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村上義弘 全ては競輪から教わった

【村上義弘コラム】武豊さんからの言葉に救われた平安賞

2021/09/16 (木) 18:00 32

9月は村上義弘選手を育んだ「近畿」をテーマに2回に分けて連載コラムをお届けします。まずは地元、京都・向日町競輪で開催された記念「平安賞」について。決勝進出を逃し、最終日は特選へ出走しますが、バンクへ向かう敢闘門である不安に襲われていました。

思入れの深い地元の記念競輪「平安賞」で感じたことを回顧(撮影:島尻譲)

共に喜び、悔しさを分かち合った近畿の選手から刺激をもらった

 中学時代から憧れた競輪の世界に足を踏み入れてから、27年以上の月日が過ぎた。その間、近畿地区の京都に籍を置き、同じ近畿の先輩や後輩たちと、常に勝利を目指し、向上心を持ちながら、切磋琢磨してきた。

 ともに、喜びを分かち合ったこともあれば、悔しさを噛みしめたこともある。キャリアを積むにつれて、“近畿の総大将”などと呼ばれるようにもなったが、そうした日々がなければ、今の自分はなかっただろう。

 そこで、今回から2回にわたって、地元・近畿をテーマに、いろいろと書いてみようと思う。

 9月2日から5日までの4日間、京都の向日町競輪場で平安賞(GIII)が開催された。平安賞は、近畿、しかも我がホームバンクで年に1度行われる記念競輪。KEIRINグランプリやGIとはまた違った意味で、思い入れが強く、自分を突き動かす大きなエネルギーにもなっているレースだ。実際、2000年にデビュー7年目にして初めて勝ったGIIIも平安賞だし、これまで4度制している。

 特に今年は、8月のオールスター競輪で、古性優作(100期・大阪)がGI初制覇を果たすとともに、東京五輪での戦いが終わったばかりの脇本雄太(94期・福井)も快走し、同じ近畿の自分としては、大いに刺激を受けたうえで臨んだ平安賞だった。

 五輪に専念していた脇本が帰ってきて、同じレースに出走したときのために、脇本を追走するだけではなく、最後に抜くための練習もこなしてきた。だから、「これだけやってきたから大丈夫だろう」と、自分自身に期待もしていた。

 しかし、脇本が4日間、先行して完全優勝を果たす中、1日目は近畿ラインの3番手、2日目と3日目の準決勝は2番手として付いていったものの、5着、3着、7着と、良い結果を残すことができなかった。

平安賞3日目の準決勝。脇本雄太(黄)を追うも差は詰まらなかった(白が村上義弘選手)(撮影:島尻譲)

 ホームバンクの選手のプライドとして、決勝進出が大前提だっただけに、悔しさと不甲斐なさがない交ぜとなり、大きなショックを受けたのは言うまでもない。何しろ、準決勝の後、競輪の記者の方たちが近づけないくらい、検車場で長い時間、一人で立ち尽くしていたのだから…。

武豊さんから掛けられた言葉

 翌日の最終日を迎えてもなお、ショックを引きずっていた。無意識のうちに自信を失い、レースの前まで、不安でしかたなかった。おそらくそのままの気持ちでレースに臨んでいたら、この日もまた、悪い結果に終わっていたことだろう。

 しかし、敢闘門を出るときに、ふと頭の中に、親交のある騎手の武豊さんの言葉が浮かんできたのだ。

「お前は村上義弘やぞ!」

 かつて、自分が競輪選手として苦しい時期を過ごし、思い悩んでいたとき、豊さんからそんなふうに言われたことがある。競技は違えど、30年以上にわたって、競馬という勝負の世界の第一線で活躍し続けている豊さんの言動には、常に説得力があり、多くのことを学ばせてもらっている。

武豊騎手は52歳になってもトップジョッキーとして存在感を見せ続けている(c)netkeiba.com

 そのときの言葉にも、「『先行日本一』や『魂の走り』と呼んでくれるファンの期待に応えるために走り続け、日本一の座を何度も手に入れてきた村上義弘が、そんなに弱気になって、どうするんだ!」という叱咤激励の意味が込められていたのは間違いない。

 久しぶりにそれを思い出した瞬間、まさに魂にも響いたような感覚が生まれ、「俺は村上義弘や! 現時点でベストのレースをしよう!」と、気持ちを奮い立たせることにつながった。

 その結果、S級特選のレースで、マークした近畿の中西大(107期・和歌山)をゴール前で差し、1着になることができた。

 周りからすると、“近畿の総大将”として、最後に意地を見せたと思われたかもしれない。もちろん車券を買って応援してくれたファンに勝利を届けられたことはよかったのだが、自転車から降りると、再び、前日に味わったショックが蘇ってきた。思い出せば思い出すほど、悔しさや不甲斐なさが増し、その晩はほとんど眠れなかった。

脇本の進化を目のあたりにして今後の自分はどうすべきか

 ただ、その原因は、平安賞の決勝進出を逃したことだけではなかった。それ以上に、脇本の進化を体感し、自分自身の弱さを思い知らされたことが大きかった。

 ここ数年、脇本はナショナルチームに入り、空気抵抗を軽減するフォームへの改造に取り組んできた。競輪選手としての感覚ではなく、科学的根拠に基づいた実験も繰り返してきたという。

 当然、五輪から帰ってきたときには、以前よりも進化しているだろうことは分かっていたし、それに合わせるための練習を積み重ねてきたつもりだった。しかし、その進化の速度が、自分が想像していたより、あまりにも速すぎたのである。

 脇本を2番手でマークした平安賞の2日目と3日目では、脇本が動き出し、「よし、付いていくぞ」と思った瞬間、目の前からいなくなっているような感覚を何度も味わうこととなった。

「脇本に対抗するには、今の自分ではどうしようもない。今までやってきたことは、もはや通用しないのか……」と、落胆せざるを得なかった。

 ただ、それが逆に、いつしか自分自身に大きな刺激をもたらし、こんなふうに、新たな希望を見出すことになるのだから、不思議なものだ。

「だったら、デビューから27年間培ってきたものを、すべて捨ててしまえばいいじゃないか。もっと進化し、もっと強くなるために、また一からやり直していけば、そこに、まだ自分の伸びしろがあるかもしれないんだから」

 47歳という年齢を考えると、成功するかどうかは分からない。肉体の老化も避けられないだけに、失敗する可能性もある。

 それでも、どのみち、先がないのならば、やらないよりもやった方がいい。誰にも相談せず、練習方法も分からず、とにかく競輪選手を目指して、一人で自転車に乗り続けた中学時代と同じように、自分は、道なき道を行く方が合っている。

 そのうえで、練習や自転車のセッティングなど、何に手を付けていけばいいか、まだまだ暗中模索とはいえ、考えられることはすべて採り入れ、試していくつもりだ。平安賞では悔しい思いをしたが、今はもう、前しか向いていない。競輪選手として、1日1ミリでも前に進んでいきたいと思っている。

(取材・構成:渡邉和彦)

年齢も含め現状を受け入れながら最善を尽くす(撮影:島尻譲)

※次回は9月30日(木)公開予定です。

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村上義弘 全ては競輪から教わった

村上義弘

Yoshihiro Murakami

1974年京都府生まれ、花園高出身。日本競輪学校73期卒。代名詞は「先行日本一」「魂の走り」。KEIRINグランプリ2勝、日本選手権競輪4勝を含む特別競輪13勝。実績だけでなく競輪に向き合う姿勢や常に全力を尽くすレーススタイルは、選手・ファンから絶大の信頼を得ている。ファンの存在を大切にし続ける競輪界のレジェンド。

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