2024/10/28 (月) 18:00 23
netkeirinをご覧の皆さんこんにちは、伏見俊昭です。
今回は川崎GIII、寛仁親王牌・世界選手権記念のレースを話しとユーザーさんからの質問に答えていこうと思います。
川崎GIII(10月11〜14日)に参加してきました。今回はGI直前の開催でSSやS1上位選手が少なかったので最終日は久々に特別優秀を走ることができました。そのレースでは、北日本の自力選手が不在で安部貴之君と2人で必然的に自分が前で動くような番組に。「自分でやる」ってコメント出していたことでレースは4分戦。単騎とかはあったけど9車立てで他に若手自力選手もいる中でのラインの先頭はいつ以来だったか…。
8月取手FIの決勝は7車立てで先行不在だったから、自力でも思った以上の動きはできたけど、ここは山根将太君、谷和也君らイケイケの先行選手が相手だから厳しいなと思っていました。唯一の救いは車番がよかったことでS取りに集中し、あとは後ろを見ながらっていう作戦でした。でも自分が思うような展開にはならず…。3番手から松岡篤哉君に先切りされちゃうし、モガキ合いになって坂口晃輔君が谷君をけん制したときにバックを踏みたくなかったから車間を切っていたら、そこに谷君に降りられちゃって。そこからまくろうかと思ったけどタイミングも合わず、そこで内から中井太祐がスルスルっと抜けてあおりを受けて中途半端に終わってしまいました。自分でやるってコメント出したからにはしっかりと悔いの残らない走りをしたかったけど9車立てで自力選手がそろっている番組ではなかなか自分の思った通りにはいかないという悔しさが残りました。
一緒に参加していた安部君の同県の紺野哲也さんから「アベちゃんは期待しかしてないよ」って煽られたんで「ボロが出ないよう頑張ります」って応えたけど結局、泥船でした。それでも楽しい部分もありました。バリバリの先行選手相手に他の動きをあてにしながらの自力だと戦法も限られてくるし、展開待ちになっちゃいますからね。
先日の「寬仁親王牌(GI)」の決勝で優勝した古性優作君はあのレースで競技とか抜きで競輪では一番強いって証明したんじゃないでしょうか。先行できる脚、まくれる脚、さばける脚に追走技術と一通りのレース形態で全部、順応できるのが古性君ですね。親王牌の初日特選では北井佑季君が主導権を取りに行ったときにすかさず追い上げて、出切れなかったときに位置をキメられる判断。そこを取り切ってからまくっていく気持ちもすごい。北井君の番手だった守澤太志君もヨコは強いけど、それでも古性君が一発でそれも外からキメるのは、相当な脚と技術がないとできないですよ。本当にすごいレースを毎回見せてくれます。
決勝でも新山響平君が青森記念決勝で眞杉匠君にやられていたようなことをワッキー(脇本雄太)に仕掛け、ワッキーはしのいだけど二の槍、郡司浩平君が来たときは対応できなかったですね。そこでワッキーが寺崎浩平君の内に差したときにもう無理だって素早い判断で古性君は切り替えていました。あのタイミングじゃないと後ろから単騎勢のまくりも来るし、連結ははずす形にはなったけど、あそこで行ってこそ古性君の価値がある。あの頭の速さもすごいし、最後に郡司君が佐々木悠葵君のまくりを張ったときに内に切り込める判断も見事でした。
ここからはユーザーさんからの質問にお答えします。
もちろん日数が長いほうが身体には負担が増えますね。でも基本的には「慣れ」だと思うんですよ。SSで記念以上しか走らなかったときは4日制が当たり前で、3日だと短く感じましたね。今は3日のほうが身体が楽ですね。
そうそう、余談ですが、コロナ禍のときに宿舎へのマッサージ師さんの派遣が打ち切られてしまったんですよ。以前は競走参加中の夜に宿舎にマッサージ師さんが来てくれてマッサージを受けることができました。コロナになってそれが中止されたのはまあわかるんですが、復活させてくれないんですよ…。例えばお風呂の人数制限や向かい合わせの食事禁止とかそういったことは元に戻ったのにマッサージは戻ってない。GI開催だけは呼ぶことになったみたいなんですけど。風のウワサでは関係者の手間が増えて面倒臭いからって聞こえてきましたが…(笑)。確かにマッサージ希望者を集めて、抽せんしてとか色々ありますからね。僕たちはやってもらう立場なので自分たちでマッサージ師さんに連絡するわけでもなく、最後、戸締りをするわけでもないから基本的には文句は言えないと思っていますが、やっぱり復活させてほしい。3日間ならなんとか耐えられるので、せめて4日制以上は復活させてくれないかな。年齢が上がれば上がるほど疲れは取れにくくなるし、メンタル面にも影響するんですよ。
だから現在はみんな、自力でなんとか対処するしかありません。マッサージの電気器具類はもちろん持ち込んでいます。エレサスっていう300万円くらいする機械を持ち込む選手もいるくらい。でも最近は、選手間で「シャクティマット」が流行っています。上半身が乗せられるくらいのマットにトゲトゲがついている、昔からあるインド発祥のマットです。
今年6月に僕もそのマットの存在を知りました。翌7月の玉野FIの開催の時に武田豊樹さんが控室で使っていたんで「それどうですか?」って聞いたんです。すると武田さんが「いいよ。伏見は背中がカタいからやった方がいいよ」って言うんですよ。ソッコーで買いました(笑)。最初は痛くて寝られないんだけど、使い続けるうちに背中がほぐれ、8月の取手FI決勝での2着に繋がったと言っても過言ではありません。最近は使っている選手、本当に多いですよ。
また、僕は首が張りすぎたときには、置き鍼を使っています。ピンポイントで差して3、4日は差しっぱなしです。みんな独自のリカバリー方法があるみたいですね。後閑信一さんは熱いお風呂、冷たい水風呂に交互に入る温冷交代浴が一番疲れが取れるって言っていました。僕も3、4回はやりますが、後閑さんはケタが違う(笑)。何十回もやってるんですよ。
さらに、コロナでなくなって戻らないものに「お酒」があります。以前は食堂で限られた時間ではありますが、お酒を飲むことができました。普段からお酒を飲む選手は飲んだ方がぐっすり眠れるからって飲んでいましたね。僕は普段飲まないし、飲むとだるくなって脚が重くなるけどお酒を飲むことで疲れを取っていた人たちは大変ですよね。
あとは自転車検査の方法ですね。以前は並んで順番待ちして検車を受けていましたが、今は自転車を指定の場所に置いておけば、検車員さんが勝手に検査してくれます。前検日の参加式も変化しました。参加式自体がなかったり、放送だけだったりします。放送だけの場合は放送が聞こえる管内にいるだけでOK。まあ、参加式中に放送の聞こえないお風呂場にいる選手もいますけどね(笑)。
うーん…特に買っていないような気がします。物ではないかもしれないですが、3年前に松阪に家を建てましたね。それが一番、高価かな。すべて嫁さんにお任せして、何の口も出してないんですけどね。
もしかして若いときはなんか買ったのかな?最近、物忘れがひどくてヤバいんですよ(笑)。「あれってなんだっけ?」ということが選手間でもよくあります。わからないままにしておくのは気持ちが悪いから思い出すまでとりあえず頑張るけど、それでもダメだったら違う部屋の選手に聞きにいったりもしますね。
川崎でも真船圭一郎君とそんな感じになって真船君の同期の佐藤雅春君が記念の決勝に乗ったか、乗ってないかって。真船君が「伏見さんの後ろから決勝に乗りましたよ」って言うんだけどどうにも思い出せない。真船君が宮城県の部屋に行って確認してきてくれました。練習でもモガいていて「あれ?今何本目?3本?4本?」とかすぐなっちゃうんですよ。これって落車の後遺症なんですかね…?多分、普通の人たちより多く、さらに強く頭を打ってきているからその反動があってもおかしくないですよね。少なからずダメージはあるでしょう。
落車といえば、親王牌を見ていて思ったんですが、落車した翌日に普通に走っている選手が多くてびっくりしました。みんなタフだなあって。GIを走る選手は強靭な肉体の持ち主ばっかりですね。FIとかだと落車した翌日に走る選手は少ないイメージ。欠場してしっかりメンテナンスして次の場所に備えるんでしょうね。でもGIはやっぱり多少、無理をしてでも走る価値があるし、肉体だけじゃなく気持ちも強いんですね。
今は昔のようにプロテクターをつけて走る選手は減っています。それだけケガのリスクも高くなります。でも、軽量化するためにインナー一枚とユニホームだけ。プロテクターなんかつけたら重りになっちゃうっていう考えなんです。GIでプロテクターつけている人は数えるくらい。こわいけどそれ以上に勝ちにこだわりたいんですね。
川崎で宿舎へのバス移動のときに高橋陽介君と隣になったんですよ。高橋君は落車で半年くらい休んでから調子が戻ってこないと話していました。それで選手にプロテクター着用を義務化すればみんな平等になるからいいんじゃないかって。その意見には賛成ですね。競輪学校ではプロテクターして走っていたし、全員同じ重りならマイナスにもならないし。ケガの軽減にもつながるからいいですよね。
まあ、この気持ちって大ケガをしたことがある人じゃないとわからないのかもしれないですね。
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伏見俊昭
フシミトシアキ
福島県出身。1995年4月にデビュー。 デビューした翌年にA級9連勝し、1年でトップクラスのS級1班へ昇格を果たした。 2001年にふるさとダービー(GII)優勝を皮切りに、オールスター競輪・KEIRINグランプリ01‘を優勝し年間賞金王に輝く。2007年にもKEIRINグランプリ07‘を優勝し、2度目の賞金王に輝くなど、競輪業界を代表する選手として活躍し続けている。 自転車競技ではナショナルチームのメンバーとして、アジア選手権・世界選手権で数々のタイトルを獲得し、2004年アテネオリンピック「チームスプリント」で銀メダルを獲得。2008年北京オリンピックも自転車競技「ケイリン」代表として出場。今でもアテネオリンピックの奇跡は競輪の歴史に燦然と名を刻んでいる。