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【伏見俊昭のターニングポイント】自分を変えた五輪、「目指していなければ今の自分はいない」

2021/07/20 (火) 18:00 14

 netkeirin をご覧の皆様、はじめまして。伏見俊昭です。
競輪選手を目指し、念願が叶ってプロデビューして早26年。初出走は1995年4月15日の伊東でした。その日から、山あり谷あり。本当にさまざまなことを経験してきたと思います。

 このコラムでは、これまで決して多くを語ってこなかった自分自身の胸の内など、等身大の伏見俊昭をお伝えできればと思います。初回はいよいよ7月23日に開会式を迎える東京五輪にちなんで「自分が経験してきた五輪」について語ります。

苦難を乗り越え手にした銀メダル、長塚智広(左)・伏見俊昭・井上昌己(右)

自分の人生に大きな影響を与えた「1,000mタイムトライアル」

 過去に3回、五輪選手として世界の舞台で戦ったことがあります。競輪選手としてデビューした時は正直“自転車競技”をやろうとは思っていませんでした。そんな自分が五輪を目指すきっかけとなったのは、ある「1,000mタイムトライアル」。

 地区プロで1000mタイムトライアルを走ったら、そのタイムがよく優勝。その走りを見てナショナルチームの監督であり、僕の師匠でもある班目秀雄さんに推薦していただいて、ナショナルチームに入りました。当時の僕はまだ五輪は「見るもの」だと捉えていたので、まさか自分が目指すなんて…考えもしなかったし、どこかで人ごとでした。

伏見俊昭(左)の後ろにいるのが師匠でもある班目秀雄氏

 しかしそのときの自分は、記念こそ優勝できましたが、GI戦線で活躍することができず頭打ち状態。そんなありさまだったことも影響し、競輪よりも世界と戦うことで自分のレベルアップを感じることができる自転車競技のほうが楽しかった。次第に“五輪の舞台に立ったら違った景色を競輪で見えるかもしれない”と考えるようになり、五輪を目指すことに決めました。

シドニー五輪の落選が自分を強くした

 最初に目指した2000年のシドニー五輪。

 結果は代表に選ばれず、もちろん出場もできませんでした。このために多くのものを犠牲にしてきて頑張ってきたので、ものすごく悔しかった…。立ち直るまでには相当の時間が必要でしたね。

 落選してしまった選考会の帰り道の夜、宇都宮の街で練習仲間の佐々木雄一君(41歳・福島=83期)、松崎伊佐夫君(2014年10月17日に引退)が急遽、ヤケ酒につきあってくれて…。 人生で一番しょっぱいお酒でしたが、一番忘れられない格別な味でした。先のことなんて何も考えられなかった自分が前向きになれたのはやっぱり周囲の支えが大きかった。

 その後「アジア自転車競技選手権大会(上海)に出ないか」と言われた時も正直、本音は行きたくなかった。一緒に争った選手は“五輪”でなんで自分は“アジア選手権”なんだと生意気にも思ったりもして。格の違いにプライドが邪魔していました。

 そんな時、伊勢崎彰大君(42歳・千葉=81期)が「伏見さん一緒に行きましょうよ。いいじゃないですか〜」と誘ってくれたんです。その一言がうれしくてアジア選手権に出場しました。

スタート地点で緊張が高まる瞬間(中:伏見俊昭)

 結果、ケイリンで優勝し伊勢崎君、荒井崇博君(43歳・佐賀=82期)と一緒に走ったチームスプリントも優勝できました。「落選したのは仕方ない。それをプラスにできるように」と言ってくれる人もいて“シドニーがすべてじゃない”と自分を見つめ直せることができました。自分のなかで気持ちの踏ん切りがついてから練習をし、その苦い経験から国内でのレースを勝つためには何が必要なのかが見えるようになりました。これらのことが次のアテネ、北京につながったと思います。このシドニー五輪落選が紛れもなく、競輪人生のターニングポイントになりましたね。

 それからはGI、GII、そしてKEIRINグランプリを優勝して競輪での実績も積むことができました。もちろん「次のアテネ五輪は絶対に出場する! 」という強い気持ちはありました。一度、落選した過去があるので全く不安がなかったわけではありませんが、その不安をバネにアテネ五輪の最終代表選考会ではチームスプリントでの代表入りを狙い、第一人者である長塚智広君(2015年02月10日に引退)に次ぐタイムを出すことができました。

自転車チームスプリント決勝戦(中:伏見俊昭)

 アテネ五輪出場は決まったものの、僕たち競輪選手は国内の競輪も走ってその合間に一週間合宿…それは世界大会のようなスケジュール。

 4年間単位で計画的に仕上げてくる外国人選手と比べたら分が悪いのは明らか。当時アテネ五輪の2ヶ月前の世界選手権のチームスプリントで7位、メダル圏内には2秒程度の差があった。あと2ヶ月でその2秒を縮めるのは到底無理だと感じました。

 その後、当時の監督であるゲイリー・ウエストが1ヶ月の高地合宿を組んでくれたことにより、タイムが縮まり、銀メダルに手が届きました。でも、正直メダルへの思いはそこまで強くなかったんです…。

 過酷な現実を見てきたし、何より“ベストを尽くしたなかで日本代表として恥ずかしくないタイムを出す”ということを念頭に置いてましたから。今思えば、その開き直りがメダルへのプレッシャーを感じることなく、良い結果につながったのかもしれません。

メダリストになった反響の大きさ

アトランタ五輪のメダリスト十文字貴信氏と熱い握手をかわす

 銀メダル獲得はGI、KEIRINグランプリ優勝とは比べものにならないほどの反響でした。成田空港に着いた時の出迎えの人の多さが、それはそれはすごかったです。

 “競輪ってこんなに多くの人に応援されているんだ”と感じた瞬間でした。五輪に出る、出ないかだけでもすごく違うのにメダルを獲るか獲らないかではもっと違う。自分の中で自転車競技をやってきて本当によかったと思える時間でした。

 アテネではチームスプリントだけでなく、ケイリンにも出場したのですが見せ場なく終わってしまいました。自分の中での“欲”なんでしょうか…。日本のお家芸であるケイリンで見ていた世界が、メダル取ったことで世界が変わり、競輪でもまた違った感情を持てると思ってしまいました…。

 2008年の北京五輪は約2ヶ月前の全プロで落車し、肋骨を折ってしまった。思うように回復せず、五輪直前の合宿でもケガを引きずりながらの参加で、全力で出来なかったことに今でも悔いが残ります。

いよいよ始まる東京五輪

 もうすぐ待ちに待った東京五輪ですね!

 競輪選手仲間の新田祐大君(35歳・福島=90期)、脇本雄太君(32歳・福井=94期)が代表に内定しています。彼らは競輪から離れ、伊豆に拠点を置いて練習を重ねています。僕は北京の前にケガをして「全プロは走るべきではなかった」と後悔したので、今のナショナルチームの体制は素晴らしいと思います。

 当時は叶わなかったですが、僕もナショナルチーム時代には国内の競輪を休んでトレーニングに専念したいということを訴えていました。自分が訴え、行動してきたことが今につながったんだと、今はただうれしく感じています。

 彼らには東京五輪で最大限のパフォーマンスを発揮してくれることを期待しつつ、もちろんいい結果も残してほしいですね! 今の日本チームは世界と対等に戦えるレベルです。“ケイリンは強い人が絶対勝つ”という競技ではないので、そこが面白くて怖い。でも、参加選手の中でケイリンという競技を一番、熟知しているのは新田君と脇本君。メダル獲得のチャンスは『大』ですね。


伏見俊昭blog「Legend of Keirin」

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伏見俊昭

フシミトシアキ

福島県出身。1995年4月にデビュー。 デビューした翌年にA級9連勝し、1年でトップクラスのS級1班へ昇格を果たした。 2001年にふるさとダービー(GII)優勝を皮切りに、オールスター競輪・KEIRINグランプリ01‘を優勝し年間賞金王に輝く。2007年にもKEIRINグランプリ07‘を優勝し、2度目の賞金王に輝くなど、競輪業界を代表する選手として活躍し続けている。 自転車競技ではナショナルチームのメンバーとして、アジア選手権・世界選手権で数々のタイトルを獲得し、2004年アテネオリンピック「チームスプリント」で銀メダルを獲得。2008年北京オリンピックも自転車競技「ケイリン」代表として出場。今でもアテネオリンピックの奇跡は競輪の歴史に燦然と名を刻んでいる。

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