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村上義弘 全ては競輪から教わった

【村上義弘の生き方】アクシデントは悔いても仕方がない 自分がその時に出来るベストを考える

2022/04/14 (木) 18:00 35

昨年6月からスタートした連載コラムは次回の更新で惜しくも最終回となります。そこで、今回と次回は村上義弘選手の生き方にフォーカスし、村上選手が何を大事にして現役を続けているのかを探ります。

競輪に対しての思いはデビュー28年経った今も変わらない(撮影:桂伸也)

才能のある選手と戦うために考えたこと

「競輪との出会いから現在までの道のり」、「地元・近畿」、「ライン」、「レースに向けた準備」、「変化と不変」ーー。

 昨年6月に連載をスタートさせてから計12回、このコラムではさまざまなテーマを取り上げてきた。その度にユーザーの方々から多くの反響をいただけたことは、自分としても嬉しいことこのうえないし、書き続けてきた甲斐があるというものだ。

 その集大成として、今回編集部から提示されたテーマが「村上義弘という生き方」。28年に及ぶ競輪人生において、競輪選手として、そして人として、自分がどのように考え、どのように生きてきたのかということについて、2回に分けて記してみたい。

 2021年度終了時点で総出走回数2207回、通算652勝、KEIRINグランプリ2勝、GI6勝を含め、優勝91回…。もともと体格的に恵まれたわけでも、周囲から期待されていたわけでもない自分が、これだけの成績を残せたのは、誰よりも競輪に向き合い、誰よりも練習してきたからだ思う。昔も今も、趣味らしい趣味を持ったことはなく、四六時中、競輪のことばかり考えている。

 もちろん図抜けた才能があれば、そこまで真剣に取り組まなくても、勝ち星を重ね、ビッグタイトルを獲得することができるかもしれない。実際、1993年に入学した競輪学校では、自転車競技の経験がない同期の多くが、高校時代に全国大会で優勝した自分よりもはるかに速く走っていたため、「世の中には素質に恵まれた人間がこんなにいるのか…」と思い知らされたものだ。

 しかし、彼らに対してコンプレックスを抱くことはなかった。幸い競輪は、スピードやダッシュ力、持久力など、さまざまな要素が必要であり、どれか1つが優れていれば必ず勝てるというわけではない。確かに才能は大切だが、自分のような選手でも、それらの要素を総合的に高めていけば、彼らと対等に戦い、いずれ追い抜くことができるのではないか。だから、そのためのプランをしっかりと立てたうえで、常に競輪のことだけを考え、地道に練習を積み重ねていくしかない。

デビュー前から影響を受けた滝澤さんの存在

 そう思えたのは、日本一の競輪選手を目指して、たった一人で自転車に乗り始めた中学2年生の頃から、「たくさん練習すれば勝てる」という意識を強く持っていたからだ。それは、当時憧れていた滝澤正光さん(43期・現日本競輪選手養成所所長)が、1日200kmの乗り込みなど、ものすごい練習量をこなしたからこそ、あれほど偉大な選手になったということを知ったのがきっかけだった。

デビュー前から憧れの存在だった滝澤正光さん。フレームの色は滝澤さんと同じ色を使っている(撮影:村越希世子)

 高校時代に日本一になれたのも練習を積み重ねた結果という手応えがあっただけに、競輪学校の同期にコンプレックスを抱いている暇があったら、とにかく練習した方がいい。もし負けたら、もっと練習すればいい。今もなお、練習以外に勝つための方法はないという考えは変わっていない。

何より辛いのは計画通りに運ばないこと

 競輪選手は落車などのアクシデントが付き物なので、怪我をすることも多い。そのため、時にはレースに対する恐怖心を抱くこともあるかというと、自分の場合はほとんどない。基本的に前向きなことしか考えないタイプなので、避けようにも避けられないことをいちいち気にしたりはしない。もし大怪我に見舞われたら、そこから復帰までの練習やリハビリのプランを新たに立て、それに沿って実践していけばいいだけの話だ。

手術後は僅かな感覚にズレを感じて苦しんだ(撮影:桂伸也)

 プランといえば、実は2年ほど前、葛藤に苦しんだことがある。自分にとって、アクシデントよりも辛いことはプラン通りに進んでいかないことだ。主な要因は加齢による体力の低下なのだが、そのときは腹膜炎を発症したことが大きく影響していた。

 2020年1月に腹膜炎の手術をし、約1か月半後にはレースに復帰したものの、想定していたプランとは程遠かった。手術の影響なのか、それ以前にくらべると、心身ともに感覚がズレ、なかなか自分の思うように走ることができなくなってしまった。

 そんなときである。「こんな状態で選手を続けていいのか?」という感情と「いや、このまま終われるか!」という感情の葛藤が生まれたのは…。さすがに、このときばかりは前向きに捉えることができず、ストレスが溜まる一方だった。

 そうした日々を過ごしていた自分を救ってくれた、あるファンの方のこんな言葉がある。

「村上君は走ってくれているだけでいい」

 その方も体調があまり良くなかったのだが、それを聞いたときに痛感したのだ。「たとえいい結果を残せなくても、もし自分の走りが少しでも誰かの力になるのなら、もっとできることがあるんじゃないか」と。

 そして、そうした人たちに喜んでもらうことは、自分にとっても力になるし、大きな支えにもなるのは間違いない。その言葉のおかげで、つくづく競輪の世界で長年生きてきてよかったと実感することができた。だからこそ、まだまだ現役の競輪選手として戦い続けなければいけないと考えている。

 最終回となる次回も引き続き、「村上義弘という生き方」をテーマにして話を進めていくつもりだ。

(取材・構成:渡邉和彦)

応援してくれる人がいる限り走り続けたい(撮影:島尻譲)

最終回は4月30日(土)公開予定です。

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村上義弘 全ては競輪から教わった

村上義弘

Yoshihiro Murakami

1974年京都府生まれ、花園高出身。日本競輪学校73期卒。代名詞は「先行日本一」「魂の走り」。KEIRINグランプリ2勝、日本選手権競輪4勝を含む特別競輪13勝。実績だけでなく競輪に向き合う姿勢や常に全力を尽くすレーススタイルは、選手・ファンから絶大の信頼を得ている。ファンの存在を大切にし続ける競輪界のレジェンド。

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