2021/10/28 (木) 18:00 30
競輪では選手全員が1着を目指しながら、レースを有利に進めるため、最後の直線まではライン(=チーム)を組んで戦います。今回の連載コラムのテーマは「ライン」。これまで数多くの「ライン伝説」を残してきた村上選手が、競輪の醍醐味の一つと言われるラインについて感じていることや思い出を語ります。
プロの競輪選手になってから28年目を迎えたが、これまで数え切れないほどのレースに出走してきた。そして、数え切れないほどのラインを組んできた。
そこでの役割は、先行のときもあれば、番手や3番手のときもあるが、常に、自分の勝利のため、なおかつ同じラインの選手たちのために、懸命に走り続けてきたつもりだ。
こうしたラインは、競輪ビギナーの方たちにとって、最初は分かりづらいかもしれない。しかし、ラインがどういうものかを知り、レースの展開や選手同士の関係性などを想像することが、競輪の面白さをより深く味わうことにつながるのは間違いないだろう。
今回は、レースでラインを組むことによって学んだことや感じてきたことなどについて、自分の経験から語ってみたい。
競輪は本来個人戦でありながら、長い歴史の中で培われたライン戦という独特の文化があり、それが魅力の一つでもある。
基本的に、ラインを組んで連係するのは、同じ所属地区の選手同士が多い。お互いによく知っている選手の長所を活かし、短所を補いながら走れるというメリットがあり、そこがうまく機能するとラインの総合力が上がり、自分たちに有利な展開を作っていくこともできる。ただ、その逆もしかり。そのことが分かっているからこそ、決して、ラインを組んだ選手同士が馴れ合いになることはない。
前回、“近畿の絆”や“近畿の結束力”について触れた通り、自分が所属する近畿の選手たちはみな、言葉で確認することはないものの、ラインを組んで走るときは、「同じ近畿の選手として、何をすることがベストなのか?」ということにおいて、心で通じあっているように思う。
ラインの中で走る順番は、選手個々のレーススタイルや「自分はこうしたい」という主張などでだいたい決まるものだが、時には、選手同士がぶつかりあうこともある。
たとえば、昨年7月に福井競輪場で開催された不死鳥杯(GIII)の決勝に臨む前がそうだった。新型コロナウィルスの影響で7車立てになる中、そのうち近畿の選手が、自分を含めて5人も占めていた。
レースでは、「脇本雄太(94期・福井)ー松岡健介(87期・兵庫)ー東口善朋(85期・和歌山)」というラインと「伊原克彦(91期・福井)ー村上義弘」というラインに分かれたが、そこに至るまでには、かなり長い話しあいが持たれることになった。後から聞いた話によると、1時間8分にも及んでいたらしい。
その理由は、脇本という絶対的な先行選手の番手を巡る意見のぶつかりあいだった。
脇本と同じ福井の伊原としては、地元開催の記念競輪でもあるし、そのすぐ後ろで頑張りたい。ただ、松岡にしても、それまで近畿のラインに貢献し、実績を積み重ねてきただけに、そうそうその位置は譲れない。自分にも番手の権利はあったが、そこで主張したら、伊原や松岡の顔をつぶすことになる。偉そうな言い方かもしれないが、彼らにチャンスを与えたいという思いもあった。
最終的には、伊原が自力で頑張るのなら、自分がその番手に付くということで話が落ち着き、2人で別のラインを組むことになった。
長い話し合いが終わった後はさすがに疲れていた記憶があるが、プロである以上、信念があって当然だし、納得して走るためには避けて通れないことでもある。
そのうえで、誰もがラインの中で任された位置で、危険と隣り合わせというリスクを覚悟しながら、それぞれの仕事に全力を尽くさなければならない。そして、自分自身が1着を取れれば、それに越したことはないし、もしそうならなくても、同じラインの選手が1着になったとしたら、喜びを感じずにはいられない。
それこそが、ラインの力でもぎ取った勝利であり、ラインの醍醐味とも言えるだろう。次回は、自分の競輪人生の中で強く印象に残っているラインなどについて、取り上げてみようと思う。
(取材・構成:渡邉和彦)
※次回公開は11月11日(木)になります。
村上義弘
Yoshihiro Murakami
1974年京都府生まれ、花園高出身。日本競輪学校73期卒。代名詞は「先行日本一」「魂の走り」。KEIRINグランプリ2勝、日本選手権競輪4勝を含む特別競輪13勝。実績だけでなく競輪に向き合う姿勢や常に全力を尽くすレーススタイルは、選手・ファンから絶大の信頼を得ている。ファンの存在を大切にし続ける競輪界のレジェンド。