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すっぴんガールズに恋しました!

【宮地寧々】産休から復帰した新米ママレーサーの挑戦「子どもを産んでからどこまで強くなれるのか楽しみ」

アプリ限定 2024/03/29 (金) 18:00 33

日々熱き戦いを繰り広げているガールズケイリンの選手たち。その素顔と魅力に松本直記者が深く鋭く迫る『すっぴんガールズに恋しました!』。今回は夫婦レーサーとしても知られ、今年1月に産休から復帰した宮地寧々選手(28歳・岐阜=110期)。選手をめざしたきっかけから現在に至るまでの軌跡を写真とともにご紹介します!

柔道に打ち込んだ少女時代

 宮地寧々は岐阜県岐阜市の出身で、2歳下の妹と2人きょうだい。父や親戚の影響で柔道を始めると、小学5年生から高校3年生まで柔道一直線の生活を過ごしていた。警察署内で柔道の練習をしており、将来は警察官になることに憧れていたという。

幼き日の宮地寧々(本人提供)

『道三まつり』で競輪と出会う

 高校卒業後は同朋大へ進学。ガールズケイリンとの出会いは大学1年生の春だった。

 岐阜市を代表するお祭り『道三まつり』に家族で遊びに行ったときのこと。日本競輪選手会岐阜支部がブースを出展し、自転車のイベントを行っていた。

 宮地は景品で配っていた「ケイリンマン」のタオルに惹かれ、固定自転車のスピードチャレンジに挑戦。タオル獲得には1キロ足りず、失敗に終わったが「もう一度やりたい」と再チャレンジ。記録には届かなかったが、支部の好意でタオルをもらったそうだ。

 そのとき岐阜支部のメンバーから「ガールズケイリンというものがありますよ」と教えてもらい、パンプレットを受け取って家路についた。

 ひょんなことがきっかけで出会ったガールズケイリンだったが、宮地の心の中で「ガールズケイリンをやってみたい」という気持ちにスイッチが入った。父からも「いいんじゃない」と背中を押してもらい、挑戦を決断した。

岐阜競輪場で直談判「選手になりたいんです」

「小さいころから『これやりたい』ってなるともう止まらない性格なんです」と笑う宮地。競輪選手になるために、すぐに行動を起こした。

「どうやったら選手になれるか分からなかったので、まず母と一緒に岐阜競輪場へ行きました。競輪場の入口にあるガイダンスコーナーで『選手になりたいんです』と伝えました。そのときガイダンスにいたのが元選手の北村嘉之さん(47期・引退)。びっくりしたと思うけど(笑)、そのまま藤原誠さんを紹介してくれました」

 当時、藤原誠は岐阜支部の支部長をしており、きっかけとなった『道三まつり』のブースにもいたという。

「藤原さんは私のことを覚えていなかったけど…(笑)。弟子にしてもらうことになり、110期の試験を目指しました」

柔道で鍛えた“根性”で競輪学校一発合格!

 ガールズケイリン選手を目指し、宮地の人生は動き出した。両親にカーボンフレームを買ってもらい、師匠の藤原のもとで練習を始めた。

「最初は自転車未経験だった自分と藤井稜也(115期)の2人で乗り込みの日々でした。最初の110期の試験は適性試験で受けようと思っていました」

 その夏にはガールズサマーキャンプに参加。加瀬加奈子や石井貴子(106期)と撮影した写真は今でも大事な宝物だ。

「ピチッとしたレーサーウェアやパンツに驚いたり、自転車経験者の同世代の女の子たちが真っ黒に日焼けしていることにビックリしたり、貴重な経験をすることができました。後に競輪学校で同期になる林真奈美さんともここで知り合いました。ガールズサマーキャンプに参加して、より『選手になりたい』っていう思いが強くなりました」

(本人提供)

 地元に帰ってからも競輪場では乗り込み練習を重ねた。自宅ではひたすら垂直跳びをしていたという。

「柔道で鍛えた根性で試験に向けてできることは何でもやりました」

 そして、迎えた110期の入試は、適性試験で受験した。

「1回で受かる自信はなかったんです。もちろん1回で受かればベストだけど、2回目の試験に向けて場の雰囲気を体験するのもいいことだと思って」と気負わず臨んだが、1次、2次と難なく突破し合格。晴れて競輪選手となるスタート地点までたどり着いた。

競技未経験からプロへ「休みの日にも自転車に乗って」

 2015年の春、伊豆の日本競輪学校に110期として入学。自転車競技未経験からの入学で「訓練はキツかった」と振り返るが、高い志を持って一年間を乗り切った。

「自転車に関しては素人だったし、同期の中で一番長い時間サドルの上に乗っていようと決めていました。休みの日でも自転車に乗っていましたね。競輪学校の練習メニューはかなりハードでした。毎週水曜日は1キロタイムトライアル、1キロサーキットを100周するメニューもありました。とにかくキツかったけど、自分にとってはありがたかった。競輪選手になるためのベースを作れたと思う。土台作りの大事な期間でした」

110期の同期たち(左から大谷杏奈、中野咲、宮地寧々、鈴木彩夏)

 技術面の向上と同時に、競輪学校は人間的な成長の場にもなったそうだ。宮地は同期への感謝も語った。

「110期は本当に仲が良かった。年長組のメンバーがしっかりしていて『だれ一人欠けることなく卒業しよう』と引っ張ってくれました。お互いに思いやる気持ちを持つことを競輪学校で同期に教えてもらいました」

 在校成績は22人中21位で卒業。思うような成績は残せなかったが、悲観することはなかった。

「3月に卒業して、7月にデビュー。その4か月間をどう過ごすかを考えていました。自分より上位の同期よりも練習すること、上位10位以内の同期に勝つことを目標に、卒業してから頑張りました」

「自力勝負」が宮地寧々の代名詞

 2016年7月に大垣でデビューすると、2戦目の平塚で初の決勝進出を果たす。同年12月の千葉で初勝利。地道にコツコツと力をつけていった。

「デビュー戦を地元地区で走れたことはうれしかったですね。2戦目の平塚は自分でもビックリの決勝進出。加瀬加奈子さんに児玉碧衣ちゃん、同期の鈴木奈央ちゃんがいた開催で決勝に乗れました」

デビュー後は地道に力をつけていく(本人提供)

 1年目はとにかくがむしゃらに先行していた、と振り返る。

「まず、脚力を付けることが一番。あとは先行してレースを覚えることに重点を置いていました。あのころは加瀬加奈子さん、高木真備さんの先行に憧れていました。格好良かったし、ああなりたいと思って」

 2年目、3年目とキャリアを重ねていく中でもこだわったのは自力勝負。とにかく力勝負することが宮地寧々の代名詞だった。

「すき家行こう」家族の存在に救われた

 自力勝負にはリスクが伴う。自分よりパワーのある自力選手と当たれば大敗することもある。心折れるような瞬間は、自在選手やマーク戦を主体にする選手より圧倒的に多いはずだ。

 宮地も心が折れそうになることは何度もあったはずだ。苦しいときに支えてくれたのは親族の存在だった。

「2つ下の妹の存在が大きかったですね。成績がいまひとつだったとき、レースから帰ると『すき家に行こう!』って誘ってくれるんです。いつも元気をもらっていました。あとは闘病していた叔父の存在も忘れることができません。毎開催、レースが終わるとLINEをくれたんです。今でも叔父さんが見ていてくれていると思ってレースに臨んでいるんです」

悲願の初優勝は「逃げ切り」

 初優勝は2020年9月の福井で達成した。同年7月の大垣、岐阜と地元戦を2開催連続で決勝3着。直前の和歌山も決勝2着と惜しい開催が続いていた。

「同期や後輩の選手が優勝していく中で、なかなか優勝できないなとは思っていましたけど、少しずつ決勝戦の着順が良くなっていった。福井決勝は逃げ切りで優勝。どんな勝ち方でも優勝はうれしいと思うけど、逃げ切りで勝てたことは本当にうれしかった。デビューしたときから『逃げ切り優勝』はずっと夢に見ていたこと。開催後はこんなにLINEがくるのかっていうくらいメッセージをもらえてうれしかったですね」

2020年9月、福井で初優勝(本人提供)

「最悪な出会い」から夫婦レーサーに

 翌年2021年12月には谷本奨輝(富山・107期)との結婚を公表した。

「出会いは最悪でした(笑)。私が石川、富山の選手に中部地区って認識がなくて、デビュー当時に谷本君の自転車取りに行かなかったことがきっかけでした。でもそこから話をするようになり、食事に行ったり出かけたりして、7年付き合って結婚。お互い選手で大変なこともあるけど、家事や育児を手伝ってくれるので助かっています」

夫婦レーサーの出会いは“最悪”!?(本人提供)

 2022年も順調にレースを重ねていたが、5月の松山で落車してしまう。なんと、このときの検査で妊娠していることが分かったそうだ。

「柔道をやっていたので受け身を取ることはうまいと思う。だから落車しても大けがになることはないんです。ただ松山の落車のときはヘルメットが割れていたので、搬送先の病院でCTを撮りました。そしたら先生から『ご懐妊ですね』って…。結婚もしていたし、子どもはできたらいいねって話はしていたんですが、まさか落車したことがきっかけで分かるとは驚きました。そこから産休することになりました」

産休中も欠かさずレースをチェック

 産休期間は2022年後期から2023年後期までの1年半。選手を辞めようと思うことは全くなかったと振り返る。

「引退することは全く考えていませんでした。逆にどうやって復帰するかを考えました。2024年の1月に復帰すると目標を立てて、逆算してトレーニングをしました。お世話になっているジムに女性の理学療法士さんや看護師さんがいるので、いろいろ相談しました。妊娠中も体を動かせる範囲で動かして、復帰することをイメージしていました」

 そして、2023年2月に男の子を出産。家事と育児に追われながらも2024年1月の復帰を目指してトレーニングを継続していたそうだ。

「トレーニングだけではなく、ガールズケイリンのレースもずっと見ていましたよ。レースを見ないと、復帰したときのイメージがつかなくなる。どんなときも欠かさずレースチェックは続けていました」

 2024年の1月に復帰すると計画を立てて、実現のために努力を続けた。その結果、宮地はきっちり1月7日からの大垣で復帰した。

家族ぐるみでお世話になっているジムのスタッフさんたちと(本人提供)

「子どもを産んでからどこまで強くなれるのか」

 復帰の舞台は2016年7月のデビュー戦と同じ大垣だった。

「同期の大谷杏奈ちゃん、中野咲ちゃんが温かく迎えてくれてホッとしました。久しぶりに会う先輩、初めて会う後輩もみんな優しかったですね。改めてガールズケイリンっていい環境だなって思えました。でもレースはまだまだです。練習とレースの違いを感じているし、今はレースを数多く走って感覚を取り戻していきたい。だから追加でも補充でも走っています」

 今後の目標も明確に定まっている。産休中に新設されたGIレースへの出場だ。

「ビッグレースへの出場です。産休前には女子のGIレースはまだなかったので、出場したいですね。体も気持ちも子どもを産む前よりいい感じなんです。ビッグレースに出て『お母さんが頑張っている』ってところを子どもに見せたい。自分が活躍することで、ガールズケイリンを知らない人にも知ってもらえたらうれしいですね。子どもを産んでからどこまで強くなれるのか、楽しみの方が大きいです」

地元でガールズGI開催が決定「一番の目標です」

 先日JKAから2025年度の特別競輪の開催場が発表された。2025年4月にGI「第3回オールガールズクラシック」を開催するのは宮地のホームバンク、岐阜競輪場だ。

「岐阜競輪場は管理棟が新しくなり、『女子選手に一番優しい競輪場』を目指している。岐阜で開催が決まったオールガールズクラシック出場が今の自分にとっては一番の目標です」

 自転車競技未経験からガールズケイリンに挑戦し、計画的に産休からも復帰。自分の立てた目標を達成するための努力は惜しまないのが、宮地寧々という人間だ。その挑戦を後押しし、支えてくれた両親への感謝の思いも、この目標には込められている。

「両親は『思う存分競輪を走ってほしい』と言ってくれているので、恩返しができるように岐阜のオールガールズクラシックに向けて頑張りたいです」

 このタイミングでの地元GI開催決定は宮地にとって最高の目標となった。来年4月にGIの舞台に立てるようにーー。宮地寧々の挑戦から目が離せない。

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松本直

千葉県出身。2008年日刊プロスポーツ新聞社に入社。競輪専門紙「赤競」の記者となり、主に京王閣開催を担当。2014年からデイリースポーツへ。現在は関東、南関東を主戦場に現場を徹底取材し、選手の魅力とともに競輪の面白さを発信し続けている。

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