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「競輪ではなくフリーダイビングで」逝った仲間 元競輪選手が語る"もう一つの夢"と悲劇

2024/07/10 (水) 11:00 20

長崎県にある佐世保競輪場でのレース。写真はイメージ(写真提供:チャリ・ロト)

「Sは競輪ではなくフリーダイビングで命を落とした」

 こう語るのは、元競輪選手の田中浩仁氏(引退・54期)。田中さんが今年3月に出版した『競輪、ときどき昭和』(けやき出版)は、昭和の香りを残す現役時代の逸話を中心とした、飾らない言葉でつづられたエッセーです。中でも、競輪とフリーダイビングに人生を賭けた「S選手」への追憶は、読者の心を強く揺さぶります。その夢がもたらした悲劇とはーー。

 田中浩仁氏は1984年9月に福井競輪場でデビューし、通算199勝を挙げました。2013年1月に引退するまで、30年近く競輪選手として活躍し、現在は整体師として第2の人生を歩まれています。

海に魅せられた競輪選手

 沖縄の競輪選手S氏は、フリーダイビングにも魅了されていた人物でした。一呼吸で潜水距離や時間を競うこの競技で、賞金が出るほどの腕前も持っていたのです。S氏が山口(中国地区)から沖縄(九州地区)へ移籍してきた理由も、フリーダイビングに打ち込むためでした。こうして、長崎の競輪選手であった筆者と同じ九州地区の仲間となり、素潜りや筆者が大好きな沖縄についても、時間を忘れて語り合う仲になります。

Dudarev Mikhail/Shutterstock.com

 ある時、S氏は田中さんに「競輪もフリーダイビングもどちらも大好きで、どちらか1つを選べない」と胸の内を明かしました。

 競輪選手は一度引退すると、現役に復帰することは難しいとされています。S氏は、競輪とフリーダイビングの間で揺れ動いていました。競輪選手というキャリアを手放す不安を感じつつも、「ダイビングに自分の居場所を見つけた気がする」と田中さんに打ち明けます。フリーダイビングで世界に挑戦できるのは年齢的に「あと3年くらいがギリギリ」という焦りも、S氏を突き動かしていました。

 田中さんは、S氏の競輪選手として安定した成績、彼の家族のことを考え、早まらないようにと助言しました。しかし、S氏の葛藤は台風接近という危険な状況で、フリーダイビング練習中の事故という、突然の悲劇で終わりを迎えることになります。

「この日のSはなぜか1人で、その日の海は台風が接近し九州は暴風域だった。そんな日になぜ? Sは時間が惜しく、焦っていたのでは」(p.74)

 田中さんはレースで共に戦った仲間の死を悼む一方で、やりきれない思いが心を締め付けました。

「仕事である競輪にも常に死の危険がつきまとう。みんな覚悟して入っている。顔見知りの何人かの選手も命を落とした。その度にやりきれない。Sは競輪ではなくフリーダイビングで命を落とした。だけどSは幸せだったと思いたい」(p.74)

夢の重さ、そして仲間との絆

 アスリートは競争心を持ち、負けず嫌いな人間たちです。しかし、時にそれが命を落とす原因となることもあります。田中さんは、アスリートが自身の限界を知り、退く勇気を持つ重要性を説きます。限界を知ることで、命を守り、競技を長く続けられるからです。田中さんはダイビングを例に挙げ、次のように語ります。

「自分の限界を知っておく、退く勇気を持つ。それがないとダイビングは続けられない。(中略)海面に出る前に気を失ったり、OKのサインを出せずしゃべることもできない。自分の限界を超えてしまっていることがある」(p.71)

Dudarev Mikhail/Shutterstock.com

 競輪という競技にも、落車など常に危険がつきまといます。死と隣り合わせの選手たちにとって、共に時間を過ごす者は、敵味方関係なく仲間に変わりないと田中さんは書きます。まして、他の選手と協力してレースで隊列を組み、共に戦う仲間ならなおさらです。本書では、こうした競輪選手たちの間にある「絆」について、以下のように述べられています。

「命を落とすかもしれない運命までも共有する仲間との絆は本物なのか、人生最後のレースになっても悔いを残さない絆であったか、卑怯者のレッテルを残したままで人生を終われるのか、そんな最期は絶対に嫌だと言い切れる絆で結ばれている」(p.77)

 田中さんは、「わけも分からないまま飛び込んだ競輪の世界」を振り返り、昭和の匂いを感じたと回想しています。愛すべき仲間たちにも、同じような匂いを感じたそうです。そこには「残しておきたい」と願う、かけがえのない思い出があったのでしょう。

 本書は、レースからは見えない人間味あふれるエピソードを通じて、勝負に生きる競輪選手たちの涙あり笑いありの世界を感じることができます。競輪ファンだけでなく、夢を追うすべての人、そしてかけがえのない仲間との絆を大切にしたいすべての人に読んでほしい一冊です。

(netkeirin編集部・木村邦彦)

【参考文献】田中浩仁著『競輪、ときどき昭和』、けやき出版、2024年3月13日発行

photobyphotoboy/Shutterstock.com


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