2022/12/11 (日) 20:00 30
勝負に対する執念やストイックに自分を追い込む姿は、周囲に畏怖の念を抱かせ、それは「村上義弘」イメージそのものとなる。実際のところ、村上義弘とはどんな人間だったのだろうか? デビュー時から村上を知る報知新聞・村山茂生記者が素顔を振り返った。
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私は入社15年目の07年から競輪担当になった。4つ年下の義弘には、その年から8年間「スポーツ報知」のロゴをユニホームに付けてもらった。当社では小嶋敬二とともに、契約第1号。毎年京都で「契約の儀」と称した会社主催の食事会を開いていた。夫人も招き、弟の博幸も「報知軍団」入りすると、夫婦2組での会が恒例になった。そこで聞く義弘の話がまた楽しい。時に真面目な競輪論を語りつつ、幼い頃のエピソード、弟をいじって笑わせる…。時に私もいじられたりしたが、それで距離が縮まっていく感じがした。
義弘とのファーストコンタクトは、競輪担当になるはるか前。入社1年目の冬(1994年)に競輪を覚えてすぐにのめり込んだ。ある時の西宮に、先行で売り出し中の新人選手がいると聞いて、競輪担当の先輩に付いて記者室に入った。当時の西宮では、準決勝が終わると、勝ち上がった3人をすぐに呼び共同会見スタイルで取材していたが、そこに噂の新鋭が現れた。義弘だ。当時はやりのヘアスタイルにTシャツ、下は裾を絞ったダボダボのトレーニングパンツ。おまけに首元にはゴールドのネックレスときた。
ズボンのポケットに手を突っ込んで「ちわーっす」。現代風の言葉で言えば、チャラさ全開。その時、私が思ったのは「こんなヤツ、絶対強くならんわ」。だが、先行一本でのし上がり、輪史に名前を残したのはご存じの通り。前述の「契約の儀」でその話をすると、「そんな時期もありましたねえ」と義弘は苦笑い。「そのあと、松本(整)さんに気合入れられて、心を入れ替えました」と話してくれた。ちなみにゴールドのネックレスは博幸にあげたそうで、「当時中学生の僕がそんなんもらってもねえ」(博幸)とオチもついた。
かくして競輪担当になると、同じ近畿ということで取材現場で会う機会が多くなった。ある時、義弘が検車場で、飲み過ぎで突き出た私の腹を触ってきた。その時の成績がよかったのか、私の腹を触るのがいつしかルーチンのようになった。それをまねて京都の後輩、博幸や稲垣裕之も腹を触ってくる。実際、彼らもGIで活躍し、近畿王国を築いたのだが「オレの腹のおかげ」と一部には喧伝している。効能が売り切れてからは見向きもされず、今では川村晃司が思い出してたまにタッチしてくれるくらいだが。
ある年の向日町記念終了後に義弘から号令がかかった。「村山さん、記者を集めてください」。京都の選手が集まって行う打ち上げの席に、記者を招いてくれたのだ。これも楽しい会で、何度か続いた。ただ、そこで消費される酒の量たるや…。私は毎回、確実に二日酔いになっていたが、義弘は翌日しっかり練習していたと聞く。
「グランプリ」を控えたある年の12月初旬、向日町のF2開催。レース終了後にバンク練習に来た義弘からまた号令が。「明日、記者を集めてください」。忘年会なのか壮行会なのか、とにかく集合。大一番を前に息抜きがしたかったのだろう。その日休みの記者まで駆けつけた。そこで義弘が「今日は普段の無愛想のおわびに…」と切り出す。「村上義弘」を保つために、意識的に気を張り詰めていたのは引退会見でも語っていた。長く接していれば、それは言わずもがなのこと。ビビっている若手記者もいたが、こういう機会で明るい義弘を知る。ベテラン記者は「義弘はもう何してもええねん。あれだけ他人のために頑張ったんやから、何してもええねん」と、こぞって義弘ファンだった。
選手からはこんな話も聞いた。競輪場内の控え室はだいたい大広間で、地区ごとにまとまって過ごす。どこの場でも洗濯物が干してあったり、くつろぐためのグッズなども散らかっているもの。「義弘さんは自分のレース前に、服をたたんでまとめていくんです」。レースで万が一のことがあると、選手仲間で服や荷物をまとめるのだが、その手間を考えてのことという。後輩たちには、これが覚悟の表れに映った。
ケガを押して勝った12年の京王閣「グランプリ」は語り草だが、選手生活の晩年は病気やケガにも苦しんだ。20年2月、かねて患っていた虫垂炎がついに悪化。手術を避けて薬で散らしていたのが、限界を超えた。自宅から救急搬送されたそうだが、医師には「開腹はやめてください。傷が小さくて済む腹腔鏡手術でお願いします」と、ここでも競輪への影響を最優先した。
かくして2か月足らずで実戦に復帰できたのだが、壮絶な裏話がある。手術が終わればもう十分と、入院も早々に切り上げ、翌日家に帰ったそうだが、そこからバンクに直行し「とりあえず乗ってみた」らしい。12年「グランプリ」は練習中の落車で肋骨を骨折。その時も翌日「とりあえず乗ってみて」どれだけ動けるかを確認したそうだ。腹腔鏡手術とはいえ、何針かは縫うもの。自転車の感触を確かめて帰宅すると、出迎えた夫人が絶叫。傷口からの出血で、シャツが真っ赤だったとか…。
自分の人生に自信とプライドがあった。「最近、若手が相談に来る。これだけやっても結果が出ないんですって。でも、その悩みの意味が分からない。だって、オレのレベルまでやっていないでしょう」。勝負のポリシーは「卑怯なことをしてまで勝ちたくない」。まっすぐで負けず嫌いの性格も、義弘の選手生活を支えてきたのだと思う。お互い酒が入った席で義弘が絡んできた。「村山さん、競輪好きでしょう。でもね、ぼくの方がもっと競輪好きですからね」。至極ごもっとも。あなた以上に競輪を愛している人はいません。(文中敬称略)
村山茂生(むらやま・しげお)
1970年新潟県生まれ。93年、報知新聞大阪本社入社。内勤部署、中央競馬担当を経て2007年から競輪担当に。競輪歴はファン時代も含めて28年。無口で人見知りという、記者向きでない性格を自認しつつ「失敗したら酒を飲んで忘れる」という特技で業界にしがみつく。
netkeirin特派員ほか
netkeirin特派員による本格的な読み物。競輪に関わる人や出来事を取材し、競輪の世界にまつわるドラマをお届けします