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【伏見俊昭とライバルの引退】競輪人生の中で最大のライバルは村上義弘しかいない

2022/10/17 (月) 18:02 38

 netkeirinをご覧の皆さん、こんにちは。伏見俊昭です。
 6月の「高松宮記念杯(GI)」の落車で大ケガをしてしまい、8月の「オールスター競輪(GI)」で復帰することができました。調子も戻りつつありこれから、というときにまたケガをしてしまいました。そして競輪界でも大きな話題となった村上義弘さんの引退…。今回はこの2つのテーマでお話ししたいと思います。

伏見俊昭(PHOTO:島尻譲)

9月17日に突然の悲劇が襲った…

 8月のオールスター競輪のあと、取手と大垣を走り、徐々に調子を取り戻している感覚でいました。いつものように朝練習を行なっていた9月17日。通常の練習メニューで最近流行りの大ギアで低速からのシッティングダッシュのトレーニングでフォームを固めて踏み込む時…「ブチッ」っと音がして右ふくらはぎに痛みが走りました。これはまずいな…と。今まで経験したことがなかったのですが「多分、これは肉離れだ」ってすぐ思いましたね。急ぎでかかりつけの整骨院に行ってエコーで見てもらったら「筋断裂があるから肉離れ」と予想が的中した診断でした。

 肉離れの基本的治療の「ライス療法」である安静、冷却、圧迫、拳上で手当てしてもらったんですが、とにかく歩くこともままならないほど痛い。どうにかならないかとインターネットで検索したら「ゆらし療法」というのが出てきました。「1日で良くなりました!」などと絶賛の口コミがずらり。アクセル踏むものつらかったけど、すがる想いで車を一時間半走らせて行きました。

 …現実はそんなに甘くないですよね。一生懸命、施術はしてくれたけどさすがに1回で劇的には良くならず。先生に「本当に1、2日でよくなるんですか?」と聞いたら「口コミはいいことしか書いてないからね」って正直に答えてくれました(笑)。

20代でも回復に3週間はかかる肉離れ

 競輪選手は陸上の選手のような瞬発的な動きはしないので、あまり肉離れは起こしにくいため、僕自身も初めて。勝手が全くわからずどのくらいで回復するのか、どんな治療が効果的なのか、ひたすら、検索、検索、検索…。

同じ肉離れで苦しんだ高橋晋也(PHOTO:島尻譲)

 そういえば8月に取手で一緒だった高橋晋也(福島)が7月の小田原で落車した時に肉離れになったって言っていたのを思い出して「どうだった?」って聞いたんですよ。そしたら、練習を3週間休んで「エレサス」という最近、選手の間で流行っている、車一台余裕で買えるくらいの高額治療器があって、そのエレサスと超音波で毎日、治療して酸素カプセルにも入って、その後、1週間練習して復帰した、と。シンヤは20代、僕は40代だから回復も全然違うけどとりあえず、エレサスは持ってないので、今やれることとして治療院行って超音波やって酸素カプセル入っていましたが、全然痛みが引かないんですよね…。なんとかやれる範囲で上半身だけトレーニングを再開しましたが、松阪記念(蒲生氏郷杯王座競輪)は間に合わず断念。復帰して調子も良くなってきて、練習バンクである松阪記念のあっせんが入ってさらにモチベーションも上がってきたところだったのですごく残念です。

 10月27日からの平塚で復帰予定です。11月には競輪祭の出場が決まったので、今度はそこへ向けてモチベーション高く頑張ります!

「村上義弘引退」という衝撃的なニュース

 9月29日、衝撃的なニュースが飛び込んできました。それは村上義弘さんの引退…。

「村上義弘引退」という衝撃的なニュースが輪界を騒がせた

 仲良くしているデイリースポーツの松本(直)記者が、すぐに連絡をくれたんですが、最初は何かの間違いなんじゃないかというくらい信じることができなかったです。オールスター競輪のときも元気に走っていたし、少し話もしました。向日町記念の欠場理由を京都の選手に聞いたら「ぎっくり腰」とのことだったので、地元記念を走れないのは残念だけど、ぎっくり腰なら1週間くらいでなんとかなるだろうから、松阪記念は元気に出てくるんだろうってそんな風に思っていたくらいでした。

 まだまだトップで活躍できるとも思っていたので、そのニュースを聞いたときは、「なんで?どうして辞めるんだろう」って1日中考えてしまいましたね。

先行の代名詞といえば村上義弘

「先行」にこだわったKEIRINグランプリ(PHOTO:村越希世子)

 以前のコラムでも書きましたが、僕の中のベストバウトは静岡記念の準決勝。僕と村上さんと齋藤秀昭(群馬・引退)さんの3分戦で僕と村上さんで先行争い、2人とも着外で決勝には乗れなかったけど、気持ちのこもったレースでしたね。2003年のKEIRINグランプリでも先行争いをしました。僕には同県の先輩2人がついていて「先行で勝負する、誰が来ても先行する」って決めていました。村上さんとの先行争いには勝ってひとまずの安堵感があって、次も叩き合ってやろうっていう気持ちはなかったです。でも村上さんの先行にこだわるレーススタイルは、一度もブレなかった。結果を出しても失敗してもとにかく先行。先行の代名詞といえば村上。まさに魂の走りでした。

村上義弘はどこにいても気迫が溢れでていた(PHOTO:村越希世子)

 村上さんがヘラヘラ選手とおしゃべりしている姿なんて見たことがない。食堂でもお風呂でもどこにいても気迫が溢れ出ていて。村上さんは多分、リラックスしているんだろうけど、集中力がずっと続いているようなオーラがありましたね。コロナ禍前は県別で大勢同時に食事をしていて、福島の隣が京都になることもありました。京都勢は一言もしゃべらず食事をしていてまさに「黙食」。開催が終わるまで白い歯を見せたらアカン、という感じで「あれがプロだな」と思っていました。

 (佐藤)慎太郎が村上さんの居ない時に、稲垣(裕之)君に「京都勢の食事すごかったなぁ」と声をかけたら「やめてください」ってマジで言っていましたね(笑)。

競輪人生の中で最大のライバルはやっぱり村上義弘しかいない

KEIRINグランプリ2010(PHOTO:村越希世子)

 僕の中では村上義弘という存在は、競輪人生の中で一番のライバル。若い頃は村上さんと話をした記憶は全くないです。ライバルというのはそういうものなんじゃないかな。村上さんが優勝すると「おめでとう」という感覚はなく、「先を越された」と悔しいような複雑な気持ちでモヤモヤしていました。当時僕はそんな気持ちでいたけど、村上さんはどう思っているのか、正直わからなかった。でも数年前に村上さんと一緒にトレーニングしている稲垣君と話したときに「伏見さんがどっかで優勝した時の村上さんの表情、ヤバかったですよ」って。村上さんも僕に対してそんな風に思ってくれていたんだなと、嬉しかったですね。

村上義弘との当時の戦いは誇りとなっている(PHOTO:島尻譲)

 村上義弘という大スターが引退してしまったことはとてもさみしいです。これがね、僕が自力でバリバリの頃だったら「よっしゃ! いなくなった(笑) 」ってゲスい人間なのでライバルが1人居なくなったことに喜んでいたかもしれない。

 でもこの年齢になると一つ上の村上さんの頑張っている走りが励みになっていました。一緒のレースの時は負けたくないっていう気持ちよりも、ワクワクするような、楽しんで走っている自分もいました。村上義弘というライバルがいたから自分も成長できたと思っています。村上さん引退の一報をくれた松本記者が「村上さんといえば伏見さんでしょう」って言ってくれたのも嬉しかったです。そう言ってもらえる戦いがあの当時できていたのは、本当に誇りに思います。



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伏見俊昭

フシミトシアキ

福島県出身。1995年4月にデビュー。 デビューした翌年にA級9連勝し、1年でトップクラスのS級1班へ昇格を果たした。 2001年にふるさとダービー(GII)優勝を皮切りに、オールスター競輪・KEIRINグランプリ01‘を優勝し年間賞金王に輝く。2007年にもKEIRINグランプリ07‘を優勝し、2度目の賞金王に輝くなど、競輪業界を代表する選手として活躍し続けている。 自転車競技ではナショナルチームのメンバーとして、アジア選手権・世界選手権で数々のタイトルを獲得し、2004年アテネオリンピック「チームスプリント」で銀メダルを獲得。2008年北京オリンピックも自転車競技「ケイリン」代表として出場。今でもアテネオリンピックの奇跡は競輪の歴史に燦然と名を刻んでいる。

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