アプリ限定 2023/09/03 (日) 16:40 136
6月7日、ひとりのレジェンドがバンクを去った。1980年のデビューから選手生活43年目に突入していた63歳の佐古雅俊さんが現役を引退。タイトルに縁はなかったが、GIは準優勝2回を含む7度の優出、自転車競技でも1989年のフランス・リヨン世界選手権のケイリンで銅メダルを獲得するなど、166センチの小柄な体で日本のみならず世界でも活躍した。
引退から1か月半が経過した7月某日。晩年は狭心症を患いながらもバンクで戦い続けた“競輪仙人”の競輪人生や、現在の心境に迫った。(取材・構成 netkeirin編集部)
6月7日の伊東競輪でラストランを終えた佐古雅俊さん。43年間の現役生活に別れを告げてから、およそ1か月半が経過した。あらためて現在の率直な心境を聞いた。
「一番は寂しい、ですね。現役の頃は練習のことだけしか考えなかったけど、これからの生活、家庭のことを考えることが増えた。今は自転車に乗る気はないです。僕は“競輪”が好きだった。趣味の範囲では無理ですね」
スーツ姿で広島某所に現れた佐古さん。現役引退の引き金となったのは、58歳のときに患った狭心症だ。
「練習が苦しくなって、検査したら狭心症と診断されました。(自分は)不死身だと思っていたけど、その時は目の前が真っ暗になったね。その年に3回心臓を手術して、59歳で1回、60歳の時も1回手術をした」
5回の手術を経て、当時の現役選手のなかでは最年長となる63歳まで選手を続けた佐古さん。もともと、チャレンジで力尽きるまで現役をやり抜きたい意向だったのか。A級降格や狭心症の手術などのタイミングで、引退を考えたことはなかったのだろうか?
「辞めようと思ったことは一度もない。いつまでもできると思ってたんです。(初めて引退を意識したのは)今年に入ってからですね。自分は死に物狂いで練習するタイプだったんですけど、2月か3月に、白目をむいて我慢するくらいじゃないと練習についていけない状態になっちゃった。去年まではそういうことはなかったんですけどね。今までできていたことができなくなった」
“練習の鬼”として知られた佐古さんは、複雑な表情で選手生活終盤の葛藤を振り返った。
そんななかでも、別府競輪で行われた4月17日(2日目)の1Rで現役生活最後の1勝となる白星をもぎ取った。“まだ戦える”という思いはなかったのだろうか。
「あれは展開が良くてただ前を抜いただけ。自分で獲りに行っての1着ではなかった。結果として展開で勝てただけで、すごく嬉しいっていうわけでもなかった。勝ち負けというものから遠ざかっていたのかな…」
そしてこの1着の翌日(4月18日チャレンジ選抜・7着)に、現役引退を決断する。
「全くレースにならなくて、ゴールした瞬間に“もうダメだ”という気持ちになってしまった。あぁ参加できてないじゃん、参加しちゃダメじゃんって。自分はそういう選手なんだと思い知らされて…。もう選手をしたらいけないんだなと、初めて悲しい気持ちになった。引退するってこういう気持ちなのかなって」
連係した選手の加速についていけず、いわゆる『ちぎれた』レース。これまでもちぎれてしまったレースはあったが、それらとは全く違ったという。
「これまではちぎれても収穫があった。でも、あのレースでは全然なかったね。日々の練習の中で自分の成長を喜ぶのが自分のスタイルなんだけど、体的に無理だというのが分かってしまった。練習すればどうにかなる世界だし、ちょっとでも努力すれば報われることもある。7着になるところを6着が獲れる自信があればずっと続けていたんだろうけど、それがなくなってしまった」
これまでは一度も引退を考えたことがなかったという佐古さんは、寂しげな笑顔で決断に至った経緯を明かした。
S級のトップ選手として活躍した経歴を持ちながら、現役生活の終盤は代謝争いも経験した。半年に一度、成績下位30名が強制的に引退となる過酷な制度だが…。
「代謝制度に関しては特にどうこうとかはないね。自分は期の終わり(6月末)まで行っていないので…。自分の場合は練習しかなかったし、思うように練習ができればクビになることはないと思ってた。死ぬまで(現役を)やってたと思う。僕らは“勝負師”なので、勝負ができなくなったら終わりなんです。そういう風に思えたのも幸せだったかもしれないね」
代謝争いをしている選手がいるレース(「勝負駆け」と呼ばれる)では、ラインのなかで位置を折り合う(代謝争いをしている選手に上位着が取りやすい位置を譲る)ことも見られるが、佐古さんはピンチのさなかでも真逆の行動をとっていた。
「僕の中ではチャレンジ(A級3班)は楽しむものだった。それでも迷惑だけはかけたくなかったかな。5月のレースでは同県の後ろを譲ったこともあった。前の選手に申し訳なくてね。点数を諦めたとかではなく、自分の中で役割を果たせないと思って」
最後までプライドを持ち、誠実なレースを心がけていたことが、多くの選手や関係者、ファンから愛されていたゆえんだろう。残念ながら引退を決意せざるを得なくなってしまったが、近しい人からは何か言葉をかけられていたのだろうか?
「周りはね、ずっと『あと10年できる』って言ってくれていたんです。練習仲間とかもですね。点数が取れない僕がいると思わなかったんじゃないかな」
それほどまでに元気で、ストイックに練習をしていたのだろう。ただ、競輪にはアクシデントがつきものだ。佐古さんも“勝負師”の宿命か、落車が多い選手として知られていた。
「落車は(現役生活通じて)160回くらいあったみたい。年間がだいたい80レースくらいだから、丸々2年間くらい落車してたことになるよね。辞めてから自分でもビックリした。今思えば、よく無事にやれていたなぁって」
とはいえ、若いうちはほとんど大ケガはしなかったのだそうだ。
「60歳までで肩甲骨を1回折っただけ。肋骨はありますよ。肋骨は骨折じゃないと思ってるので(笑)。でも61歳の時に左側の肩甲骨、鎖骨、肋骨を折った。年を取ると回復も遅いし、チャレンジ(A級3班)は公傷制度(※)がないから、治らないうちから行動しなくちゃならなかったですね」
※落車負傷で31日以上の治療日数を要すると診断され規定出走回数を満たせなかった場合に限り現級班が保証される制度
佐古さんといえば、家庭の事情で徳島、大阪に移籍するなど、家族思いな一面も知られている。引退する決意を、愛する家族にはどのように伝えたのだろうか。
「家内はもともと好きにさせてくれていたので、“もう無理やろう”と伝えました。息子に伝えたら、『親父の好きなように。最後は見たい』と言ってくれて。伊東の最終日(6月7日1R)に見に来てくれた。チャレンジになってから、2人ともレースをよく見てくれるようになったんです。息子は心配して電話をくれるようになりました」
引退を決意した別府でのレースを最後に引退することも考えたというが、最後に家族の前で走ることを決めた。最後のレースの前、レース中には何を思っていたのだろうか?
「特に何も考えてなかったね(笑)。終わったら一礼だけはしようと思ってた。普通の感じで終われたのが幸せだった。気を遣われたりするのが嫌だったから、今思えば、いい辞め方だったね。そっと辞めたかった」
結果は6着(6車立て)。末着ながら、無事に走り切った。
「特別な感情はなかったんだけど、自分の中ではなんかジーンときましたね。自分の中で幕が下りた感じ。あぁ終わったんかなぁって」
ラストランを振り返る佐古さんには、わずかに安堵の表情も見えた。
競輪界の“生ける伝説”であった佐古さんが考える“競輪”とは何だろうか? そして“競輪の魅力”はどんなところだと考えているのだろうか。ずばり聞いてみた。
「競輪とは、僕にとってはロマンですね。夢。苦しいと思ったことはないんじゃないかな。好きなことをやって一生を終える、戦うというのがいいですよね。自分の肉体で戦うっていうのがいい。他の公営競技とは違いますもんね」
30代で自力選手からマーク選手に転向し、それぞれの戦法で勝つ“喜び”を知った。それがこれだけ長く現役を続けられた原動力だったそうだ。
「自分で動いていた時は相手をねじ伏せたいという気持ちで走っていた。マーク屋になってからはまた気持ちが違いましたね。自力選手は勝てる位置から勝つ、マーク屋は勝てない位置から勝てる醍醐味がある。“勝ってやった”という気になれる。28、29歳くらいまでは自力を出していたけど、30歳を過ぎて勝てなくなって他の力を借りて勝とうと思った。自力、マーク屋の両方の喜びを味わえたから長く現役をできたんじゃないかな」
昭和、平成、令和の競輪を身をもって体験した佐古さん。“競輪”の変化をどう見ているのだろうか。
「競走から自転車競技になりましたもんね。今の競輪は力がないと戦えないと感じる。両方とも経験したけど、その時代、その時代で対応していかなくちゃいけないんだけど…。個人的には昭和の競輪の方が好きかな。“勝負師”でありたいから」
佐古さんが43年にわたる現役生活において大事にしていたこととはなんだったのか。
「プライドは大事にしてましたね。僕は“競技者”じゃなくて“勝負師”だから。プライドを持っていないとダメだと思っていた。競技者と勝負師の違い? 競技者はレースに向けて万全にしていく感じ。勝負師というのは“今ある力”で戦う、という感じかな」
大切にしていた“勝負師”としてのアイデンティティを、真剣な表情で語った。
ひとりの人間として、人生をかけて競輪に向き合ってきた佐古さん。43年間、真っ直ぐに戦い続けた姿は多くの競輪ファンに勇気を与えた。自分自身、“これだけは誇りに思える”ということを聞いてみると…。
「ロマンを求めてロマンで終われたことですね。終わる寸前まで、7着を6着にしようと夢を追いかけた。最初は(自転車競技の経験がなく)周回もキツかったし、自転車をかついで歩いた方が楽だった。そんな人間がね、夢を求めたのと、ちょっとのことでも成長を喜べたから」
競輪ではトップ戦線から代謝争いまで経験。1989年には世界選手権で銅メダルを獲得した。その実績だけでなく温かい人柄でも知られ、愛された“競輪仙人”が、座右の銘を教えてくれた。
「僕がいつも言っていたのは、“人と比べるな”、“自分の成長を喜べ”ですね。そうすればずっと練習ができるから。強くなれなくても、自分次第でね。人はたいてい『できる・できない』を求めてしまう。『できる・できない』は素質だけど『やる・やらない』は気持ちの問題。自分の成長を喜ぶには努力と練習ですから。競輪は自分のための練習ができる。僕にとって自転車の練習は“幸せ”だった」
競輪人生を全うした佐古さんだからこその、重みある言葉。これまでの人生の7割近くを競輪に捧げてきたが、生まれ変わってもまた競輪選手になりたいのだろうか?
「生まれ変わったら、医者になりたい。脳神経外科とかやってみたいですね」
まさかの答えにあっけにとられていると、佐古さんはいたずらっぽく笑った。
「競輪選手になりたくないのではないですよ(笑)。今度は肉体じゃなくて頭で勝負したい。男というのは認められたい生き物なんです」
夢を追いかけ、最後の最後まで“勝負師”であることを貫いた佐古雅俊さん。競輪ファンの記憶に深く刻まれている佐古さんは、いつまでも“勝負師”の心を持ち続けるのだろう。 ▶︎後編はこちら
netkeirin特派員
netkeirin Tokuhain
netkeirin特派員による本格的読み物コーナー。競輪に関わる人や出来事を取材し、競輪の世界にまつわるドラマをお届けします