2022/02/11 (金) 18:00 34
周囲の環境や自身の身体など様々な事が日々変化する中で、村上義弘選手にとって「変えてはいけないもの」は何か? 直近のレースやトピックスから村上選手の思考をひも解いていきます。
前回は、2022年を迎えたうえでの「変化と不変」をテーマにして、まず一競輪選手として考えている「変化」について書いた。今年2回目のコラムとなる今回は、「自分の信念として絶対に変えてはいけないものは何か?」という「不変」について取り上げてみようと思う。
今年最初に出場したレースは、1月8日から10日まで名古屋競輪場で開催されたスポーツ報知杯・味仙カップ(FI)。そのとき、競輪メディアやファンの間で、自分に関することがずいぶん話題になったようだ。
それは、初日と2日目に山口拳矢(117期・岐阜)を番手でマークしたこと。自分が上位の選手になってからは、地元・近畿の選手以外に付くことがなかっただけに、多くの人たちが驚いたのかもしれない。ただ、他地区を見渡したとき、一度は連係してみたいと思っていた選手であることは間違いない。
というのも、拳矢のお父さんの山口幸二さん(62期・岐阜)は、競輪界でともに戦ってきた、いわば戦友。それほど大きくない身体で常に勝負を挑み続ける姿勢は、同じく体格に恵まれているわけではない自分からしたら、尊敬するほかなかった。
よくプライベートの話もしていて、幸二さんには3人の息子、自分には3人の娘がいたので、「じゃあ、幸二さんの息子たちがちゃんと出世して、うちの娘たちをもらってくださいよ」といった冗談を言い合ったりした。幸二さんの息子たちが自転車に乗り始めるときにいろいろと相談を受けたこともあるし、自分としては、親戚のおじさんのような感覚を抱いてきた。
しかし、プライベートと混同することは、急成長を遂げている拳矢に対して失礼にあたる。そのため、自分から「連係してみたい」と公言することはなかったが、前検日に名古屋競輪場に着いたとき、拳矢が駆け寄ってきて、こう言ってくれたのだ。
「もし付いてもらえるなら、頑張りたいです」
そのときはもう、嬉しさのあまり、気持ちが一気に高ぶっていくのがわかった。何しろ、その直後の検査で血圧を測ったら、数値が普段より20以上も高かったのだから…。
ただ、初日のレースのメンバーには、近畿の松岡健介(87期・兵庫)もいた。松岡が先行するなら自分が番手に付くつもりでいたのだが、拳矢の言葉を伝えたところ、松岡はそれを尊重してくれた。そのため初日は、山口-村上-松岡というラインを組んで戦うことになったというわけだ。
2日連続で番手に付いたが、特に初日の拳矢は、見ている人にとっても100点と感じられる走りだったと思う。まさか、1月の寒い中、2周も突っ張り先行をしてくれるとは考えもしなかったが、本当に強かった。そのおかげで、自分と拳矢でワンツーフィニッシュを決めることもできた。
今回、10数年ぶりに他地区の選手と連係したわけだが、今後も同じようなことがあるかというと、それはないだろう。拳矢との連係は特別なケースだし、やはり今の自分があるのは、近畿の先輩や後輩たちと切磋琢磨し、成長させてもらったからこそ。基本的に、近畿の選手を大事にしたいという考え方は、自分の信念として絶対に変えてはいけないものの1つと捉えている。
だから、近畿の選手が活躍すると実に嬉しいものだが、ここ最近で一番興奮したのが、古性優作(100期・大阪)のKEIRINグランプリ初出場・初制覇だ。
古性はデビュー当時から大きな期待を背負うような選手ではなかったし、トントン拍子に出世してきたわけではない。しかし、たえず諦めない気持ちを持ち続け、地道に努力を積み重ねることによって、トップ選手の仲間入りを果たすまでになった。その道のりが自分の若手時代と似ているため、時には自分自身と重ね合わせながら、その進化を見守ってきた。
そんな古性が、KIERINグランプリに向かう前にこんなふうに話してくれた。
「2012年の村上さんのイメージを持って走ってきます。それで4番車を選びました」
自分が2012年に初めてKIERINグランプリを制したときは4番車。そして昨年の古性と同じく、単騎で挑んでいる。
レースは自宅でテレビ観戦していたが、不思議なもので、視聴者というよりも、古性の目線で自分が走っているような感覚にとらわれていた。2012年に単騎で捲っていったのと同じようなタイミングで「よし、仕掛けるならここだ!」と腹を括った瞬間、古性も捲っていったので、まさに自分が古性に乗り移っているかのようだった。
1着でゴールした後はすぐに観戦モードに戻ったが、画面に映る古性の姿を見ながら、「期待はしていたが、本当にやったんだなあ。いいレースを見せてもらった」という気持ちを抱いたものだ。
今の近畿には、競輪界を牽引する脇本雄太(94期・福井)がいて、その脇本を目標にしてきた古性がいる。さらに、次の世代や次の次の世代も育ってきている。
たとえば、1月19日から21日まで小田原競輪場で開催された神静民報社杯争奪戦・S横浜杯(FI)では、野原雅也(103期・福井)を3日連続でマークしたが、以前よりひと回りもふた回りもスケールの大きい選手になっていた。野原が連勝した初日と2日目には一気に突き放され、悔しい思いもした。
それまで頼りなく感じていた若手選手たちが、どんどん頼もしさを増していくのは喜ばしい限りだが、それでも、彼らから引導を渡されるまでは、うっとうしいと思われるぐらいの存在でありたい。近畿を盛り上げる歯車の1つになって、しっかりと活躍していきたいと考えている。
そのためにも絶対に変えてはいけないのが、どんなときでも、報われるまで努力し続けるという姿勢だ。
競輪選手生活を長く送っていれば、苦しさを感じることはいくらでもある。それこそ勝ち続けているときだって、苦しい思いをすることがある。
苦しいときは上り坂ーー。これは、かつて近畿の大先輩・松本整さん(45期・京都)に教えていただいた言葉だ。いま苦しいのは坂を上っているからであり、1つ1つ乗り越えて、坂の頂上までたどり着けば、素晴らしい景色を見ることができる。逆に、そこで諦めたり逃げたりしたら、気持ちは楽になるかもしれないが、その先には進むことができない。
つまり、苦しさを味わえることをポジティブに捉え、むしろエネルギーに替えるぐらいの意識を持つことが大切というわけだ。
そのうえで、自分としては、まだ見たことのない新しい景色と出会えることを信じて、これからも常に努力を怠らないようにしたいし、そうした気持ちがある限り、まだまだ現役として戦い続けていくつもりだ。
村上義弘
Yoshihiro Murakami
1974年京都府生まれ、花園高出身。日本競輪学校73期卒。代名詞は「先行日本一」「魂の走り」。KEIRINグランプリ2勝、日本選手権競輪4勝を含む特別競輪13勝。実績だけでなく競輪に向き合う姿勢や常に全力を尽くすレーススタイルは、選手・ファンから絶大の信頼を得ている。ファンの存在を大切にし続ける競輪界のレジェンド。