アプリ限定 2023/05/31 (水) 18:00 74
日々熱き戦いを繰り広げているガールズケイリンの選手たち。その素顔と魅力に松本直記者が深く鋭く迫る『すっぴんガールズに恋しました!』。今回のクローズアップ選手は4月に通算500勝を達成し、ガールズ初のGI「パールカップ」にも出場予定の山原さくら選手(30歳・高知=104期)。選手をめざしたきっかけから現在に至るまでの軌跡を写真とともにご紹介します!
高知市出身の山原さくら。父は競輪選手の山原利秀(63期)で“親子レーサー”としても知られる。
元気いっぱいなイメージの山原だが、少女時代は母のそばで「草月流いけばな」に親しむインドアガールだった。中学時代は母方の実家がある高知県内でも自然の多い地域で育ったそうだ。
「中学はコンビニもない山の中の学校。全校生徒が8人くらいで、同級生が5人しかいなかったんです。自然の中で遊んでいた思い出しかないですね」
その後、高知工業高校へ進学した。
「本当は制服がかわいい高校があって、そこに行きたかった。でも倍率が高くて試験に落ちてしまったんです。高知工業高校は当時デザイン科ができたばかりで、面白いかなと思って選びました」
高校時代は勉強よりも遊びに全力なタイプだったそう。
「ボーリング、カラオケ、プリクラと放課後ライフを楽しみました。休みの日は推し活。EXILEが好きで、週末はライブがある場所へ遠征をしていました。近所のスーパーでレジ打ちのバイトをして、ライブに行くための資金を作っていたんです。バイトではお客さんを覚えてお話をしたり、楽しかった。接客の仕事をするのもアリだな、と思っていました」
EXILEのライブに行くためにバイトを頑張り、稼いだお金は遠征費やグッズに消えていく…。そんな彼女の様子を心配した両親が勧めたのが、ガールズケイリンだった。
「父が観音寺競輪に参加したとき、“ガールズケイリン復活”って新聞記事を見て、その切り抜きを家に持って帰ってきました。それを見た母が自分に勧めてくれたんです。『自転車で1番になったらEXILEに会えるよ』って(笑)。当時、特にやりたいこともなく過ごしていた自分には響きましたね。高校を卒業しても大学に行けるほど頭も良くなかったし、そのまま就職するのかなと思っていた時期だったので。それなら自転車をやってみるか、って感じでスタートしました」
高校2年の秋、父と一緒に競輪場で初めて自転車にまたがった。すると、父とのマンツーマンの練習で眠っていた素質はみるみる開花。高校3年になると全日本アマチュア選手権大会のスプリント種目で優勝、翌年に迫っていたロンドン五輪のナショナルチーム候補として注目を集めたのだ。
自転車競技での五輪出場を目指すため、高校卒業後すぐに競輪学校へは入らず、地元高知で一般企業に就職。五輪出場を目指しながら、昼間は仕事、終業後は練習という日々を送った。
「一般企業の受付をやっている時期があったんです。でもロンドン五輪の選考から漏れてしまい、ガールズケイリン2期生で競輪学校に入ることを決めました。1期生の小林莉子とは仲がよかったし、1期生が学校でどんなことをしているかとか連絡を取り合う関係でした」
自転車の素質は文句なしだっただけに、ガールズケイリン2期生としての競輪学校生活も楽しかったと振り返る。
「携帯電話が使えなかったことと、階段ダッシュだけはキツかったけど、それ以外は楽しかった。自分は自転車の基礎がなかったし、競輪学校で滝澤(正光)校長から鍛えてもらえたことは今でも感謝をしています。とにかく校長には『先行しろ、先行しろ』って言われていました。たまに競走訓練でまくりになってしまうと怒られました(笑)。でも校長のおかげで入学当時は1キロタイムトライアルが1分20秒だったのに、1分13秒までタイムを縮めることができた。当時の学校記録も出せました。すぐ小林優香に抜かれましたけど(笑)」
1年間の学校生活を終え、いよいよ競輪選手としてデビューを迎えた山原。デビュー戦は、2013年5月の松戸競輪場だった。
結果は1、5、1着。なんとデビュー戦で初白星、初優勝を達成した。自転車経験は短くても、競輪選手の父親から受け継いだ遺伝子の成せる業なのか、パワフルな自力脚を発揮していきなり結果を残したのだ。
「デビュー戦のことはよく覚えています。1日目にオッズを見たら自分から車券が売れていて一気に緊張しました。2日目はフワフワした感じで走ってしまい、5着。最終日の決勝は気持ちをしっかり入れて臨んで、何とか優勝することができました」
デビュー戦で優勝を飾ると、以降の開催も1着を量産し、華々しいルーキーイヤーを送る。9月にはファン投票4位でコレクション初参加、12月にはガールズグランプリにも初出場を果たした。
「1年目は、ぼちぼちといった感じでしょうか。まだ自分の中で基準がなかったので、よく分かっていなかったのかもしれません。初めてのグランプリ(4着)はあっという間に終わってしまった感じでした」
2年目もスタートダッシュには成功。しかし、5月に後輩である3期生が登場すると雲行きは少しずつ怪しくなっていった。
「3期生は自分の形を持っている選手が多かった。レーススタイルも1、2期だけで走っていたときと変わったし、タイムも1秒くらい速くなりました」
小林優香、奥井迪、高木真備、石井貴子と個性的な選手が多くデビューしたことで、優勝するのが難しくなっていったという。その傾向は4期生の登場でさらに拍車が掛かった。
「児玉碧衣の存在は大きかった。碧衣がデビューしてすぐくらいの時に久留米で一緒に練習したことがあるんですけど、衝撃的だった。荒削りだけど、もがいたときのパワーがすごかった。このままじゃ自分ヤバいなって初めて思いました」
今のままじゃダメだ。変わらなきゃいけない! そんな状況のとき、小倉への出稽古に行くきっかけを得る。
「最初のきっかけは、声をかけてもらって小倉競輪のファンイベントに出たこと。そのタイミングで、同期の市橋司優人から練習に誘ってもらって小倉競輪場へお邪魔したんです。普段と違う競輪場での練習は気をつかうのですが、小倉は最初の雰囲気から違ったんです。“ウェルカム”な空気があって、居心地がよかった。同期の司優人だけじゃなく、八谷誠賢さん、大坪功一さん、原田礼さん、松尾信太郎さん。他にも名前を挙げたらキリがないくらいいろんな選手にお世話になりました」
温かい雰囲気の小倉でいろんな選手のアドバイスを受け、心身ともに成長を実感した。そして、念願の初タイトルを獲得する。
「練習が楽しかったし、勉強になりました。特に大坪さんにはいろいろ教えてもらいました。それまではメンタルがすごく弱かったのに、大坪さんのおかげで強くなれた。名古屋でコレクションを優勝(2016年3月)できたのは、小倉での出稽古のおかげだと思っています。平常心でレースに臨めたことが勝因でした」
順調に選手としてのキャリアを積み、毎年50勝以上の勝ち星を挙げ、優勝回数も着実に伸ばしていた山原。だが、選手生活最大のピンチは突然やってきた。
2019年の競輪祭、グランプリトライアル。年末のガールズグランプリ出場を懸けた大事なレースの前検日に、山原は当日欠場する。理由は、卵巣嚢腫茎捻転という卵巣の腫瘍がねじれてしまう病気だった。
緊急入院し、手術を受けた。術後は安静にする期間が必要で、即練習、即復帰とはいかなかった。
「病気がわかったときはショックでした。先が見えない状況で不安もありました。でも手術が終わって落ち着いてからは、焦らず復帰へ向けて少しずつ動き出しました」
2020年春は新型コロナウイルスの影響もあり、競輪開催の中止が相次いでいた。そういった背景もあり、焦らずゆっくりと体の具合と相談をしながら練習を再開した。そして、2019年11月の欠場から6か月。2020年5月小倉で復帰戦を迎える。
結果は3、2、7着。1着こそなかったが、きっちり決勝進出を決めた。復帰2場所目には1着もゲット。復帰4場所目の弥彦では優勝も果たして『山原さくら健在』をアピールした。
同年11月には競輪祭・グランプリトライアルへの2年ぶりに参加し、問題なく復調しているように見えた山原。ただ、心の中では以前のパンチ力がなかなか戻らないことに不安を覚えていたという。
「弱気になってしまい、復帰はできたしたまに勝てればいいかな… って気持ちになってしまった時期もありました。でも9月の防府で同級生の田口梓乃と一緒の開催になったんです」
田口と話をして、モーニングだったその開催が終わった後、そのまま防府で一緒に練習をすることにした。
「その練習がきっかけで意識が変わったんです。『このままじゃダメ。もう一度上位に食い込む。ビッグレースを優勝したい』って思いました」
それ以来、時間が許す限り防府競輪場で練習に励んだ。
「ガールズの選手も大勢いて、練習環境はすごくよかった。男子選手も一緒に練習をしてくれるし、気持ちも高まりました。小倉、防府と自分は本当に周りの人に恵まれています。1人の練習だとなかなか追い込めないタイプなので、一緒に練習をしてくれる人がいることに感謝しかないですね」
どんな時も感謝を忘れない山原は、まわりの選手たちにはもちろん、多くのファンに愛されている。デビュー当時からガールズケイリン関連のイベントに積極的に参加し、ブログを運営していたこともあり、競輪場でもネット上でも人気者だ。
「今の選手はデビューするときからSNSをしていることが多いけど、自分がデビューしたころはまだ少なかった。だからブログは必死にやっていましたね(笑)。コメントにも返信していました。ファンの方との交流は楽しいことやうれしいことが多いけど、たまには厳しい言葉をかけられることもあります。でもブログやSNSを通してファンの人とのつながりを感じることができたから、ここまで頑張れたんです」
ファンの存在は、確実に彼女の原動力になっている。
「SNSをきっかけに競輪場まで応援に来てくれて、自分から車券を買って喜んでくれる人がいると、自分も頑張れる。最近はSNSの更新が遅くなってしまっているけど、ちゃんと見ているので、力になっています」
2022年はキャリアハイの戦歴を残した。95走して68勝、優勝13回。グランプリ出場も果たした。6年ぶりのグランプリでは最終バック2番手の絶好展開。最後の直線で柳原真緒に交わされて準優勝に終わったが、充実の1年を駆け抜けた。
今年も勢いそのままに年頭から好発進。1月から4月は優勝4回、3連対率は100パーセントをキープし、4月の前橋2日目にはガールズケイリン史上3人目(※)の通算500勝を達成した。
※石井寛子…2022年6月7日達成、奥井迪…2023年3月20日達成
「400勝から500勝の間は、いろいろあったのであっという間でした。ガールズは西の選手が3人しかいない開催でしたが、みんなに祝ってもらえて嬉しかったです。車券に貢献してファンの方に儲けてもらえるように、これからも自分らしい走りで頑張ります!」
しかし、2度目のコレクション制覇を目指した5月平塚でアクシデントに見舞われる。レース当日に朝の指定練習で落車し、左の股関節を痛めてしまったのだ。レースでは前受けから突っ張り先行するも、最終ホームで奥井迪に叩かれてしまい7着。その後は2場所続けて欠場中で、状態が気になるところだ。
「レースが終わった後から歩くのもしんどくて、開催を欠場させてもらいました。今は少しずつですが良くなってきています。6月にはガールズケイリン初のGIレース(パールカップ)がある。パールカップには間に合わせたいです」
ガールズケイリンは今年7月で12年目に突入する。今年からはGIレースが3つ新設(※)され、優勝者にはグランプリの出場権が与えられるようになった。
※6月…パールカップ、10月…オールガールズクラシック(24年度から4月開催)、11月…競輪祭女子王座戦
2期生として毎年賞金争いをしてきた山原は、どう思っているのだろうか。
「GIができたことは嬉しいですよ! 賞金ランキングでグランプリ出場ボーダーにいると追加あっせんが続いて、グランプリトライアルのころにはヘロヘロになってしまう。GIを優勝すればグランプリ出場権が決まりますから、一発チャンスができたのはモチベーションになります。勝てるように頑張りたいですね」
昨年12月11日の誕生日で30歳になったが、年々成績は良くなりキャリアは充実一途。5月平塚の落車で一休みをしたが、後半戦の巻き返しに燃えている。
「デビューしたころと比べるとガールズケイリンのレベルは確実に上がっている。自分の体力はこれ以上は上がらないと思うけど、技術や経験を細かく突き詰めていくことで勝負していきたい」
もちろん、タイトル獲得にも貪欲だ。
「ビッグレースは1回だけ勝っているけど、もう一度勝ちたい。去年のグランプリに出られて『これが最後のグランプリかな』って思ったけど、練習を見てくれている人、SNSを通して応援してくれる人のためにも頑張りたいんです。500勝を達成したときにいろんな人から祝福してもらえて嬉しかった。自分はひとりだと頑張れないけど、応援してくれる人がいると頑張れるんです」
EXILEの追っかけだった少女が、人生をかけて飛び込んだガールズケイリン界。今では彼女が大勢のファンに追いかけられる存在に成長した。GI優勝でファンと喜びを共有する日は近いはずだ。
山原さくらの魅力はどんなときでも諦めず自力を出すこと。豪快なまくり一撃で、今年のガールズケイリンを盛り上げていく!
松本直
千葉県出身。2008年日刊プロスポーツ新聞社に入社。競輪専門紙「赤競」の記者となり、主に京王閣開催を担当。2014年からデイリースポーツへ。現在は関東、南関東を主戦場に現場を徹底取材し、選手の魅力とともに競輪の面白さを発信し続けている。