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【伏見俊昭とグランプリユニフォーム】KEIRINグランプリを優勝して感じた1番車の重圧

2022/12/27 (火) 18:00 11

 netkeirinをご覧の皆さま、こんにちは。伏見俊昭です。
 今年もいよいよKEIRINグランプリが近づいてきました。昨年のグランプリ時期のコラムでは思い出のレースについてお話しをさせていただいたので、今回はグランプリチャンピオンになってからのお話をさせていただきます。

伏見俊昭(撮影:島尻譲)

1番車グランプリユニフォームの重圧

 KEIRINグランプリは2001年の平塚競輪、2007年の立川競輪で優勝することができました。平塚の時は、お客さん5万人くらい入っていて、ホームもバックもスタンドも、隙間が全く見えないほど埋まっていました。そういう環境の中で走れるのは競輪選手の醍醐味ですし、最高峰のグランプリを勝つことは非常に大きな喜びでした。あのときの歓声は今でも忘れられないですね。

KEIRINグランプリの大歓声は忘れることができない(撮影:島尻譲)

 グランプリを優勝した翌年の1年間は1番車のグランプリユニフォームを着用することができます。初めて着た2002年はキツかったですね…。そのユニフォームを着ることによって見えないプレッシャーが掛かってくる。「自分が競輪界を引っ張っていかなくちゃいけない」って変な責任感を感じて、自分で自分を苦しめていましたね。追われるより追う方が楽だし、競輪界の頂上であるグランプリを優勝したことで“その上の目標”を見つけることが大変でした。1番車のプレッシャーに押しつぶされそうになって、思い切って行けなかったり、攻めきれない…どこか守りに入っている自分がいたような気がします。「結果を残さなきゃ。負けられない」って焦りもあって、自分を追い詰めて、良いパフォーマンスができなかったり…。その度に「あぁ…メンタル弱いなぁ」って感じていました。
 正直、1番車のユニフォームを着ていた時期は楽しくなかった。そのユニフォームを目指していたときの方が全然楽しかったですね。でも1番車のグランプリユニフォームを着るのはもちろん気持ち良いですし、1年最後のレースで優勝して年を越せることは何にも変えられない喜びです。

競輪界のプレッシャーから日本代表のプレッシャーへ

2001年グランプリを優勝し喜びを爆発させる伏見俊昭(写真提供:共同通信社)

 2007年の立川競輪の2度目の優勝は、翌年に北京五輪がある関係で監督のフレデリック・マニェが観戦に来てくれていて、優勝したときは敢闘門の辺りで抱き合ったことは覚えています。あとから映像を見ると、優勝インタビューでインタビューアーの(加藤)慎平と話している姿は相当、興奮しているなと思いました。極限まで集中力を高めて、アドレナリンが出まくりでしたね。多分、目が血走っていたでしょう。
 グランプリを優勝して、興奮しない人はいないと思います。大歓声の中でその年のベスト9の中からホンモノの日本一を決める大会で勝ってガッツポーズをしない人がいるなから、ほかに何が嬉しいのか教えてほしい(笑)。

 そうそう、余談だけど番長(有坂直樹)の全盛期は、走り終わってからの目の血走り方はほんと、ヤバかった。「番長、番長」って近寄れる雰囲気じゃなかったから。あれは気持ちを高めていたからなのかな…。

日本代表の重圧は相当なものだった(写真提供:伏見俊昭)

 2008年でまた1番車ユニフォームを着ることができたんですが、初めて1番車のユニフォームを背負った2002年とは気持ちが違いましたね。同年に北京五輪があったので、国内のレースやグランプリに出たいという気持ちはあったものの、それ以上に「五輪で結果を出したい」という気持ちが強かった。でもそれはまた違うプレッシャーがのし掛かってきましたね。2002年のように国内の競輪で切羽詰まった感じはなかったです。「グランプリ優勝して日本代表として五輪に参加するんだから、そこで結果を出さないと…」というプレッシャーは、2002年とは違うものでしたが、重圧はそれ以上だったかもしれない。

 残念なことに5月の全プロで落車して肋骨を折ってしまい、その3ヶ月後の五輪では良いパフォーマンスができなかったです。今のナショナルチームは脇本(雄太)君でも新田(祐大)君でも全然、国内の競輪は走らないで五輪に専念していたけど、当時はそんな感じじゃなかった。コーチからも“走るな”とは言われなかったですし。でも五輪に出場すれば出走本数とかも免除されていたから自分の判断で走らなければよかったんですよね…。人生、やり直しができるなら昔の自分に「向こう一年間、国内の競輪を休んで五輪に集中しろ」って言ってあげたいですよ(笑)。それでも自分が劇的に成長できたのは、間違いなくナショナルチームに入ったおかげです。

北日本が4人出場するKEIRINグランプリ2022

グランドスラムを達成した新田祐大(撮影:島尻譲)

 今年の平塚グランプリは北日本が4人出場します。同地区ですからやっぱり応援したいですね。新山(響平)君は自分のスタイルを崩してまで、どうしても優勝したいって競輪祭決勝で新田君の番手を回ってグランプリ初出場を決めました。グランドスラマーにお膳立てしてもらって3、4番手も固めてもらってGI優勝を獲らせてもらったと言っても過言ではないです。もうグランプリで新山君のやることは決まっていますよね。グランドスラマー新田君が優勝したら神山(雄一郎)さん超えになるのかな。来年は北日本にSSが4人いるから記念開催でも北日本が有利になってもっともっと盛り上がりそうで楽しみです。

2022年はケガに泣かされた一年、来年はファンのためにさらに向上したい

やるべきことを精一杯やってファンのため走り続ける(撮影:島尻譲)

 2022年は5月に地元でダービーがあったので、まずはそこを目標にしっかり走って点数も調子も上げていい感じだったけど、6月の高松宮記念杯で落車して大ケガ。その後にも人生初の肉離れとケガに泣かされて、波に乗れなかった一年だったかな。でも年末にしっかり元気な姿で走れるっていうのは、気持ち的にもまだまだ折れてない証拠ですからね。練習でも治療でもやるべきことを精一杯やってそれでもダメなら諦めるけど、まだ諦める状態には全然きてないので大丈夫。年齢を言い訳にして無理って決めつけたりはしないです。
 2023年はケガをせずに気持ちを切らさずに挑戦し続ける、どんなレースでも自分の車券を買ってくれるファンがいるので1着目指して戦っていきたいです。競輪にアクシデントはつきものだけど、来年はないことを祈って一日一日大切にしていきます。



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伏見俊昭

フシミトシアキ

福島県出身。1995年4月にデビュー。 デビューした翌年にA級9連勝し、1年でトップクラスのS級1班へ昇格を果たした。 2001年にふるさとダービー(GII)優勝を皮切りに、オールスター競輪・KEIRINグランプリ01‘を優勝し年間賞金王に輝く。2007年にもKEIRINグランプリ07‘を優勝し、2度目の賞金王に輝くなど、競輪業界を代表する選手として活躍し続けている。 自転車競技ではナショナルチームのメンバーとして、アジア選手権・世界選手権で数々のタイトルを獲得し、2004年アテネオリンピック「チームスプリント」で銀メダルを獲得。2008年北京オリンピックも自転車競技「ケイリン」代表として出場。今でもアテネオリンピックの奇跡は競輪の歴史に燦然と名を刻んでいる。

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