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村上義弘 全ては競輪から教わった

全てはレースで結果を出すため…デビューから27年、村上義弘はどんな準備をしてきたのか

2021/11/26 (金) 15:00 15

レース結果が選手生活に直結する競輪選手、それだけにレースに臨むまでの過程が重要です。デビューから27年。これまで数多くのタイトルを獲得し、47歳の今もS級で走る村上選手の「準備」について掘り下げていきます。

今月と来月の2回に渡って自分が行ってきた準備について書いてみたいと思う(撮影:桂伸也)

年齢を重ねて変化してきた準備の意識

 競輪選手として誰よりも強くなるため、そしてレースで勝利するために、絶対に欠かせないことの一つが準備だ。目標のレースに向けて、レースがない期間も、いかに競輪に対して真剣に向き合い、肉体面や精神面を高め、整えていくか? 自分自身、常にそうした意識を持って、さまざまな練習や心身のケアなどに取り組んできたからこそ、27年を超える競輪人生を送ることができたのではないかと実感している。ただ、その取り組み方は、上り調子で実力をつけてきた20代と、大きな怪我をした30歳以降とではずいぶん違うのも事実だ。

 そこで、準備をテーマにして、2回に分けて、それぞれを取り上げたいと思うが、今回は、前者について書いてみよう。

 1994年4月にプロデビューしたとき、自分が心に誓っていたのは、「たとえ才能や体格に恵まれていなくても、3年後には必ず上位クラスで走ってやる!」ということだった。

 その3年計画の準備として、まず取り掛かったのが、自分に最も適した練習環境作りだ。その際、自分がやるべきことは自分で判断したかったため、師弟制度が主流となっている中、師匠を持つことはしなかった。もちろん先輩たちからのアドバイスを参考にすることも多かったが、最終的に自分で練習のメニューやスケジュールなどを決めることが、計画を実現させるための最善策だと考えていたからだ。

 そのうえで、毎日の練習では、子どもの頃から憧れていた滝澤正光さん(43期・現日本競輪選手養成所所長)の練習を参考にし、自転車で200㎞以上走っていた。とにかく長い距離、長い時間乗ることをノルマにしていた。

 さすがに疲れが溜まることもあったが、そうした状態でも走り続けられないことには上位クラスには行けないと思い、レースが近くなっても、決して練習量を減らすことはなかった。それが、自分なりのレースに向けた準備でもあった。

 そのおかげで、デビュー翌年にはS級に昇格できたのだが、そこで目の前に立ちはだかったのがS級の壁だった。なにしろ、A級ではベスト3に入ると自負していた力が、まるで通用しなかったのだ。特に、S級の選手たちのスピードや一瞬におけるダッシュ力は、自分より何倍も上だった。

 そのため、3年計画が終わる段階でS級に所属してはいたものの、20代前半くらいまでは、自分が満足できるような結果をなかなか残すことができなかった。

 以前も書いたことがあるが、そうした状況の中、自分が飛躍するきっかけとなるアドバイスを送ってくれたのが、同じ京都の大先輩・松本整さん(45期)だった。

 それは、自分がこだわり続けてきた長い距離を走る練習を減らすとともに、スピードとパワーを身につける練習を増やした方がいいということ。陸上で言うと、マラソン選手が短距離の選手たちとスピードを競うようなものだったので、短距離に対応できる脚質に変える必要があったというわけだ。

バンク外での乗り込みで長く練習出来る体力が養われた(撮影:桂伸也)

 以降、競輪場のバンクで、先導するオートバイの真後ろに付けて走るスピード強化練習の比率を高めていったところ、思わぬ発見があった。実は、それまで徹底してきた長時間の乗り込みによって、他の選手たちを圧倒するスタミナが培われていたため、誰にも負けない練習量をこなすことができたのだ。

 その結果、スピードとパワーがアップし、S級でも十分通用する手応えを掴んだことから、自分にとって、このスピード強化練習は必要不可欠なものになった。

練習から“出し切った感覚”を追い求める

 そして、レースではすべての力を出し切らないと、当然勝つことができないだけに、練習にも、そうした前提を意識しながら臨んでいる。そこで常にイメージしているのが、自分が過去に最も力を出し切ったときの感覚を追い求めていくということだ。

 そうしたイメージは、自転車に乗っていないときでも、いつも頭の中に残っていて、ふと「あっ、今ならできるかもしれない」と思えたときは自転車に乗りたくなる。それこそ、かつては、夜中にハッと目が覚めて、すぐさま自宅のトレーニングルームに向かうことがあったりしたものだ。

 また、他のアスリートと同様、競輪選手も、1年を通して、心身ともにピークの状態をキープし続けることはできない。そのため、自分の場合は、20代の頃から、ピークを年に2回作ることを目標にし、練習で調整するようにしてきた。そのピークをどのレースに定めていたかというと、競輪選手にとってステイタスが高い日本選手権競輪とKEIRINグランプリだ。

 現在は2ヵ月後ろにズレているが、もともと日本選手権競輪は3月に行われていたため、2月から状態を上げていき、3月に1回目のピークを迎えるようにしていた。そこから状態が下がるにしても、できるだけなだらかにすることを意識しながら、地元・近畿で開催される6月の高松宮記念杯競輪に向かう。

 7月にあえて肉体的に強く追い込む練習を繰り返し、一旦、状態をピークの対極まで落とした後、再び8月から状態を上げていく。8月のオールスター競輪、9月にホームグラウンド・向日町競輪場で開催される平安賞(GIII)を経て、12月のKEIRINグランプリで2回目のピークを迎える。そして、翌年の1月にまた、強く追い込む練習を繰り返し、状態を落とすというわけだ。

 自分自身、長年の経験ですっかり染みついているのか、身体が勝手にピークの時期を覚えているような感覚すらある。まあ、日本選手権競輪の開催月が変わったのにもかかわらず、いまだに3月が近づくと緊張感が高まってしまうのだが……。

レース前に妻に伝えていた言葉

 そうした中、すべての準備がうまく行き、最高の結果を残すことができたレースがある。2002年11月、28歳のときに初めてGIタイトルを獲得した全日本選抜競輪だ。

 その年の7月、長年お世話になってきた松本整さんが、43歳という年齢で寛仁親王牌制覇を果たした。

「今年を逃すと、松本さんと一緒にグランプリを走るという恩返しのチャンスはもうないかもしれない」

 そんな気持ちを強く抱き、狙いを定めたのが全日本選抜競輪だった。

 そのときのレースに向けた練習や心身のケアは、何から何まで自分のイメージ通りに進んだ。肉体面や精神面をしっかりと高め、整えることができたため、まだGIを制したことはなかったものの、もはや優勝すること以外、眼中になかった。

 前検日に自宅を出るとき、妻に対して、「もし優勝したら、お世話になった人たちに、これまでのお礼を兼ねて、すぐに連絡してくれ」と伝えるぐらい自信もあった。

 そして、初日2着、2日目4着、準決勝2着という成績を残したのだが、実は、自分の身体をうまくコントロールできず、足が速く回りすぎていた。おそらく気持ちが前へ前へと行きすぎていたのだろう。

 しかし、決勝では冷静さを取り戻したうえ、3日間の自分の状態も十分把握できていたので、レース中は、どういう展開になっても勝てるというイメージしか沸かなかった。

 いわゆる「ゾーンに入る」とはこのことだったと思うが、最後はマクリ追い込みのような形で、ゴールを先頭で駆け抜けることができたのである。長い競輪人生において、レース前の準備やレース展開など、これほど完璧に思い描いた通りになったレースはないだろう。

 次回も引き続き、準備をテーマに、30代以降の取り組み方について触れてみたいと思う。

(取材・構成:渡邉和彦)

※次回公開は12月10日(金)になります。

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村上義弘 全ては競輪から教わった

村上義弘

Yoshihiro Murakami

1974年京都府生まれ、花園高出身。日本競輪学校73期卒。代名詞は「先行日本一」「魂の走り」。KEIRINグランプリ2勝、日本選手権競輪4勝を含む特別競輪13勝。実績だけでなく競輪に向き合う姿勢や常に全力を尽くすレーススタイルは、選手・ファンから絶大の信頼を得ている。ファンの存在を大切にし続ける競輪界のレジェンド。

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