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【伏見俊昭が戦ったライバルたち】競輪人生最大のライバルは村上義弘、彼がいたから“もう一踏み”ができた

2021/09/18 (土) 18:00 29

 netkeirinをご覧の皆様、こんにちは。伏見俊昭です。
競輪選手としてデビューして26年間、さまざまなことを経験してきました。そのなかで自分が今までやってこれたのは、しのぎを削ったライバルたちがいたからです。うれしさや悔しさ、さらなる成長にはライバルの存在は欠かすことができません。今回は、自分の競輪選手人生に影響を与えた「過去のライバルたち」について語ります。

伏見俊昭がしのぎを削ったライバル選手 (PHOTO:村越希世子)

初めてのライバルは“同じ釜の飯を食った仲間”

 僕は75期生として1995年4月に19歳でデビュー。最初にライバルとして意識したのは、同じ釜の飯を食った75期生の同期生たちでした。常に「同期には負けたくない」、「同期の中で一番早く出世したい」という気持ちがありました。

 そんな想いを抱きながら日々の練習をこなしていたときに、大きな衝撃がありました。

 それはアトランタ五輪開催中のこと…。僕は自転車競技の1kmタイムトライアルの日で朝の練習を終え、ふと家のテレビをつけたら、同期の十文字貴信(茨城)君が銅メダルを獲得した映像が流れてきた。「えっ!? 本当に!? 」と驚きましたね。十文字君は1kmタイムトライアルのスペシャリストでダッシュ力と持久力を兼ね備えているオールラウンダー。競輪学校(現養成所)では徹底先行を貫いていたので在校成績こそそんなに良くなかったけど、バック本数はすごかった。

「同期の中で誰よりも先に出世したい」と思い続けていましたが、十文字君は五輪でメダルを獲るわ、KEIRINグランプリにも出場するわ、といつのまにか…ライバルではなく雲の上の存在になってしまいました。完敗したような気持ちになりました。

同期のライバル、太田真一選手(中) (PHOTO:村越希世子)

 そして、もう1人の同期のライバルは、太田真一(埼玉)君です。十文字君、太田君がS級に特進し、僕も同期では3番目にS級に特進しました。

 S級2場所目で早くも太田君との同期対決を迎えます。僕は主導権を取りにいったんですが太田君に突っ張られて終わり。軽くあしらわれてしまいました…。太田君は在校1位でインターハイでも実績があり、初タイトル(高松宮記念杯)獲得も一番だったし、その年のKEIRINグランプリも逃げ切って優勝。まさに超スーパーエリート。

 太田君も十文字君も僕の何十歩も先を行っていてライバルを通り越して目標とする選手でしたね。それでも「僕だって、必ず! 」という悔しい気持ちをバネに強くなるために練習を重ねました。今思うと彼らがいてくれたから「もっと強くなりたい」と思うことができたのかもしれませんね。

「先行日本一」という称号の前に立ちはだかる強敵

 競輪選手として多くのレースを経験するうちに、自分の中でいつしか「先行日本一」という称号に憧れが芽生えるようになりました。「自分もそう呼ばれたい」そんな気持ちが強くなり、その称号を手にするべく、自分のスタイルも変えていきました。

「先行日本一」の称号の前に立ちはだかった小嶋敬二選手 (PHOTO:村越希世子)

 しかし、その称号を手に入れるためには、避けては通れないのが小嶋敬二(石川)さん。74期で期は1つ上ですが、小嶋さんは大卒なので年齢は5歳上でした。当初はそこまでライバル視はしていませんでしたが、「先行日本一」の称号ということを考えてからは、ライバルという存在になってしまいましたね。そのほかには当時、同年代の先行選手としては金山栄治(滋賀)さん、松岡彰洋(三重)さん、伊藤保文(京都)さん、後輩の岡崎孝士(熊本)君らがいたので、ライバルはとても多かったなと思います。

 印象に残る一戦は2001年取手競輪での共同通信社杯の準決勝。このレースで僕、小嶋さん、太田君、金山さんが一緒でした。ここで3人に勝てれば「先行日本一」の称号に一歩近づけると思いました。結果は僕がカマして3人をやぶって決勝に進出。勝ち上がりのレースで印象に残るってあんまりないんですけど、この一戦はうれしくて、うれしくて、今だに忘れられることはできません。

競輪人生最大のライバルは、村上義弘!

競輪人生最大のライバル・村上義弘選手(中) (PHOTO:村越希世子)

 僕の競輪人生の「ライバル」として、決して欠かすことのできない選手は、村上義弘(京都)さんです。当時いつしかメディアでも先行争いとしてライバルと言われることが多く、そういう関係を作られたこともあり、とにかく“激しい争い”でしたね。次の日に村上さんと同じレースだとわかるとずっと神経をとがらせて「絶対に負けたくない」っていう闘志がみなぎっていた。村上さんは1つ年上ですが、同期やほかの先行争いをした選手には感じたことのない、特別な感情がありましたね。上手く言い表せませんが、今までのライバルに対して抱いた気持ちとは全く別物。

 練習ではわざと隣に「仮想・村上義弘」がいると思ってモガいていました。村上さんが横にいると思うと“ここでやめちゃいかん”ってもう一踏み、二踏みできるんですよ。レースは9人制でほかにも7人いるのに、僕の目には村上さんしかいないくらいでした。

 村上さんとはいろんなレースで戦いましたが、自分として一番思いが深いのは静岡記念の準決勝です。僕と村上さんともう一人まくり選手がいて3分戦でした。2人で早い段階から先行争いでバッチバチ。村上さんも先行しながらガンガンあたってくるし、僕も負けじとあたり返して、結果的には2人とも決勝には進めませんでした。終わった後も興奮が冷めやらず「ありがとうございます」と、かろうじてあいさつだけはしたもののその後は目も合わせませんでした。

村上義弘選手と先行争いをした2003年のKEIRINグランプリ (PHOTO:村越希世子)

 2003年のKEIRINグランプリ(京王閣)でも村上さんと先行争いをしました。そのレースも打鐘あたりからバチバチ。レースは僕の後ろには福島の先輩2人がいて、主導権争いでは村上さんに勝って次につながる走りができたなと自分ではどこか満足していました。その後、村上さんが「これからのオレと伏見の戦いを見とってください」って挑発的に語っているインタビュー映像を見て…。そんなの見たら僕だって火がつきますよね。直接話すわけじゃないのにお互いVTRとか見て村上さんも僕に対しては「コイツ…」って思ってるのが伝わってくるんですよ。あの当時はバンク外でもとにかくバチバチでしたね。

 それほど村上さんとは常にバチバチして、熱いものがありました。レースの結果はもちろん大事でしたが、僕的には先行争いで村上さんに勝つことの方が自分が思う勝利だったんです。「この人との勝負に勝たない限り本当の意味の勝利ではない」という気持ちが強かったと思います。

村上義弘との長い争いに終止符

 僕と村上さんの関係にも次第に区切りというか、確執がなくなったと感じるきっかけとなったレースがありました。それは2004年静岡ダービーの決勝。

2004ダービー決勝でゴール後、佐藤慎太郎選手(左)と肩を組みながら喜びを分かち合う (PHOTO:村越希世子)

 僕と村上さんの2分戦で村上さんの後ろは競り。必然的に自分が前受けになって突っ張るか、引いてカマすか。結果的には競りを見てのまくりになって僕が優勝、追走の佐藤慎太郎(福島)、出口真浩(神奈川)さんを連れ込んでラインで1、2、3着でした。

 勝つには勝ったものの、僕の中での村上さんとの勝負には負けた感がありました。勝ちを意識して狙ったわけではないですが、先行勝負には行かず、あんなにバチバチにやっていた村上さんとの真っ向勝負を避けてしまった自分がいたんです。

 レース後、敢闘門に引き上げてくると村上さんに呼ばれました。本当に初めてって言っていいくらいの感じで村上さんと話ができて、とてもうれしかった。その後、記者さんたちに「何を話してたの? 」と聞かれた村上さんは「それはオレと伏見の話だから言えない」って答えているんですよ。だから僕も言えません(笑)。詳しくは言えないですが、「オマエとはこれからもまだ戦うことはあるだろうけどまあ、おめでとう」みたいな感じだと思ってください。村上さんとの真っ向勝負をさけたのにもかからず、お互いの健闘をたたえた感じで、村上さんの方から話しかけてもらったことで認めてもらえたように感じました。あれは本当にうれしかったです。

 僕はカマシ、まくりを多用するようになっても、村上さんは己のスタイルを貫いて。「カマシ先行は先行じゃない」と言っていてしっかり後ろから抑えて駆けるということを有言実行していました。村上さんは先行でタイトルを取ってKEIRINグランプリだろうがどのステージでも自分のスタイルを曲げることはありません。村上さんのほうが一枚も二枚も上でしたね…。

現役でいる以上「全員がライバル」

現役選手でいる限り全員がライバル、肝心なことは教えない(PHOTO:島尻譲)

 村上さんとは、バチバチしている時期もありましたが、今となっては心から尊敬する選手です。普通に話もしますし。当時聞けなかったので村上さんには聞きたいことがたくさんあるのですが、超一流選手って肝心なことは教えてくれないんですよね(笑)。現役選手として走っている以上は、大きく言えば全員がライバル。大切な機密情報なわけなので…コーチでも監督でもないので、それは教えられないですよね。そこですべてを教えてしまったら負けを宣言してしまっているようなものですから。もちろん僕も“肝心なこと”は言わないです(笑)


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伏見俊昭

フシミトシアキ

福島県出身。1995年4月にデビュー。 デビューした翌年にA級9連勝し、1年でトップクラスのS級1班へ昇格を果たした。 2001年にふるさとダービー(GII)優勝を皮切りに、オールスター競輪・KEIRINグランプリ01‘を優勝し年間賞金王に輝く。2007年にもKEIRINグランプリ07‘を優勝し、2度目の賞金王に輝くなど、競輪業界を代表する選手として活躍し続けている。 自転車競技ではナショナルチームのメンバーとして、アジア選手権・世界選手権で数々のタイトルを獲得し、2004年アテネオリンピック「チームスプリント」で銀メダルを獲得。2008年北京オリンピックも自転車競技「ケイリン」代表として出場。今でもアテネオリンピックの奇跡は競輪の歴史に燦然と名を刻んでいる。

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