アプリ限定 2024/12/26 (木) 12:00 16
日々熱き戦いを繰り広げているガールズケイリンの選手たち。その素顔と魅力に松本直記者が深く鋭く迫る『すっぴんガールズに恋しました!』。今回は6年ぶりにガールズグランプリに出場する尾崎睦選手(39歳・神奈川=108期)。ビーチバレー選手から競輪選手に転身した尾崎は順調な船出で2年目でGP初出場を果たすが、近年は失格によるペナルティでGPの権利を逃すなど苦しい時期も経験。6年ぶりの大舞台ではデビュー当時の夢を胸に、全力で挑む。
千葉県で生まれた尾崎睦。小3で神奈川県平塚市に引っ越してからはいわゆる“湘南ガール”として育った。兄と弟がいる3人きょうだいで「小さいころから活発で、兄の背中を追いかけて遊ぶことが多かった。母は女の子らしく育てたかったみたいだけど、全くその逆で」と笑う。
ビーチバレー選手からガールズケイリン選手に転向したことで知られる尾崎だが、平塚に越してきたことでバレーボールとの出会いがあった。
「友だちに誘われて初めてクラブを見に行ったとき、コーチから『身長が高いしバレーボールやってみない?』って声をかけてもらった。クラブのみんなで同じ中学のバレーボール部だったので、中学生になってからも楽しくワイワイやっていました」
楽しみながら打ち込んだバレーボールの腕はメキメキ上達し、中3になると神奈川県の選抜メンバーに選ばれるまでになった。
「神奈川選抜の時に高校生と試合をすることもあって、東海大相模のバレーボール部がキラキラして格好良かった。そのときには東海大相模に行きたいって気持ちが強くなっていました」
私立高校への進学はお金もかかれば、電車通学にもなる。それでもスポーツの名門である東海大相模でバレーボールを続けたいという熱意が両親に伝わり、進学が決まった。
「両親は家の近所の公立高校に行ってほしかったんじゃないかな。わがままを言わせてもらいました。一度決めたことを変えるのは嫌だったから…昔から頑固なんですよ、私(笑)」
そうしてバレーボール中心の高校生活が始まると、想像以上の厳しい日々が待っていた。
「キラキラとした憧れは一瞬でぶっ飛びました。練習は本当に厳しかった。毎日アザだらけになるし、大変でした。でも他の部でもその光景が当たり前なんです。土日の練習試合が終わった月曜日の教室は、試合で体も気持ちもボロボロになった生徒ばかり。すごい雰囲気でした」
壮絶な環境でも3年間休むことなく学校に通えたのは、両親のサポートがあったからだ。
「両親には本当に感謝しています。母は朝練、放課後の練習の時間に合わせて毎日最寄り駅まで車で送り迎えをしてくれました」
バレーボールに青春をささげた高校時代、高3の夏のインターハイは県大会敗退に終わった。しかし大きな転機が訪れた。6人制の室内バレーボールから、ビーチバレーへの転向だ。
「インターハイは残念だったけど、ビーチバレーの高校選手権に出られる話があったんです。同級生と初めて海でビーチバレーの練習をしたとき、ずっと体育館の中でやっていたバレーボールと全く違って楽しくて。ずっと体育館の閉鎖された空間でやっていたバレーボールだったけど、海が目の前にある解放的なビーチでやったときに改めて楽しいなって思ったんです」
ビーチバレーの楽しさに気づき、高校の全国大会に出場するといきなり3位の好成績を収めた。
「ビーチバレーは2人組なので、必ず自分が1回はボールを触る。自分の力が試合の結果に結びつきます。頑張ったら頑張っただけ結果になるビーチバレーは自分に向いていると思った。あとは大好きな海でできる競技だというのも魅力でした」
ビーチバレーの魅力に取りつかれた尾崎の進路は一気に変わった。大学はビーチバレーの強豪・東京女子体育大学へ進学。先輩には保立沙織(118期)もいた。
本格的にビーチバレーに転向してからの目標は五輪出場だった。大学卒業後は地元平塚にあるプロチーム『湘南ベルマーレ』に所属し、“ビーチの申し子”と呼ばれた。五輪出場の夢に向かって、練習に明け暮れた。
「ビーチバレーで五輪に出たいという一心で頑張っていました。練習環境はすごくよかった。ただ収入が少なくて…実家暮らしで助かった部分も大きかったけど、バイトはいっぱいしました。朝から夕方まではビーチバレーの練習があり、夜はバイト漬け。ラーメン屋や宅配の仕分けもしたし、クリスマスシーズンはケーキ工場で働きました。それでも遠征費などでお金が足りなくて、この時期にお金を稼ぐことの大変さを知りました」
しかし、2012年夏のロンドン五輪出場を目指していた2011年5月、右膝の前十字靱帯を損傷してしまう。五輪への道は絶望的となってしまったが、尾崎の心は折れなかった。
「シーズンの開幕戦でケガをしてしまいました。パートナーの草野歩さんが『ケガが治るまで待っているから』って声をかけてくれた。それでリハビリを頑張れました」
ケガが完治すると、2012〜13年シーズンを草野歩とのペアでバレーボールの国内大会であるJBVツアーランキング1位となった。
国内大会で結果を残し、世界への挑戦を続けている時期に、ガールズケイリンの存在を知る。ビーチバレーから1年先にガールズケイリンへ転向した金田洋世(106期・引退)の存在が大きかった。
「国内では結果を出せるけど、世界では限界を感じている時期でした。寝る時間を削ってバイトして、お金を貯めて海外遠征をしても1回戦で負けたりしていたので…。そんなときに金田さんがガールズケイリンに挑戦していて、気になったので調べてみたんです。そしたら賞金がすごく稼げることがわかりました」
ビーチバレーで感じた限界、でも体を動かして勝負をしたい。そんな尾崎睦にガールズケイリンの素質があることを見抜いていたのは、理学療法士の豊田玲子さんだった。豊田トレーナーは尾崎の練習にワットバイク(固定自転車)を取り入れた。
「トヨさん(豊田玲子)は私の心が揺れているのがわかったんでしょうね。金田さんが競輪学校に合格したあと、練習にワットバイクを取り入れるようになったんです。ビーチバレーのための練習だと思ってやっていたけど、きっとトヨさんはガールズケイリン選手になるためのレールに乗せてくれたんですよね」
ガールズケイリン挑戦への決め手となったのは競輪場で実際に見たレースだった。2013年9月、京王閣でガールズケイリンコレクションを観戦。中山麗敏(102期=引退)、山原さくら(104期)の落車を目の当たりにした。
「ジムの人たちと京王閣へレースを見に行ったとき、目の前で落車があった。落車した選手が動かなくて、『命がけなんだ』とそのときわかった。簡単な気持ちで挑戦することはできないし、はじめはグランプリの賞金を見て興味を持ったけど、高額なお金を稼ぐにはこれだけの危険を伴うのだと目の前で見て感じました」
命を懸けて戦う先輩レーサーの姿を見て、生半可は気持ちでの挑戦は失礼と感じた。このとき、尾崎はガールズケイリン転向への覚悟を決める。
ビーチバレーで最後のシーズンとなった2013年は年間チャンピオンに輝いた。並行して競輪学校108期の適性試験の準備も進めていた。
「ガールズケイリンに挑戦する覚悟が決まってからは、中途半端にならないようにしていました。2013年はビーチバレーのスポンサーさんとの契約も残っていたので、最後のシーズンもしっかり結果を残そうと。両親にも『スポンサーに付いてもらっているのだから今シーズンはビーチバレーを頑張りなさい。義理を欠くようなことはいけない。シーズンが終わったら好きなようにするといいよ』と言われました」
尾崎自身の思いも一緒で、中途半端にならないように、一生懸命トレーニングに打ち込んだ。午前は師匠の渡邊秀明(68期)と一緒に自転車の練習をして、午後から海に行ってビーチバレーの練習。自転車のトレーニングはビーチバレーにとってもプラスになると考えて取り組んだ。ビーチバレーの実績で適性試験の1次試験を免除となり、2次も合格。ガールズケイリン挑戦への第一歩を踏み出した。
競輪学校入学を前に、地元平塚で行われた106期の卒業記念レースを見学に行った。ビーチバレーの先輩であり姉弟子の金田洋世が参加しており、106期生へのあいさつをするタイミングがあった。そこで106期のメンバーからは衝撃的な一言をかけられたそうだ。
「金田さんが、106期生の前に自分を連れて行ってくれてあいさつをすることができたんです。そうしたら106期のみんなが『ご愁傷さまです。1年間競輪学校頑張ってね』って声をそろえて言ってきました。競輪学校がどんなところか知らないけど、すごいところに自分は行くんだなって改めて思ったことを思い出しました」
そして2014年の春、伊豆修善寺にある日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)に入学。当時はまだ乗り込み重視で、基礎からたたき込む練習がメインだった。
「こんなに自転車に乗るの? ってびっくりしました。ビーチバレーの練習でずっとボールを触っているってことはなかったので。とにかく乗り込み、乗り込みの基礎トレーニングが多かった。結果的には自転車未経験の自分にとっては大事な時間だったと思いますが、当時は苦しかったですね」
GP・2勝、GI・12勝のレジェンドである競輪学校の滝澤正光校長もバレーボールから適性試験で競輪界入りした経緯がある。尾崎も入学前から滝澤校長の存在は知っていた。
「滝澤校長はバレーボールから競輪で成功した人とは知っていました。最初のころは雲の上の存在で話すことはできなかったけど、T教場(滝澤校長が直接指導をする教場)のメンバーに選ばれてからはお話をすることが増えていきました」
覚悟を決めて門を叩いた競輪学校。同期には児玉碧衣らがいるが、いろいろな思い出がある。
「一番の思い出はロードワークで海に行ったときのこと。休憩中に『砂に目標を書いてみろ』と言われました。自分は『ガールズグランプリ優勝』って書いたのに、(児玉)碧衣ちゃんは『朝起きる』って書いたんです(笑)。先日養成所にいく機会があり、滝澤校長と話をしたらこの話を覚えていてくれて『朝起きるって書いた児玉がガールズグランプリを3回も優勝(笑)。尾崎も頑張らないと』って言ってくれました」
自転車の基礎は師匠の渡邊秀明から学んだが、その上にある土台は競輪学校時代の滝澤正光校長によって作られたと言っても過言ではない。
「入学当時は周回練習が嫌で苦手だった。ちぎれることも多かったけど、滝澤校長から『もったいないぞ。ステーキは最後に残しておくだろ。一番おいしい部分は最後に食べるだろ。周回練習で苦しくなってちぎれてしまうのは最後のおいしいところを食べないのと一緒。そこで踏ん張って最後までもがけば、おいしいものが待っている』と教えてもらいました。そのおかげで苦しくなってからでも諦めないで踏めるようになりました。今でもレース中苦しい展開になったときは滝澤所長のニコニコした顔を思い出して頑張っています」
108期は高校卒業後すぐ競輪学校に入学した高卒現役組が大勢いた。自転車経験者も多く、尾崎は同期から学ぶことが多かったと振り返る。
「年は10歳離れていたけど高校時代に自転車競技で活躍していたメンバーは尊敬していました。(元砂)七夕美ちゃんはペダリングが綺麗だなと思って見ていて、勉強になることが多かった。自分と同じバレーボールから適性試験で入った児玉碧衣はお風呂場で暴れてケガをしたり、天真爛漫でしたね(笑)。私は『自分には次はもうない』って思いで毎日を過ごしていたので、楽しいよりも必死でした」
滝澤校長を筆頭に教官たちの指導や、同期から刺激を受けて毎日トレーニングを重ねていった結果、108期の在校1位と卒業記念レース(静岡)を優勝。努力を実らせて、ガールズケイリン選手としてのスタートラインに立った。
デビューは2015年7月川崎。いきなり優勝とはいかなかったが、予選は連勝で勝ち上がり、在校1位&卒業記念レース優勝のポテンシャルを競輪ファンにアピールした。デビュー3場所目の広島で初優勝も決めて、1年目は優勝6回と好成績を収めた。
2年目も快進撃が続き、5月には初めてのコレクション挑戦(松戸・4着)。年末のグランプリにも初出場(立川・5着)と順調にステップアップ。グランプリには17年から3年連続で参加とガールズケイリンの中心選手へと成長を続けていった。
しかしビッグレースには縁がなく、年々優勝回数も減っていってしまった。
「年々ガールズケイリンのレベルが上がっていくことは走っていて感じました。競輪学校で滝澤校長に『先行、先行』って言われて先行で戦ってきたけど、レベルが上がっていけばいくほど先行で勝つことの厳しさが分かってきた。いままでと同じように走っても勝てないなと感じることが多くなっていきました」
2019年からは毎年賞金争いボーダー付近にはいるが、なかなか抜け出すことができず、最後のグランプリトライアルで悔しい思いをすることが多くなっていった。
極めつけは2022年、地元平塚でのグランプリ開催を失格2回のペナルティで出場権を失ってしまったときだ。
「2022年の平塚は地元開催だし、グランプリに出たいという気持ちを強く持って走っていた。でも今振り返ると落ち着いちゃったというか、ガールズケイリンに慣れすぎてしまっていたのかもしれないですね。ただひたすら毎日練習をして、グランプリに出るために、レースを走っていた。賞金争いで勝つためには本数を走らないとダメですから。モーニングからナイター、ミッドナイトまでいろんな時間帯で走って、精神的に苦しかった。岸和田と静岡の失格でプチンと緊張の糸が切れてしまったのかもしれないですね」
この失格でグランプリへの道が断たれたが、その後も尾崎は走り続けた。
「失格直後の平塚を走ったんですけど、この平塚開催はグランプリを走れない分、頑張ろうと思って臨みました。この開催に碧衣ちゃんがいたんですけど、なんだかよそよそしくて。後から『むっちゃんになんて声をかけたらいいか分からなかった。自分だったら辞めているかもしれん』って…気をつかってくれていたんですね。自分自身、何とかこの平塚開催は優勝で終わることができたけど、その後は燃え尽きたような状態になってしまいました」
ガールズケイリン選手を目指す動機となったガールズグランプリを優勝するために頑張ってきたが、身も心もボロボロになり、目標を失いかけてしまった。
そんな時期にガールズケイリンにGIレースが新設された。2023年度から始まったガールズケイリンリブランディングで『オールガールズクラシック』『パールカップ』『競輪祭女子王座戦』が新設され、優勝すればグランプリの出場権が付与されることになった。
GIを勝てば、体力勝負ともいえる過酷な賞金サバイバルから解放されるともいえる。このニュースは、苦悩の中にいた尾崎の気持ちに再び火をともした。
「GI優勝という新しい目標ができました。優勝すればグランプリ出場権が付いてくる。ルールがシンプルになり、気持ちのモヤモヤが晴れましたね」
2023年の1、2月は失格のペナルティであっせんしない処置。レースは走れなかったが、尾崎にとってこの2か月は気持ちを切り替えるいい時間になったそうだ。
違反訓練に参加して他のガールズケイリン選手と交流し、新しい気づきもあった。いままでは無かったことだった。
「失格を2回したことでゼロになりました。何もない状態からスタートしないと変わらないと思った。いままではプライドが邪魔をしていたけど、周りの強くなっていくガールズケイリン選手から学べることは学ぼうと思ったんです。(坂口)楓華や、サム(日野未来)、豊岡(英子)さん。失うものはなにもないし、疑問に思ったことをぶつけて教えてもらいました」
マンネリからの脱却、ゼロからの再スタートと位置づけた2023年。1着回数、優勝回数も徐々に増えていき、11月の競輪祭女子王座戦では決勝進出。優勝でのグランプリ出場までは届かなかったが、復調の手応えは確かにつかんだ。
そして迎えた2024年は年頭からコンスタントに勝利を積み重ね、年間3回のGI戦で全て決勝進出。獲得賞金ランキング2位でグランプリ出場権を獲得した。年末の大一番への出場は、6年ぶりとなる。
「グランプリに出られることになって本当にうれしかった。周りの人のおかげですね。特に平塚のメンバーには感謝です。どんなときでも寄り添ってくれました。成績が悪かったりしてもみんな声をかけてくれる。自分だけだったらここまでできていないと思います。周りの人たちがいたから、もう一度グランプリに出て、喜んでもらいたいって思えるようになったんです」
直前の川崎では優勝することはできなかったが、敗因はオーバーワークとしっかり分かっている。
「今年のグランプリは恩返しの気持ちで走りたい。6年ぶりのグランプリ。出られない期間に得たものはあるし、力を出し切るだけです」
今年のグランプリの舞台は静岡競輪場。108期の卒業記念レースを優勝した思い出のバンクだ。その後にはダメ押しの失格をしてしまい、グランプリ出場権を逃してしまった場所でもあるが「良いこと、悪いことと順番できたならば、次は良いことがあるでしょう」とポジティブに受け止めている。
デビューした当時の夢は「グランプリを優勝して、スーツを着た師匠に敢闘門で出迎えてもらいたい」。グランプリを優勝するという目標を掲げ、ガールズケイリン選手を目指した。
幾多の苦難を乗り越えたどり着いた、6年ぶりの夢舞台。ゼロからはい上がった尾崎睦が全身全霊で大一番に挑む。
松本直
千葉県出身。2008年日刊プロスポーツ新聞社に入社。競輪専門紙「赤競」の記者となり、主に京王閣開催を担当。2014年からデイリースポーツへ。現在は関東、南関東を主戦場に現場を徹底取材し、選手の魅力とともに競輪の面白さを発信し続けている。