようなラインを組むかは、長年競輪選手をやっていると、番組表を見た瞬間にだいたいイメージできるものだ。

 特に、同じ近畿の選手たちはみな、「ラインのために自分は何をすればいいか?」という思いを共有しているので、誰がどの位置に付けるか、イメージしやすいとも言える。ただ、レースによっては、近畿の選手が自分しかいないため、ラインを組めず、1人で戦わなければいけないこともある。

 そんなとき心掛けているのが、とにかく最後方にならないように、前へ前へと踏んでいく事だ。かつて先行していたときも前々へ踏む事を念頭に置いていたので、走る前の気持ちとしてはあまり変わらない。しかし、結果として、「誰かが後ろにいてくれたら、あそこは流れが変わったし、脚力をロスすることもなかったな……」と何度か思ったことがあるのも確かだ。

先日の防府記念。ラインを組んだ三谷竜生と(撮影:島尻譲)

厳しい位置で走る先行だが若手の成長には欠かせない

 先行に関して言えば、基本的に、スピードやスタミナがある若手時代に任されることが多い。言うまでもなく風の抵抗を一番受ける厳しい位置だが、メリットもある。それは、捲りのように展開に左右されることがないので、自分が強くなっていくことを実感できるということだ。

 いつも徹底して先行していると、自分の脚力やコンディションが上がっているのかどうか、練習の成果が出ているのかどうかなどを判断しやすい。競輪選手としての目標を立て、そこにいかに近づけていくかということをイメージしやすくなるため、成長途上の若手には適しているのではないかと思う。

 これまで先行も番手も経験してきているが、先行で豪快に勝つという憧れは今でもある。野球で言うと、ピッチャーなら160km以上の豪速球を投げたいし、バッターなら特大の場外ホームランを打ちたいという気持ちと同じだ。

 もちろん、それができなくなった現実は分かっているが、だからこそ、その現実を受け止めて、自分の仕事をこなしていく事もプロであるとも考えている。

「先行日本一」と呼んで貰った過去があろうとも、もしラインの番手としての役割を託されたのならば、たとえば、他のラインの選手が捲ってきたら、積極的にブロックにいって、捲ってくる選手を止める。それによって、ラインの勝利に大きく貢献できたとしたら、同じラインの選手や車券を手にして応援してくれるファンもまた、自分の姿にプロを感じてくれることだろう。

 レースに出走する以上は、彼らの期待にしっかりと応えられる選手でありたい。デビュー28年目を迎えてもなお、そうした思いを胸に、ペダルを漕ぎ続けている。

若い頃と競走スタイルは変わってもプロとしての姿を見せ続けていきたい(撮影:島尻譲)

(取材・構成:渡邉和彦)

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村上義弘 全ては競輪から教わった

村上義弘

Yoshihiro Murakami

1974年京都府生まれ、花園高出身。日本競輪学校73期卒。代名詞は「先行日本一」「魂の走り」。KEIRINグランプリ2勝、日本選手権競輪4勝を含む特別競輪13勝。実績だけでなく競輪に向き合う姿勢や常に全力を尽くすレーススタイルは、選手・ファンから絶大の信頼を得ている。ファンの存在を大切にし続ける競輪界のレジェンド。

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