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すっぴんガールズに恋しました!

【永塚祐子】男勝りの一念発起! キャリアウーマンが決意した“完全実力主義”ガールズケイリンへの大転職

アプリ限定 2021/06/03 (木) 18:00 21

日々熱い戦いを繰り広げているガールズケイリンの選手たち。このコラムではガールズ選手の素顔に迫り、競輪記者歴12年の松本直記者がその魅力を紹介していきます。
5月取材したピックアップ選手は"キャリアウーマンから競輪選手"という大胆な転職を遂げた「永塚祐子(ながつか・ゆうこ)選手」です。ガールズケイリンへの挑戦を決意した動機、在校成績1位で卒業した養成所時代など、永塚選手を徹底解剖していきます!


永塚祐子(35歳・神奈川=118期)

バスケットボール一家に育つ

 幼少の頃より身近にバスケットボールがある環境で育った永塚祐子。父、母、兄がバスケをしており、永塚自身も小学3年生でバスケを始めた。小学6年生のときには全国制覇を成し遂げたというから驚きだ。

 中学時代はバスケから一旦離れるも、高校は神奈川女子バスケの名門・県立富岡高(現・県立金沢総合高)に入学し、本格的にバスケに打ち込んだ。永塚は「先輩、後輩は全国で結果を残したけど、私たちの年代は大した結果を残せなかった」と当時を振り返る。中学時代から足裏のしびれに悩まされたことが原因で、大学進学とともにバスケ一筋の生活に区切りをつけた。 

安定の給料よりもレースの賞金

 永塚は東海大学に進学し、「人に教えることに興味があった」という理由で、スポーツトレーナーの道を選択する。バスケ以外の競技の選手のサポートをする裏方の仕事を勉強。大学時代はバイトも色々と経験しており、学習塾の講師、トレーニングジムのトレーナー、ウエイトレスまでさまざまだ。とても中身の濃い、有意義な大学生活を過ごしたようだ。

 そして大学卒業後、永塚は三菱地所レジデンスに入社。マンションの販売をメインに働きまくった。不動産業は土日が仕事のため、平日の休みに会社の仲間とゴルフやウエイクボードなどのレジャーを楽しんだ。しかし、流れる日々に物足りなさをずっと感じていた。『頑張って仕事をして、周りの評価が上がっても、給料は普通に仕事をしている人と変わらない』そんな虚しい気持ちになっているとき、数ある趣味の一つである自転車が運命を変えることになる。

ガールズケイリンへの転職は“スキルアップ”

 世話になっている自転車屋のイベントが川崎競輪場で開催され、永塚も参加。すると、バンクで疾走する永塚の姿が競輪関係者の目に止まった。声を掛けられたことをきっかけに、「ガールズケイリンいいかも!」と思い、タイムを測定。そこで日本競輪選手養成所の入学にめどが付くタイムを出した。大学の同級生に尾崎睦(神奈川・108期)の知人がいたことも大きかった。直接の面識はなかったが、LINEでガールズケイリンについて聞き込んだ。尾崎が出走する川崎競輪場へ応援にも行き、気持ちは固まった。

ガールズケイリンを知るため尾崎睦を応援しに川崎競輪場へ

 安定した会社員の仕事を捨てて、競輪選手への挑戦を決意した時のことを聞くと、「私にとってガールズケイリンへの転職はスキルアップ。努力次第で賞金を稼げる仕事は魅力的だった。『やりたいことをやりたい!』って変に男らしいところがあるんですよね。でも養成所の試験は1回だけにしようと思っていた。タイムがでなかったら競輪選手への挑戦は辞めるつもりだったんです。私は不器用だから慣れるのにも時間が掛かる。運動から離れている時間が長かったし、色々とアクシデントもありましたけど、なんとか養成所に受かることができました」。永塚の競輪選手としての第一歩は実力主義にこだわりたいという性格が後押ししたのかもしれない。

アマチュア時代には佐藤水菜と川崎競輪場で練習

在校1位! ゴールデンキャップを2回獲得

 日本競輪選手養成所時代は苦しい思い出が多かった。21人の同期は高校を卒業したばかりの現役組、自転車経験者、適性試験の入学組。高卒現役組とは一回り以上も年齢が離れていた。社会人経験者の永塚には当たり前のことでも、「通用しないこともしばしばあった」と語る。訓練期間の後半には、新型コロナウイルスの影響も受けることに…。20年1月以降は二週間に1回の楽しみである日曜外出もなくなってしまい、ストレスがたまった。

 しかし練習や訓練は真面目に取り組み、第2、3回の記録会で好成績を残してゴールデンキャップを2回獲得した。早期卒業の可能性もあったが「私の場合はぶっちぎりで強かったわけではない。勝つには勝つけど、2着に大差を付けるわけではなかった。男子の寺崎(浩平)君、菊池(岳仁)君は本当に強かったので。今は『早期卒業できなくて良かった』と思っているんです。卒業までの期間に練習や競走訓練を数多く走れたことがデビュー後に役立っています」と話をしてくれた。

 日本競輪選手養成所の集大成である卒業記念レースは予選2走をまくり2本で1、1着と連勝したが、決勝は見せ場を作ることなく敗れた。卒業記念レース優勝と在校1位のW受賞こそ逃したが、堂々の在校1位で養成所を卒業。プロデビューを迎えた。

早期卒業できなくて良かった…! 養成所時代を振り返る永塚

ルーキーシリーズは2場所連続の完全優勝

 日本競輪学校から日本競輪選手養成所に名称が変わり、117、118期から同期だけで争うルーキーシリーズが始まった。本格デビューの7月を前に、同期だけで走るルーキーシリーズ。在校1位のプライドで2場所連続完全優勝を達成し、先輩期との対戦となったが自信はなかったと振り返る。

「同期との対戦はある程度、相手の戦い方がわかっています。1年間同じ場所で訓練をしてきたので。私はバスケを始めたころから『相手のこと考えてプレー』していた。だから同期が相手ならなんとかなりました、でも先輩が相手だとどうにもならなかったですね。予選はなんとかなったけど、決勝はキツかった」と話した。

同期と先輩とでは相手を知らない分だけ戦い方も異なる。永塚はバスケ時代から相手を考えてプレーすると話していた

取手初優勝を果たすも怪我のアクシデント

 デビュー後は新人らしく積極的なレースを心掛けて、しっかり主導権は握るが、ゴール前で差されることが多かった永塚。それでも自分のレーススタイルを段々と確立していき、年末12月の大宮あたりから手応えをつかみ始めた。年が変わり21年に入ると、1月広島で予選連勝。同月平塚のガールズケイリンコレクショントライアルでも決勝進出と成績が上昇していった。

 2月の取手で念願の初優勝を手にして、そのポテンシャルの高さを周囲に見せつけた。しかし、取手直後の小倉決勝で落車。右鎖骨、ろっ骨、腰椎圧迫骨折の大けがを負ってしまった…。

「小倉は優勝した直後の開催で気合も入っていたので悔しかった。決勝はチキンでしたね。自分が悪い。仕掛けるタイミングがちょっと遅れてしまった。レースでの落車は初めてだったけど、冷静でしたね。再乗しますかって聞かれて『乗ります』って答えたんですけど、肩の周りを触ったら鎖骨が折れているのが分かった。これは無理だなと思いました」。レース後は地元神奈川に戻り手術を受け、怪我の治療に専念し、回復に努めた。

もう逃げるのは嫌なんです

 出場が決まっていた4月西武園の「ガールズフレッシュクイーン」も欠場となり、メンタルは苦しくなったが、今は焦らず復帰を目指している。

「大学時代にスポーツトレーナーを目指していろいろ勉強したけど、自分の体のことは難しいですね。でもここで終わりたくないんです。今は高い目標は立てることができないけど、目の前の自分と向き合って強化していきたい。モチベーションは高いですよ。大学進学のときにケガを理由にバスケから逃げてしまった。もう逃げるのは嫌なんです。自分のペースでいいから少しずつ戻していきたい」と強い気持ちを表明した。

復帰戦から新車に乗り、怪我を克服すべく奮闘している

 アマチュアの会社員時代、養成所の試験前にも大きなケガをしているが、しっかりと克服している。だからこそ今回の骨折も必ず乗り越えられるはずだ。最後に理想とする選手像を聞くと、具体的に目指している選手の名前が出てきた。「私の理想は『太田りゆ』さんなんです。狙い澄ました一気のまくりがカッコイイ。憧れています」と教えてくれた。

 今は骨折の影響があり、苦しい時期かもしれないが、ケガをする前よりも強くなり、『スピードあるまくりを決めるとき』を心待ちにしている。

石井寛子(104期・東京)の400勝達成時の記念写真。永塚は笑顔で祝福

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松本直

千葉県出身。2008年日刊プロスポーツ新聞社に入社。競輪専門紙「赤競」の記者となり、主に京王閣開催を担当。2014年からデイリースポーツへ。現在は関東、南関東を主戦場に現場を徹底取材し、選手の魅力とともに競輪の面白さを発信し続けている。

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