アプリ限定 2024/04/24 (水) 19:00 51
日々熱き戦いを繰り広げているガールズケイリンの選手たち。その素顔と魅力に松本直記者が深く鋭く迫る『すっぴんガールズに恋しました!』。今回はGI「オールガールズクラシック」に出場するガールズきってのムードメーカー板根茜弥選手(34歳・東京=110期)。選手をめざしたきっかけから現在に至るまでの軌跡を写真とともにご紹介します!
板根茜弥は北海道で一番大きい北見市の出身。1つ上の姉と2人姉妹で、小さな頃から活発な少女時代を過ごしたそうだ。
「小さいころは悪ガキ(笑)。背の順で並ぶと一番後ろで、同級生の男の子より体は大きかった。運動が得意でリレーの選手にも選ばれていた。小学校の授業が終わるとダッシュで家に帰って、ランドセルをぶん投げて、ごはんを食べて、自転車で北見の町を走り回っていました。家の学習机はほとんど物置で、勉強は全くしなかった(笑)」
そんな北国の“じゃじゃ馬娘”は、姉がきっかけでスピードスケートを始める。
「お姉ちゃんが小学1年生、自分が幼稚園の年長のときにスケートを始めた。でも自分は体がどんどん大きくなって、姉よりスケートの成績がよくなった。姉は小学校卒業とともにスケートを辞めたけど、自分は結果が出たことが楽しくて、スケートを続けました」
地元北見では有名なスポーツ万能ガールだった板根は、中学までに柔道やソフトボールでも活躍した。高校ではスピードスケート一本に絞り、帯広にある白樺学園高校へ推薦で進学した。
白樺学園高校スピードスケート部は冬季五輪出場者がたくさんいる名門だ。1998年2月の長野五輪で日本初の金メダルを獲得した清水宏保の出身校でもある。
OGにはガールズケイリン1期生の渡辺ゆかりの名前もある。初めて親元を離れ全寮制の生活になり、スピードスケート漬けの3年間は厳しかったと振り返る。
「本当にスピードスケートの練習だけの生活でした。もちろん冬はスピードスケート中心の練習だけど、夏は自転車のトレーニングも多かった。ロードバイクで1日100キロメートルの乗り込みとかもやりました。寮に3本ローラーがあったからよく乗っていました。競輪学校に入ってからすぐに3本ローラーに乗れたのは、この時期に練習で使っていたからだと思います」
厳しいながらも競技生活は順調だったが、人生の歯車を狂わす出来事が起きた。
「高校2年生のころでした。スケートの成績も良くなってきて、いろんな選抜に選ばれそうなタイミングで交通事故に遭いました。通学路で自転車に乗っていて、自動車とぶつかって…。命に別状はなかったけど、ろっ骨を6本、8か所の骨折で、真っ先に『スケート人生終わった』と思いました。人生初の挫折でした」
不安は的中し、復帰してもスケートの成績は伸び悩んだ。進路についても迷っていた。小さいころから夢は警察官か体育の先生で、その道に進むには大学進学がベターな選択だった。勉強は得意ではなかったため、スピードスケートでの推薦で東京女子体育大学へ進学したが、当時のスピードスケート部は強豪とは言えない環境だったそうだ。
「大学に入って大会に出れば、うちの大学の中では一番だった。そうなると先輩たちは面白くないですよね…。自分は練習したかったけど、周りはそんな雰囲気じゃない。いじめにも遭いました。自分の気持ちが弱かったこともあって、周りに流されてしまいました」
思うようにスピードスケートに打ち込めず、アルバイトに明け暮れる時間が増えていった。生きる目標を失った板根は、だんだんと家にこもるようになった。
「スケートができず、バイトばかりしていたけど、疲れてしまったんでしょうね。学校にもバイトにも行かず、携帯電話の電源も切って引きこもっていた時期がありました」
久しぶりに携帯電話の電源を入れると、姉から着信があった。
「お姉ちゃんが泣きながら『茜弥、生きているの?電話にも出ないから何かあったのかと思った。家族みんなで心配していたんだよ。今電話に出てくれなかったら、北海道から東京に行こうと思っていたんだよ』と心配してくれた。そのとき、こんな自分のことでも心配してくれる人がいるのだからちゃんとしないとって思ったんです。スピードスケートには区切りをつけようと決めました」
競技生活に区切りを付けて、小さいころからの夢である警察官になるため前を向いた。気持ち新たに大学にも通い、アルバイトも始めた。このバイト生活が板根茜弥の人生を大きく変えることとなる。
「立川でバイトを探していたときにふと目に入ったのがカラオケスナックのバイト募集。歌うことが好きだからいいかなと思って、ドアを開けて「バイトしたいんですけど」っていきなり押しかけ即採用(笑)。楽しかったし、いいお客さんが多かったですよ。そのお客さんのひとりが『競輪見に行こうよ!』って声をかけてくれたんです。そのときは競輪のことを知らなかったし、ギャンブルは好きじゃないし『ハードル高いな』と思っていたんですけど」
大学卒業後は体育教師を目指すため、パチンコ店でアルバイトをしながら科目履修で通学を続けた。
「パチンコ屋の制服が私の太い足が強調されるようなミニスカートで (笑)。それを見たお客さんから『お前、いい足しているなあ。一緒に競輪見に行こうよ』って言われた。こんなに競輪、競輪って声かけられるなんて縁があるのかなと思って、このときは見に行くことにしたんです」
そうしてお客さんの誘いに乗り、立川競輪場を訪れた。金網の外でレースを観戦するつもりが、通されたのは裏にある選手管理棟だった。
混乱する頭の中をまったく整理できないまま、関係者とあいさつをする流れになり「今度、競輪場で愛好会があるからそのときまた来なさい」と言われた。後日、愛好会へ参加するとそのままガールズケイリン挑戦が決まった。後から知ったことだが、そのお客さんは元競輪選手の知り合いだったそうだ。
「競輪場に遊びに行くはずが、裏に通されて選手を目指す愛好会に参加することになって…。聞いていた話と全然違った。愛好会では後に師匠になってくれる斎藤将弘さんを紹介されました。将弘さんは『オレは厳しいよ。とにかく自転車にまずは乗ってみて』って言われて。『私、別に競輪選手になりたい訳じゃないのに〜』って思いながらも、どんどん話が進んでいった。自転車から降りると『明日から練習に来い』とだけ言われて(笑)。誰も止めてくれないし、ガールズケイリン選手を目指す方向で話が進んでいきました」
当時は警視庁と北海道警察の採用試験も受けていた板根。日本競輪学校108期の1次試験までは2か月しかなかったが、師匠の齋藤将弘は献身的に練習に付き合ってくれたそうだ。
「自分の試験前に将弘さんは落車してしまったんです。皮膚がズルムケになって包帯ぐるぐるの状態なのに練習を見に来てくれた。その気持ちが嬉しくて、ガールズケイリン選手への試験、やれるだけやってみようってなりました」
板根の運動神経の良さとスポーツセンスが開花する。スピードスケート時代にロードバイクに乗っていたこともプラスに作用し、1次試験の実技を難なくクリアすると、学科の2次試験も突破。なんとストレートで競輪学校への入学チケットをゲットした。
「本当に誰も止めてくれないから…(笑)。でも競輪学校の試験に合格して、家族はとても喜んでくれました。スピードスケートを辞めて引きこもっている時期もあり、運動からは離れてしまっていたし、また体を動かすことを仕事にしてくれたことがうれしかったんじゃないですかね」
とんとん拍子で進んだ板根茜弥の競輪選手への道だったが、108期の競輪学校生活で大きな壁が立ちはだかった。卒業認定考査で赤点を取ってしまい、追試が決定。加えて追試前の練習中に落車し、激痛に加え左手が動かない中で試験に臨むも不合格。卒業見送りとなってしまう。
「最初は自転車の結果も出ていたし、同期の仲間たちともどんどん仲良くなれて楽しかった。でもテストはテスト。いくらテスト前に落車があったからといっても仕方ないですよね。追試の結果で学校に残ることができないと言われたときのショックは大きかった。同期にあいさつをすることもできず、学校から出されました」
ケガを負った状態で、名入りジャージ姿のまま競輪学校を出た板根は、悔しさと不安に襲われた。
「師匠や立川で練習を見てくれていたガールズケイリンの先輩たちに申し訳ない気持ちでいっぱいでした。大学で北海道から東京に上京していたので、帰る家もなく姉を頼って新潟へ行った。新潟駅まで迎えに来てくれた姉の顔を見たら涙があふれてきました。悔しさ、申し訳ない気持ち、今後の不安。いろんな感情がまざって涙が止まりませんでした」
卒業見送りとなった後、復学試験の受験には前向きでなかったという。しかし、周りの声は板根にとって意外なものだった。
「最初は復学試験を受けるつもりはなかったんです。でも両親、姉夫婦、師匠の将弘さん、誰ひとり私が選手になることを諦めていなかった。私にはできるって…。小さいときから『茜弥すごいね。やってみな』って言われると調子に乗ってやっちゃうタイプだったんですよ(笑)」
周りの思いを聞き、もう一度ガールズケイリン選手を目指すことを決断した。師匠のもとを訪れ、「もう一度お願いします」と頭を下げた。
「師匠は『お前(の課題)は勉強だけだから』と言って、毎日テスト勉強に付き合ってくれました。増茂るるこちゃんは車に乗せていろんな所へ練習に連れて行ってくれたり、自転車の部品を譲ってくれたり、本当に良くしてもらいました」
周囲の支えを受けて110期での復学試験に合格。再び競輪学校の門をくぐり、競輪選手になるため、二度目のスタートラインに立った。復学という立場から、110期での生活はなるべく目立たないように心がけていたという。
「とにかく卒業することだけを考えていました。仲のいい人を作ってはいけないと思っていました」
しかし110期の仲間たちは板根と先入観なく付き合ってくれた。板根も徐々に心を開き、1年間楽しく過ごせたと振り返る。
「110期はみんな本当にいい子ばかり。最初に声をかけてきてくれたのは土屋珠里でした。珠里から『いつも108期のブログ見ていました。茜弥さんのブログも見ていました』って言われて、可愛すぎるでしょう(笑)。鈴木奈央はサバサバしていて『板根さん、よろしく』って。私が再入学でも何にも気にしていない雰囲気で助かった。蓑田真璃は毎日掛け算の勉強に付き合ってくれた。蓑田は毎朝欠かさず朝練に参加していたのに、その合間で私の試験勉強に付き合ってくれた。周りのおかげで110期では卒業することができました」
1年遅れの卒業となったが、集大成の卒業記念レースでは決勝3着。ポテンシャルの高さは間違いないことをアピールした。
プロデビューは2016年7月。地元の京王閣だった。予選2走は車券に絡めなかったが、最終日の一般戦は先行して1着。プロ初白星をゲットした。
その後は決勝に乗れない開催が続いたが、デビュー3年目には9開催連続最終日1着(補充出走含む)という珍記録を樹立。競輪選手としての記録より、明るいキャラクターがクローズアップされる場面が多かった。
「どんな時も1走1走大事に走ることを心がけていました。まあいいやと思って走ったことは一度もない。負ければすごく悔しいんですよ。108期で卒業していれば、(児玉)碧衣とか(尾崎)睦先輩と同じようにグランプリを走りたいと思っていたかもしれないけど、一度ドロップアウトしてしまったから選手になれたことに満足してしまっていたのかもしれません」
そしてデビュー4年目で、念願の初優勝を掴み取る。2019年12月の立川競輪場、時間はかかったが、コツコツ積み重ねた努力が実を結んだ。
「師匠がこの年の年末で引退だったので、それまでに1回は優勝したかったんです。その舞台が地元立川だったのもすごく嬉しかった。いろんな思いがあふれて優勝インタビューは号泣してしまいました」
その後、普通開催ではしっかり決勝進出する安定感ある選手に成長した。しかし板根は落車が多く、21年3月宇都宮では左手小指を骨折。それ以外でも大小の落車は数え切れない。
「ガールズケイリンで大事なことは落車をしない、させない。安全に走ること。落車が起きていいことはない。でもコースの見極めは得意なほうだと思うんです。つらい思いをしたこともあるけど、コースを探して突っ込めるのは自分の持ち味だと思います」
昨年は10月「オールガールズクラシック(松戸)」でGI初参加も果たし、トップ戦線に食い込んでいる。
「松戸は補欠からの繰り上がりだったけど、やっぱりGIに出られたのは嬉しかった。観客の人がガールズケイリンだけを見に集まってくれていた。また出たいと思ったし、大きい大会に出続けられる選手でいたいと思いました。選手になれたことで満足していた気持ちが、もっと大きい舞台に出たいって気持ちに変わりました。その気持ちの変化があったからか、12月の立川で久しぶりの優勝。今回のオールガールズクラシックは正選手で出場権が取れました」
オールガールズクラシックは1年間の獲得賞金額上位42人が出場できるガールズケイリンで最も権威のある大会。2回目の出場を自分の力で勝ち取った板根の野望は、その舞台で1着を取ることだ。
「1期生が頑張ってきてくれたおかげで開催できる大会。第1回の松戸での声援の多さが忘れられないんです。今度は1着をとってお客さんの前で1曲歌いたいですね。大垣ミッドナイトの落車の影響は大丈夫。体は骨折もなく元気です。丈夫な体に産んでくれた両親に感謝。久留米でいい結果を出せるように頑張ります」
板根といえば、1着インタビューでのファンサービスだ。底抜けの明るさで場内を盛り上げている。
「初めてマイクパフォーマンスをしたのは高松かな。最初はお笑いタレントのりんごちゃんのものまねをしたんです。そしたらファンの人が喜んでくれたから。歌を歌い始めたのは静岡か京王閣。元々歌を歌うことが好きだったので(笑)」
過去にはSuperflyの『タマシイレボリューション』を熱唱し、場内を笑いの渦に包んだ。
「地元の立川で歌ったときは音量のボリュームを下げられたこともあるんですよ(笑)。中には『板根うるさい』と言う人もいるけど、『板根が歌ってくれると元気が出た』とか『板根の歌を聴きに来た』とか言ってくれる人もいる。1人でも喜んでくれたり、元気が出るなら続けていきたいと思っています」
意外な出会いをきっかけに競輪界に飛び込んだ板根茜弥。競輪学校では卒業見送りで復学と遠回りしてガールズケイリン選手になったが、ポテンシャルの高さは間違いなかった。昨年、GIの舞台を体感してからは、さらなる活躍を目指して前を向いている。
キャリアは中堅に入り、充実の日々。数々の苦難を乗り越えてきたポジティブマインドの塊・板根茜弥が今年のガールズケイリンを盛り上げていく!
松本直
千葉県出身。2008年日刊プロスポーツ新聞社に入社。競輪専門紙「赤競」の記者となり、主に京王閣開催を担当。2014年からデイリースポーツへ。現在は関東、南関東を主戦場に現場を徹底取材し、選手の魅力とともに競輪の面白さを発信し続けている。