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すっぴんガールズに恋しました!

【山口真未・福田礼佳・野崎菜美・横山愛海】24年末で競輪界を去った4人の本心とこれから「かけがえのない経験は人生の宝物」

アプリ限定 2025/01/26 (日) 16:30 36

1月のクローズアップは2024年末をもって引退した4名の元ガールズケイリン選手。自ら引退を選んだ120期の山口真未と、代謝制度により強制引退となった108期の福田礼佳、118期の野崎菜美、124期の横山愛海の3人の歩んだ競輪人生を振り返る。4人の心境とこれからについて、松本直記者がインタビューを交えお届けします。

左上から時計回りに横山愛海、野崎菜美、山口真未、福田礼佳

【横山愛海】デビュー直後に連続落車、ストレート代謝に

インドア生活から一転、自転車競技に挑戦

 高知市出身の横山愛海。漫画研究部でインドアな学生生活を送っていたが、高2の春にSNSで自転車競技で躍動する選手の写真を見つけ「格好いい」と一目惚れした。

「高校卒業後はデザイン系の仕事に就きたいと思っていたんですが、SNSで見つけた自転車競技にハマってしまいました。最初はマネージャーをしていましたが、同級生の諸隈健太郎(養成所127期在学中)が活躍している姿を見て、自分も自転車に乗ってみたいと思い高2の秋から選手に転向。高3の時は四国大会4位で終わってしまい、全国大会に行けませんでした。そのときの悔しい思い、このまま終わりたくないって気持ちが競輪選手を目指すきっかけになりました」

 高校卒業後すぐに養成所を受験すれば120期の代だった。しかし競技を始めて日が浅く、準備不足のためこの年の受験は見送りに。翌年122期で受験したがタイムが伸びず1次試験不合格となってしまった。それでも諦めず「養成所に受かるまで頑張ろう」と心に誓って練習に打ち込んだ成果が実り、二浪を経て124期で合格。競輪選手への第一歩を踏み出した。

自転車部マネージャーから選手に転向(本人提供)

ルーキーシリーズで落車負傷、大事には至らず

 養成所での成績は23人中17位の成績で卒業。2023年4月の宇都宮ルーキーシリーズでデビュー戦を迎えた。予選2日間は7着と車券に絡むことはできなかったが、最終日の一般戦では宇都宮の長い直線を生かし2着に突っ込んだ。

 5月松戸では決勝進出。しかし決勝は最終2角での落車に乗り上げてしまい転倒。なんとか再乗して5着となった。横山は「擦過傷があるくらいで大けがにはならなかった」と振り返る。

本デビュー最終日の落車で救急搬送

 迎えた本格デビューは同年7月の地元高知。ミッドナイトで無観客レースだったが、高校時代から慣れ親しんだバンクでのレースに期待は高まった。予選2日間は4、6着。決勝進出は逃したが、気持ちを切らさず臨んだ最終日の一般戦でアクシデントは起こってしまった。

 前受けから突っ張り先行を敢行した横山。最終バックを先頭で通過する攻撃的な組み立てでレースを作ったが、最終3角で外側の選手と接触。バランスを崩し、一回転してバンクに叩き付けられてしまった。

「松戸のときと違って、高知の落車は体が痛くて起き上がることができなかった。頭を強く打っていたので、救急車で病院に搬送されて入院。退院したあとも、頭の痛みが引かず、手のしびれも取れませんでした」

復帰後も上昇の糸口掴めず

 8月の防府からレースに復帰したが大敗が続き、負のスパイラルに陥った。

「高知の落車のあと、体の反応が遅れるようになってしまいました。落車をする前は『バンクで何があっても仕方ない』という覚悟を持ってレースに臨めていたのに、落車のあとはレースを走ると怖さを感じている自分がいました」

 その後は浮上のきっかけをつかむことができず、競走得点はどんどん下がっていった。23年後期、24年前期、24年後期と成績審査対象となる47点を切り、ストレート代謝に。わずか1年半で強制引退となってしまった。

「点数がどんどん落ちていき、周りからも『ヤバいよ』と言われ焦りはふくらむばかりでした。でも体は思うように動かず、どうやったら点数が上がるかもわからなくて…。レースになれば焦りすぎて動けなくなってしまった。ミッドナイトが続いて外枠のレースが多かったのは運がなかったと思いますが、自分の力で悪い流れから抜け出すことができませんでした」

地元でのラストラン、残った“悔しさ"

 ラストランは24年12月の高知。高校時代から走り続けた地元バンクで最後のレースを迎えた。

「緊張することはなかった。いつも通りに走ることができました。走り切ったあとはホッとしました。最後は車券に貢献したかったので、そこだけは悔しさが残っています」と振り返った。

 ルーキーシリーズを含めて1年8か月の選手生活。「デビューしてすぐに落車。苦しいことが多かったですね。でも普通の人ができない経験をいっぱいできました。仲間もいっぱいできたことは自分の人生の宝物になりました」と気丈に振り返る。

23歳横山愛海は次のキャリアに向かってリスタート

 横山はまだ23歳と若い。次のキャリアは高校時代から興味のあったデザインの仕事を考えている。

「オンラインスクールでWEBデザインの勉強を始めました。もしまたどこかで、競輪に関わる仕事にご縁があったら嬉しいです。引退しても競輪場に行ってガールズケイリンを応援したいですね」

 志半ばで競輪界から去ることになったが、今後もガールズケイリンを見守っていく。

【野崎菜美】一度は代謝争い抜けるも膝のケガが痛手に…

国体出場に向け陸上から自転車競技に転向

 島根県出雲市で育った野崎菜美。学生時代は陸上競技で活躍し、島根大学に進学。国民体育大会(現・国民スポーツ大会)の女子自転車競技のメンバーに誘われたことがガールズケイリン挑戦のきっかけとなった。

「2016年の岩手国体から女子の自転車競技が始まりました。島根は岩手大会に参加する女子選手がおらず、翌年の松山大会に出場できる女子選手を探しているという話を大学で聞きました。私は自転車競技のことはあまり知りませんでしたが、父は競輪好きで神山雄一郎さんのファン。そのくらいの知識でしたが、国体に出られるならばと自転車競技を始めました」

 初めて出場した国体で自転車競技の楽しさを知り、自転車競技の体験イベント『ガールズサマーキャンプ』に2度参加した。

「楽しかったですね。大学4年生のとき、就職活動の一環でガールズケイリン選手への挑戦を決めました。教員をしている父には『ガールズケイリンに挑戦するのはいいけど、教員試験は受けておいたほうがいい』って言われていましたが、高校の体育教師の試験は1次で落ちてしまった。ガールズケイリンの試験は適性で合格したので、まずは競輪選手を頑張ってみよう、と」

 118期で養成所入所すると、21人中17位の成績で卒業。在学中から下条未悠、廣木まことは気が合い、デビュー後も「まこなみーばー」として一緒の練習着を作ったりと仲良く過ごした。

在学中からウマが合った「まこなみーばー」(本人提供)

最初の代謝ピンチ、先輩たちの救いの手

 デビュー戦は2020年5月15日、自身の24歳の誕生日だった。最終バック5番手から下条未悠を追いかけ、外から交わして3着と奮闘。本格デビューの7月弥彦でも2日目に3着と、車券に貢献。「上々の滑り出しだった」と振り返る。

 しかし、ガールズケイリンの代謝目安となる47点をクリアできない期間が2期続いた。苦しい戦いが続く野崎に、同県の先輩たちが手を差し伸べてくれた。

「21年の秋、桑原(大志)さんから『菜美、このままだとクビになっちゃうよ。一緒に練習しよう』と声をかけてもらえた。ガールズでも渡口まりあさんや和歌山から移籍してきた山本知佳さんがいろいろ教えてくれて、練習メニューを考えてくれた。周りの人のおかげで21年の後期に初めて47点以上を取ることができて、代謝候補から抜け出せました」

 22年1月には、高知で初勝利を手にした。

「この1着は桑原さんのおかげ。本当にお世話になりました。桑原さんのあっせんが止まっている時期に一緒に練習をしてもらえて脚が付きました。レースの流れに乗るコツをつかめたことと、自転車の乗り方のコツが身についたこと。この2つがかみ合って1着を取ることができました」

練習中に左膝を負傷、落車でとどめ

 その後も派手な活躍はなかったものの、コツコツと堅実に走っていた野崎だが、23年夏の練習中に膝を痛めてしまう。

「23年の前期に点数が取れて、少しリフレッシュをしてから練習を再開しました。そのときウエイトトレーニングを取り入れたら、バランスを崩して左膝を壊してしまいました。2週間ほど歩けず、大変でした。レースに復帰しても力が入らなくて、これはヤバいと思いました」

 この膝の負傷から、成績は一気に落ちてしまった。23年秋に弥彦で違反訓練に参加し、久しぶりのバンク練習で少し感覚を取り戻したが、24年5月に岸和田で落車してしまう。

「膝は少しずつ良くなってきていました。でも5月岸和田の落車で追走が怖くなってしまった。普通に走っているのに、勝負所でフワッと離れていく。…追走ができなくなってしまったんです。気持ち的にも苦しく、立て直すことができませんでした」

「最後まで応援してくれた人に感謝」

 最後の1期間はラストランに向けてやれるだけのことをやろうと気持ちを切り替えた。

「最後の1期間はどんな展開になっても最後まで諦めないで走りました。成績が悪くなったら応援する気持ちがなくなってしまっても仕方ないのに、最後まで応援してくれる人がいたので本当に感謝です」

同期の下条未悠(左)は惜別Vで野崎を送り出した

 12月は仲のいい下条未悠と2開催で一緒になり、下条は名古屋で優勝と最高のお別れのプレゼントを送ってくれた。

「最後の名古屋は未悠が自分より泣いていた。未悠とまこちゃんと一緒の開催だと自分も結果が良かったんです。自分は『地元3割増し』じゃなくて、『まこなみーばー3割増し』でしたね」

次のキャリアは公務員「悔いなく走り切った」

 今後は山口県内の自治体で、公務員として第二の人生をスタートさせる。

「勉強をしていてよかったです(笑)。ガールズケイリン選手になるという人生の選択は、正しかったと思っています。プロスポーツ選手はみんなの憧れの職業ですからね。普通に生きていたらできない経験をいっぱいできましたから。選手生活は短くなってしまったけど、悔いなく走り切れました」

 これからは金網の外から同期や仲のいい選手を応援しながら競輪を楽しんでいくつもりだ。

「今後はファンの立場で競輪を見ていきたい。自分の経験がガールズケイリンの車券成績にどのくらい反映するのか楽しみです」

【福田礼佳】産休から復帰後1年半で代謝に

競輪一家で育ち、自転車競技で結果出す

 栃木県宇都宮市出身の福田礼佳は、父・祐治(54期・引退)、祖父・明(期前・引退)、祖母・恵津子(期前・引退)と競輪一家で育った。ガールズケイリンとの出会いは高校時代だ。

「高校受験に失敗したんです。県立高校に行きたかったけど、落ちてしまい作新学院に入学することになりました。中学時代はバスケットボールをやっていたけど、高校ではなにか違うスポーツをやろうかなって考えていたんです。それで自転車競技部の見学に行ったら、お父さんと作新の自転車競技部の顧問が同級生で『明日から来い』って言われて(笑)。お父さんも自転車の用意をしてくれて、自分の気持ちが整う前に、周りの大人がレールを敷いてくれたような感じで自転車競技を始めるかたちになりました」

 福田が高1のとき、ちょうどガールズケイリン1期生が競輪学校で訓練をしている時期だった。夏帰省で栃木に戻ってきた荒牧聖未(102期)の存在は知っていたが、自分が選手になるとはまだ思っていなかったという。ガールズケイリン選手を目指したのは高3のときだ。

「高校は家政科で服を作ったり、料理をしたりしていた。高校卒業後は美容系の専門学校に行きたいと思っていました。競輪選手になることはそこまで前向きではなくて、親に相談したら『夏のインターハイの結果で決めればいいんじゃない』と。そうしたらインターハイのケイリンで初めて優勝することができてしまったんです。そのとき『競輪選手になろう』ってスイッチが入りました」

デビュー後は劣等感に悩まされることも

 108期で日本競輪学校に入学。在校成績は8位だったが、第2回のトーナメントでは児玉碧衣、尾崎睦を相手に優勝。卒業記念レースでも決勝進出と存在感を発揮し、競輪一家の血統の良さを発揮した。

 2015年7月に川崎でデビューし、2戦目の立川で決勝進出。12月の小倉で初白星をゲットしたが、同月四日市で過失走行により失格してしまった。順調にキャリアを積み重ねているように見えたが、優秀な同期たちと自身を比較してしまっていた。

「デビューしてから同期のみんながうまく走っていて、それに比べて自分は結果がなかなか出せないと感じて焦っていたかもですね…。失格でいろんな人に迷惑をかけてしまったし、気持ちが落ち込みました」

寸前で代謝回避するもアクシデント重なる

 選手生活最大のピンチは2019年から2020年。2019年前期は成績が急降下し、前期の代謝争いの渦中におかれてしまう。さまざまな場所へ出稽古へ行き、現役続行をかけて猛練習を詰んだ。

 その結果、期末の6月末の小倉を6着・5着で乗り切り寸前で代謝を回避。しかし後期の10月久留米で落車して左肘を骨折。2020年は2月の松戸で落車し、今度は鎖骨を骨折してしまう。

「なんとかクビにならず選手を続けられることになったのに、続けて落車…。自転車のセッティングもバラバラになり、乗り方の正解も分からなくなってしまった。気持ちをぶつけるところが無くて、松戸の落車のときは医務室で大泣きしました」

苦しい時期支えたパートナーとオールスター選出

 そんな失意の時期を支えてくれたのは当時交際していた曽我圭佑(113期)の存在だ。

「久留米で落車したとき、熊本から迎えに来てくれたんです。肘を骨折していたので、前開きのパーカーを買ってきてほしいって頼んだらなぜかプロレス団体のパーカーを買ってきた。もう笑うしかなくて、楽しい人だなと思いました。この人と一緒だったら楽しいかもなと思えた瞬間でした」

失意の時期を支えてくれた夫・曽我圭佑(右)と

 苦しんだ2020年には、嬉しいニュースもあった。8月に名古屋で開催されたオールスター競輪のファン投票で12位に選ばれたのだ。(※落車の影響で出走回数が足りず出場は叶わず)

「SNSを頑張っていたからかもしれないけど、まさかファン投票で選んでもらえるとは思っていなかったのでうれしかった。でも出場はできず、選んでくれたファンの人には申し訳ない気持ちでいっぱいでした。オールスター、出てみたい気持ちはあったけど流れに乗れるか自信はなかったですね。でも走ってみたかったな」

新しい家族の誕生と、愛する父との別れ

 2020年9月の川崎出走後に曽我圭佑との結婚を発表し、産休に入った。選手を辞めるつもりはなく、2人の子どもに恵まれたあとは復帰に向け練習に励んだ。3年弱の産休のあいだには、競輪選手だった父との別れがあった。

「2人目の子どもが生まれてすぐに、父が亡くなりました。2人目は抱っこしてもらえたのですが…。選手になることを一番応援してくれた父に、産休から復帰して走っているところを見せたくて。だから絶対に復帰しなくちゃと思っていました。子どもが寝てからとか、旦那の実家の両親が預かってくれるときとか、時間を見つけて練習しました。結婚を期に熊本に移籍して、復活する熊本バンクでも走りたかったので、復帰に向けて練習はずっと続けていました」

愛する父との別れ…(本人提供)

復帰から1年半で強制引退

 23年7月の高知で産休から復帰してからは苦しいレースが多かった。9月の函館で1着を取ったが、点数の壁はクリアできず、復帰から1年半となる24年後期での代謝が決まってしまった。

「産休から復帰してからは『ちゃんと家に戻らないと』とレースに向かう気持ちが変わっていました。練習は楽しかったし真面目に取り組んでいましたが、レースになるとひるんでしまっていたかもしれないです」

 福田にとって、代謝危機は2度目。以前の反省を踏まえ、落ち着いて走ることを心がけていたという。

「焦っていても良くないことは分かっていたので、今回は焦らず1走1走を大事に走りました。最後まで練習はしっかりやれたし、熊本、久留米と夫と一緒の開催を走れて良かった。夫は優勝して、格好良かったですね。すっきりした気持ちで終わることができました」

かけがえのない経験した9年

 デビューから約9年の選手生活。悔いを残さず、無事走り切った。

「競輪選手になることができて本当によかった。いろんな選手との出会いがあり、結婚して2人の子どもにも恵まれたし、いいことも悪いこともいっぱい経験できました。子どもたちはまだ小さいけど、自分が選手だったことを覚えてくれているといいですね」

 福田家は3代、曽我家も2代続く競輪一家。2人の遺伝子を受け継いだ子どもたちが選手になる将来も見てみたい。

 今後については「何も決まっていないんですけど、競輪に関わる仕事はしてみたいと思っています。ガールズケイリンで走ってきたことが生かせる機会があれば挑戦してみたいです」と、競輪界への愛をのぞかせた。

最後の地元戦、同期の日野友葵(右)は涙…(本人提供)

【山口真未】キャリアハイで電撃引退 心に決めていた“引き際”

陸上競技出身、大けが機に自転車競技に転向

 茨城県古河市出身の山口真未は、中学時代から陸上競技で活躍し高校も陸上競技の強豪校・取手聖徳へ進学。教職を目指し進学した茨城大学時代には、インカレ七種競技で2年連続8位入賞。大学4年生のときには日本グランプリでも8位と好成績を残した。

 しかし大学最後の大会で、左アキレス腱全断裂の大けが。後遺症で陸上競技の継続は困難となり、他競技への転向を考えた。冬季五輪種目にもなっているスケルトンにも挑戦したが手応えは掴めず、次の挑戦で自転車競技を選択。最初は長距離のロード種目に取り組んだが、短距離のトラック競技に適性を見いだすと、才能が一気に開花した。

 2018年には全日本自転車競技選手権の500mタイムトライアルで優勝。ナショナルチームの強化指定Bに選ばれるまで結果を出した。

「オリンピックに出たい気持ちがあったので、自転車競技で強くなりたいと思っていた。ガールズケイリンの選手になることが強くなるための近道だと思い、120期で養成所を受けることを決めました」

デビュー直後から活躍“120期の出世頭”

 120期の在校成績は4位、卒業記念レースでも決勝3着と好結果を残して養成所を卒業。2021年5月にプロデビューを迎えると、3場所目のルーキーシリーズ和歌山で初優勝。デビュー2年目は2月大宮で2回目の優勝を挙げ、11月にはグランプリトライアルに初出場するなど“120期の出世頭”として活躍した。

 4年目の24年は年頭の静岡から優勝でスタートすると、ハイピッチで1着を量産。6月のパールカップ、11月の競輪祭女子王座戦とGIにも出場。年間75走で1着36回、優勝回数10回とキャリアハイの成績を残した。

キャリアハイの年に突然の引退発表

 しかし11月の競輪祭女子王座戦終了後に、自身のXで引退を発表。競輪ファンや関係者を驚かせた。

「養成所を受けるときにはもう、2024年で引退しようと思っていました。もともと東京とパリ、2つのオリンピック出場を目指して自転車競技を始めた。自転車競技の強化の過程でガールズケイリン選手になりました。選手になったときも考えは変わらなかったし、2024年までだなと思って選手生活を送っていました」

 山口はデビュー前から、この年をもって自転車競技とガールズケイリンから引退することを心に決めていたのだ。

「最後の1年間はできることをやりました。2023年は自力を出すことにこだわって大敗することも多かった。でも自力を出して走るなかで、対戦相手が考えていることが分かってきた。その結果、最後の1年は勝つことができたと思う。終わりを決めて走っていたので、2024年は応援してくれる人の車券に貢献しようと勝つことにこだわって走りました。その結果、好成績につながったと思う」

 一番いい成績を残した年に引退を決め、ラストランと公表して臨んだ静岡は完全優勝。間違いなくトップ選手で、今後さらなる活躍も期待できたにもかかわらず、後悔はなかったのか?

「ラストランの静岡はプレッシャーもあったけど、いろんな方のおかげで、いい環境の中で走れた。同期や仲のいい選手も見に来てくれたなかで優勝することができて本当にうれしかったです」

 最後のレースを振り返る山口の晴れやかな表情からは、“やり切った”という思いがにじみ出ていた。

ラストランは有終の美飾る完全優勝

次のステージは指導者の道へ

 33歳で現役選手を引退した山口真未。今後は指導者の道に進む。

「これまでのキャリアを活かして自転車競技でオリンピックを目指したい、ガールズケイリンの選手になりたいと思っているアマチュア選手をサポートできればと思っています。自分の進む道に迷っている選手がいたら、SNSでメッセージを送ってくれれば相談に乗れることもあると思うので頼ってほしいです」

 山口が叶えることのできなかったオリンピック出場や、GI優勝、グランプリ出場。今後は山口が指導・サポートした選手が、大きな夢を叶えてくれる日が来るかもしれない。

山口真未、次のステージは指導者に

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すっぴんガールズに恋しました!

松本直

千葉県出身。2008年日刊プロスポーツ新聞社に入社。競輪専門紙「赤競」の記者となり、主に京王閣開催を担当。2014年からデイリースポーツへ。現在は関東、南関東を主戦場に現場を徹底取材し、選手の魅力とともに競輪の面白さを発信し続けている。

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