2022/12/06 (火) 18:00 15
今年28年間の現役生活にピリオドを打った村上義弘選手。ここでは「後世に語り継ぎたい村上義弘 伝説のレース」と題して競輪メディアに携わる4名の方に、村上選手が出走した2,236レースの中から1レースを挙げていただきました。1人目は前橋競輪の実況・平山信一アナウンサーです。レース映像と一緒にお楽しみください。
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2003年12月30日 KEIRINグランプリ(京王閣競輪場)
(提供:公益財団法人JKA)
村上義弘と伏見俊昭はもう一度もがき合う。それがグランプリだとしても。
2003年12月30日、京王閣競輪場は数万人の観衆で埋め尽くされていた。いつもはひなたぼっこしながらのんびりレースを見ていた1センターも、この日ばかりはあふれんばかりの人たちがいた。私は、折り重なる頭と頭の隙間を探しながら、そして背伸びしながら、ただ確信を持ってレースを見ていた。そう、もがき合うと。
2人のグランプリでのもがき合いには前哨戦があった。およそ2か月近く前の11月4日、岸和田競輪開設54周年記念決勝だ。私はその日、花月園競輪場(現:鶴見花月園公園)の場外発売にいた。
後ろから聞きなじんだ声がした。特観常連のゲンさん(仮名)だ。
その年の村上は、6月に地元向日町のGIIふるさとダービーを制し、そして9月の一宮オールスターで2回目のGI制覇に輝いている。グレードレース参戦が続く中、岸和田の出走表にはバック本数30本、逃げの決まり手21回の数字が踊る。もう見ることはないだろう、まさに「先行日本一」だった。
「後ろを連れて必ず駆けるし、捲らせないからね。村上は」
ゲンさんは村上の虜になったかのように、いつもに増して饒舌だった。村上は逃げ切り3連勝で勝ち上がっていた。1年前の2002年11月に全日本選抜でGI初制覇の舞台になった岸和田。後ろに続くのは大阪3車。逃げ切り4連勝は当然とばかりに1番人気に支持されていた。
号砲が鳴る。先頭誘導員の後ろには伏見がいた…当時の伏見は、銀メダルを獲得した2004年のアテネ五輪代表入りを目指している頃だった。脚をためて後方から一気に捲っていくレースが増えていた時期でもある。
村上はまず6番手からのレース。残り2周手前から上昇を開始する。村上の先行を伏見が捲りにいくという予想どおりのレースになるかと思われた、が…伏見は村上を出させなかった。突っ張ったのだ。伏見の後ろに車間が空き、村上は伏見の番手におさまったが、すかさず番手から飛び出していった。内に伏見、外に村上。もがき合い、結局、岸和田の決勝戦、村上は4着に敗れる。
そしてグランプリ。村上は3番手からのレース。打鐘前で伏見が先行態勢に。すかさず反応する村上、突っ張る伏見。残り1周からの壮絶なもがき合い…。
車券は外れた。しかし先行選手のプライドに熱くなった2003年の冬だった。
【レース結果】
1着 ⑥山田裕仁
2着 ③吉岡稔真
3着 ⑨太田真一
村上義弘は9着、伏見俊昭は7着
平山信一(ひらやま・しんいち)
1973年3月6日千葉県出身。2008年5月から、いわき平競輪で実況・選手インタビュー・司会を務め、2012年2月から前橋競輪で実況・MC・選手インタビューを務めている。趣味は公営競技観戦、スポーツ観戦、鉄道旅行。
netkeirin特派員ほか
netkeirin特派員による本格的な読み物。競輪に関わる人や出来事を取材し、競輪の世界にまつわるドラマをお届けします