2021/02/13 (土) 12:00 9
新型コロナウイルスの猛威は振るうばかり…。現状の対応や対策に手いっぱいの日々だ。だが、今こそ、その先を見据えて行動に移す時。新しい世界を作り出していける時間が、“今”だ。
ドヴォルザーグの交響曲第9番「新世界より」第4楽章、デーデン…、デーデン…、デーデッデッデデッデデデデデ、で始まり、チャー! チャンチャーチャチャン、チャーンチャーチャチャチャン!の進行は誰の耳にも残っているだろう。
同曲は、「ねえ、連れて行ってよ!」と、鉄道に恋い焦がれていたドヴォルザーグがその時代を表現した一節だ。
ドヴォルザーグが競輪のファンだったら、どうだろう。今、どんな音楽として作り上げるのだろう。かつて、競輪のテーマ音楽は、依頼された作曲家が花月園競輪場(2010年3月閉場)を訪れ、そこでインスピレーションを受けたという。目の前で繰り広げられる、数多の奇跡があった。
こうした音楽は目に見える作品、結果のひとつだが、競輪場には日々の感動がある。住んでいるところの近くに競輪場があり、近隣の人々は時々、競輪を見ることがある。銀輪がさざめき、体を突き抜けてくる選手の鼓動が伝わってくる。
ドン、ドドン、ドン、ドドン、……。子供のころに聞いた、あの太鼓の音。腹の底に響く、怖さすら感じる、衝動。
地域によるだろうが、日本の各地では定期的に祭りが開かれている。
そう、“おまつり”。
子どものころ、その日を心待ちにしながらも、どこかで恐れていた自分がいた…。感じたことのないリズム、見たことのないような人の群れ。家に帰り、布団に入ると、「また、行きたいな…」と病みつきになる感情。
金子貴志は当サイト(netkeirin)の自身のコラムで、
--「競輪場のイメージを変えたい」と思ったのがきっかけです。競輪場内でお祭りをやっているような、活気があって楽しく、家族や友人と行きたくなるような雰囲気を作り、みんなが笑顔になれるような場所にするという理想を描きました
と書いている。コロナ禍において、多くの人が、表現する場、またそこに参加する機会を失っている。それらを埋められる舞台としての競輪場を置いていい。一度大きくふさぎ込んだ世界、日本、地域。人々が集まり、力を合わせ、発揮する場所としての競輪場。必ず、その機能を果たせる。
かつて、こうしたコラムを書いていたころに、例えば豊橋なら月1週目の土曜日、また名古屋は月2週目の日曜日、立川は月3週目水曜日、川崎は月の週目土曜日が絡む定期的な本場開催の日程定着はできないか…と書いてきた。全国43場なので重なるところはあるだろうし、現在の記念のシステムを考えれば、重複はする。ただ、月に一度の地域のお祭りとして、日程のあり方を考えてもよいのではと思う。
長い目で見れば、本場に来てくれるファン、そこで働く人々、またそこにいる子どもたちが重要な存在なのだ。地域に根差し、日本の文化としての競輪場のあり方を今こそ再構築していくべきだ。3年後、5年後やその先がある。
本来ならば、昨年のどこかの時点で全競輪開催を「コロナ対策支援競輪」として売り上げの一部をコロナ対策に拠出してよかった。地震や豪雨といった災害に対し、競輪界はこうした枠組みを持って支えてきたのだ。
開催側だけでなく、競輪場で食堂を経営する人たちや金子が作っているキッチンカーのように、競輪場で何かを売り上げる人たち、みな売り上げの一部を何らかの対策基金として積み上げることに異論はないだろう。それはみんながつながる力になる。こうしたチャンスを創出できる場は、そうない。遅いかもしれないが、今しかない。
コロナのような災厄は、病気のほか、また各種の災害も、今後も起きてしまうだろう。その時に対処するために、常に競輪が支えられますよ、と力を発揮できる。みんなでアイデアを出し、行動に移し、切り開く。コロナに苦しむ時間を、意味のある時間にできるはずだ。
Twitterでも競輪のこぼれ話をツイート中
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前田睦生
Maeda Mutuo
鹿児島県生まれ。2006年東京スポーツ新聞社入社、競輪担当として幅広く取材。現場取材から得たニュース(テキスト/Youtube動画)を発信する傍ら、予想系番組やイベントに出演。頭髪は短くしているだけで、毛根は生きている。