アプリ限定 2025/02/24 (月) 16:30 7
日々熱き戦いを繰り広げているガールズケイリンの選手たち。その素顔と魅力に松本直記者が深く鋭く迫る『すっぴんガールズに恋しました!』。今回はGIにも出場する若手有望株・又多風緑選手(22歳・石川=122期)。高校時代に全国大会で優勝し、養成所を在所1位で卒業したエリートだが、不振や落車で苦しむことも。彼女はそのたびに自分を追い込み、自身の“スタイル確立”へ試行錯誤してきた。
石川県金沢市出身の又多風緑。1歳上の兄、1歳下の妹と年子の3人きょうだいで、3人とも小さいころから活発だったそうだ。
先に陸上競技を始めた兄の姿にあこがれ、又多と妹も後を追った。
「兄の影響で、3人とも陸上を頑張っていました。ある程度の成績を残すことはできましたが、成長して行く中で体型が変わっていったんです」
兄と妹は脚が細くて長い典型的な陸上競技の選手体型に成長していったが、又多だけ成長過程で体格が違ってきたのだという。
「自分は太ももが筋肉質で、脚が短くなっていきました。そうしたら父がガールズケイリンを教えてくれました。私はスタバが大好きで、父は『競輪選手になったらスタバが毎日飲めるようになるよ』って言うんです(笑)。それまでガールズケイリンは知らなかったけど、その言葉にもつられて興味が湧きました」
そこからはガールズケイリン選手という目標を持ちながら過ごすことになる。中学、高校は野球の松井秀喜や、サッカーの本田圭佑を輩出したスポーツの名門・星稜高校に進学。このときも陸上部に在籍していた。
「東京ヤクルトスワローズの内山壮真は中高の同級生です。グループで交換日記もしていましたよ。星稜高校には自転車競技部がなかったので、高校生になってすぐ父と内灘の自転車競技場を見に行きました。アクティブな父はいきなり関係者に『どうやったら競輪選手になれますか』って声をかけて、内灘高校の自転車競技部の先生を紹介してもらいました」
そして又多は星稜高校陸上部の活動に加え、内灘高校自転車競技部の朝練習にも参加することになった。運動部の掛け持ち生活は過酷だった。
「朝4時30分に起きて、自宅から競技場まで30分かけて自転車で移動して練習をする。練習が終わったらそのまま自転車で高校に行って、陸上競技の練習です。そんな生活を3年間、休まず続けました」
高1の夏には、伊豆の競輪学校(当時)で行われた『ガールズサマーキャンプ』に参加。そこでは又多より年上の尾方真生、西脇美唯奈や、後に同期となる藤原春陽、畠山ひすいなどの同学年の選手と出会った。同じ目標を持つ仲間と練習することで、さらにガールズケイリンへの熱は高まっていった。
「ガールズサマーキャンプに参加して、競輪選手になりたい気持ちがふくらみました。ここ(競輪学校)で1年過ごせば競輪選手になれるのか、って。夢と希望でいっぱいでした」
ガールズケイリンへの思いが高まる一方で、陸上競技への情熱は冷めていった。又多は陸上競技のスポーツコースで高校に入ったため自転車競技大会への出場ができず、それが悩みの種だった。
「日に日にガールズケイリンへの思いがふくらんで自転車競技の大会に出られないもどかしさが募り、高校を退学することも考えました。でも2年生のとき、高校が自転車競技の大会に出場すること認めてくれた。だから高校生の間は、陸上競技も自転車競技も両方頑張ろうと決めました」
高2で念願の自転車競技の大会に出場することができたが、そこで人生初の挫折を味わうこととなった。
「北信越大会の500メートルタイムトライアルで2位に入って、インターハイに出られることになったんです。兄も陸上競技でインターハイ出場を決めていたので、両親を沖縄に連れていくことができました。でもインターハイは入賞もできず、上位とのタイム差も大きくて…。悔しくて泣きました。高3のインターハイは地元石川で開催が決まっていたので、来年はいい結果を出したいって改めて気持ちが入りました」
初めての全国大会で悔しさを味わったことも原動力となり、秋の大会ではこの種目のタイムを2秒以上も縮めた。翌年地元で開かれるインターハイと、日本競輪選手養成所の入所試験という大きな目標に向けてトレーニングを積んだ。
「この頃の私は上半身が弱かったんです。父のアドバイスでウエイトトレーニングを始めて上半身を鍛えました。今でも毎日続けているんですけどね。それでタイムが2秒も縮まった。これで高校3年生のときの地元インターハイは優勝が狙えると思いました」
しかし高2の冬、新型コロナウイルスが猛威をふるい、又多の熱い思いの邪魔をした。
「タイムも上がってきていい流れになってきたのに、コロナの流行で状況がいろいろ変わってしまいました」
時代の流れは自粛ムードとなり、高校生の競技大会も軒並み中止に。春の選抜大会、夏のインターハイの中止が決まり、内灘競技場での練習もできなくなった。目標を失いかけた又多の気持ちをつなぎ止めたのは、『競輪選手になる』という強い信念だった。
「春の選抜が中止になったと学校で聞いて、トイレで大泣きしました。2年生の夏に感じた上位との差を埋めるために頑張ってきて、ようやくタイムも良くなってきていたのに…。高3の春は緊急事態宣言が出て学校も休みになった。内灘競技場も使えなくなってしまったけど、お世話になっていた内灘高校の先生が毎日街道練習をしてくれた。そのおかげで気持ちを保つことができましたね。今思い返すと、この時期が一番練習していた期間だったかもしれないです。そこで基礎練習をしっかりしたことが今、生きていると思います」
緊急事態宣言が終わった後も自粛ムードは続いた。高校時代の集大成とするはずだった地元石川でのインターハイも、中止が決まった。
「大会はなくなってしまったけど、陸上競技と自転車競技どちらも最後まで一生懸命に頑張ろうと思っていました。最後の陸上競技の大会は全力を出し切りました。小学4年生から9年間続けてきた陸上だったので、競技が終わったあとは涙が止まらなかった。陸上競技があったから自転車や競輪選手にもつながっていると思うので。陸上の部活が終わってからは内灘の夕方練習にも行けるようになったので、自転車一本に集中しました」
不運に見舞われても腐ることなく、競輪選手になる夢を追い続けた又多に朗報が届いた。インターハイの代替大会が9月に向日町競輪場で開催されることが決まったのだ。
「うれしかったですね。良い結果を出したいって思いで大会に向けて練習を頑張りました」
高校3年間の集大成と位置づけた「2020 JCSPAジュニアサイクルスポーツ大会 全国大会」で女子500メートルタイムトライアルにエントリーした又多は、37秒519の自己ベストを更新して優勝。練習の成果を全て出し切った結果に涙をこらえることができなかった。
「それまで一度も入賞したことなかったのに、最後の大会で初入賞が1位。本当にうれしかったです」
向日町競輪場での開催ということで、表彰式のプレゼンターは当時現役だった村上義弘氏が務めた。
「村上さんに優勝トロフィーをもらい、一緒に写真を撮ってもらいました。『私、競輪選手になることを目指しています』って伝えたら『選手になって会いましょう』と言ってもらえて感動しました。村上さんはそのあと引退されたので現役のうちに会うことはできなかったのですが、向日町の配信番組で画面越しにお話しすることができました。いつか直接取材してもらえるようにと思っています」
高校時代の目標をひとつ達成したあとは、もうひとつの目標である『養成所合格』に集中した。
「養成所の試験は自信がありました。1次試験のタイムは1番時計を出すつもりで臨んだし、2次試験の学科やSPIも大丈夫だろうと。人と話すことが好きなので、面接もまったく不安はなかったです」
準備万端で挑んだ122期の試験は見事に合格。合格発表には地元テレビ局の密着取材も入り注目された。合格から入所までの数か月間は、社会勉強のためアルバイトをした。
「養成所の合格が決まったあとは引っ越し屋さんのアルバイトをしました。肉体労働なので本当にキツかったですね。重いものをいっぱい運んだし、荷物を体にぶつけてアザができたり…。でもアルバイトをしたことでお金を稼ぐことの大変さを学ばせてもらいました。いい人生経験になりました」
そして養成所入所にあたり、岩本和也(78期)に弟子入りをした。
「内灘の競技場でお話しさせてもらう機会があって。岩本さんの娘さんも陸上競技をやっていて、そのつながりもあったので私の方から師匠になってもらいたいとお願いしました。のびのびと練習させてくれるとても優しい師匠です」
2021年5月に日本競輪選手養成所に入所。養成所生活は楽しかったと振り返る。
「122期は仲が良かったし、楽しかったですよ。目標はゴールデンキャップを取ることと在所1位を取ることだった。記録会はいつも白帽で、あと一歩のところでゴールデンキャップを取れなくて悔しかったですね」
ゴールデンキャップには届かなかったものの、1年間同期のトップを走り続け在所1位の成績をおさめた。しかし養成所生活最後に思わぬ落とし穴があった。
「養成所生活の最後にコロナになってしまい、体力が落ちてしまいました」
競走訓練で37勝、在所1位の看板を背負って卒業記念レースに臨んだが、体調を崩した影響が大きく、予選2走は未勝利、決勝も畠山ひすいに終始マークしての準優勝。又多らしさを発揮することができなかった。
「競走訓練では積極的に動いて、自力を出して、在所1位を取れたのに、卒業記念レースは何もできず悔しくて泣きました。(優勝した畠山)ひすいとは同学年で、サマーキャンプのころから知っていて仲が良いけど、負けたくない気持ちが一番強い相手かもしれません」
ともに自力にこだわる又多と畠山は、養成所でずっと競い合ってきた。卒業記念レースはずっと意識してきた畠山が持ち味をしっかり出し、逃げ切り優勝を挙げたことで悔しさがあふれた。
2022年5月に松山のルーキーシリーズでデビューしてからも、一度崩れてしまったリズムを取り戻せずにいた。
ルーキーシリーズは松山から四日市、大宮と3場所9走を走ったが、1着は1回のみ。3場所とも決勝進出したが優勝することはできなかった。
「コロナになって自信がなくなりました。自転車競技を始めてから初のスランプだったかもしれません。どう走っていいか分からなくて、体も心も苦しかった」
在所1位としては納得できない状態のまま、地元地区の富山で本格デビュー戦を迎えた。予選を初日4着、2日目は突っ張り先行し2着で勝ち上がった。そして決勝は3着。新人としては上々のスタートダッシュを切ったように見えたが、本人に手応えはなかった。
「ルーキーシリーズも本格デビュー戦も変な走りになっていた。養成所のときは自力を出すことにこだわって走っていたのに、デビューしてからは自力も出せず、情けなかったですね。在所1位の自分が弱いと、122期全体が期待外れみたいな空気になっていくのも感じていました」
在所1位の重圧、思い通りに走れない歯がゆさ。プロの高い壁にぶつかって苦しんだ1年目だが、一つだけ会心のレースがあった。10月に同期7人で競ったルーキーシリーズプラス(京王閣)は豪快なまくり一撃で1着をつかみとったのだ。
「デビューの年で覚えているレースは本デビュー戦の富山の2走目と、この京王閣ルーキーシリーズプラスだけ。どっちもしっかり自力を出したレースだった。京王閣はみんなが前々に踏むと思っていたので、読み通りになって気持ちいい一発が決まりました」
同期同士のレースでは結果を出したが、良くない流れは変わらなかった。2023年前半も手応えがないモヤモヤしたレースが続き、4月の小倉では開催3日間で一度も車券に貢献できなかった。
「成績が悪くて落ち込みました。ミッドナイトが苦手とはいえ、何もできず終わってしまい父にも怒られました。このままじゃダメだと思って選手を目指したときにやっていた朝練習を再開して、基礎的な練習をコツコツやり始めた。この朝練は今でも続けています」
朝練習の効果はてきめんで、身体的にも精神的もリズムが回復した。5月の地元富山で3、3着で決勝進出し、決勝は2着とようやく浮上のきっかけをつかんだ。
「富山は誕生日(5月3日)開催だったし、優勝したかった。決勝も届いたかと思ったんですけどね。ファンの人が『おめでとう』って声をかけてくれたのでガッツポーズをしたけど1/4車輪届いていなくて、人生で1番恥ずかしい瞬間でした(笑)。でも朝練習を始めて最初の開催で久しぶりに良い結果を残せて少し自信になりました」
手応えを掴みつつあった又多は、7月の大垣参加前にはSNSでファンに向けて「優勝してきます」と宣言。有言実行の走りで初優勝をつかみとった。決勝は同期畠山ひすいのまくりを追いかけ、差しての1着だった。
「自分が大垣に行く前に畠山ひすいが優勝(23年7月前橋)していた。デビュー2場所目の四日市で1周全開でもがき合った仲ですから、意識はしました。やっぱり在所中からデビューしてからも1番のライバルですね。おかげで気合が入りました。だから大垣の優勝はすごくうれしかった」
初優勝で勢いに乗ると1着が増えていった。10月の豊橋は3連勝の完全優勝。決勝は林真奈美のまくりを差して1着とグングン力を付けていった。
「豊橋は松戸のオールガールズクラシックの裏開催だったし、完全優勝を狙っていました。開催前にベンツを買って、父にも『完全優勝してくるから』って宣言して」
2023年は又多風緑のポテンシャルが一気に開花。優勝2回と実績も残して、翌年4月のGI・オールガールズクラシック(久留米)の出場権もゲットした。
翌2024年は浮き沈みの多い一年になった。
3月の名古屋で尾方真生に先着し、自身3回目の優勝をゲット。4月のフレッシュクイーン(高知)では狭いコースを臆することなく突っ込んで準優勝。優勝したのは最大のライバル・畠山ひすいで悔しさもあったが、レース後はノーサイドで勝者をたたえた。
初のGI参戦となったオールガールズクラシックは又多にとって衝撃的な舞台だったと振り返る。
「オールガールズクラシックの出場が決まってからはGIでどう走るかを常に考えていました。でも実際の予選では何もできなかった。レースのスピードが速すぎて、付いて行けなかった。仕掛けるタイミングさえなくて、上位選手はすごいなと…」
初日予選を7着で敗退すると、2日目の選抜戦も6着と苦しんだ。
「勝ち上がることはできなかったけど、負け戦では今の自分に何ができるかよく考えてしっかり仕掛けるレースをしました」
最終日は3着と車券に絡んだ。トップクラスの選手の強さを体感し、「決勝戦も生で見なくては」と自身のレースが終わった後も競輪場に残った。
「現場に残って決勝を観ました。児玉碧衣さんが優勝する瞬間を見て鳥肌が立った。それまでは普通開催で勝つことを目標にしていたけど、GIに出たことで大きいレースで勝ちたいと思うようになりました」
GI出場を経て選手としてのモチベーションが上がった又多。しかしその後は順風満帆とはいかず、5月の岸和田で落車失格してしまう。これは選手になってから初めての落車だった。
「左半身が全体的に痛くて、出血もなかなか止まらなかった。五輪仕様の高価なフレームが壊れてしまったのもショックでした」
落車は肉体的にも精神的にもダメージを与えた。半月ほどで復帰したものの、本来のアグレッシブな走りは鳴りを潜め、レースでの存在感を失ってしまった。
8月の豊橋では予選2走とも7着という屈辱を味わった。気分転換に外出しても、悩みは頭から離れずなかなか立ち直ることはできなかった。
10月、又多は違反点の累積であっせんが止まっていた。レースのない期間は「質より量」の練習で自分を追い込んだ。苦しい練習を続ける中で、心境に変化が生まれた。
「岸和田の落車以降は自分を見つめ直す時間になりました。レースがなかった1か月、ひたすら練習をした。せっかくこれだけ練習をしたのだからと、復帰以降は結果を恐れず自分から仕掛けることを決めたんです」
同時に練習環境にも変化を求めた。同期で仲のいい渡部遥を頼って松山へ冬季移動して汗を流している。
「私の弱点は地脚。遥は私に足りない地脚を持っているので、一緒に練習をすることはプラスしかない。一緒に練習をすることで、私には地脚のトレーニングになるので、本当に助かっています」
練習の成果、気持ちの変化は段々とレースに現れてきた。12月の川崎では日野未来を相手にロングスパートを決めて1着。苦しい時期を少し乗り越えられたホッとした気持ちがあふれてしまい、インタビューでは感情を抑えきれず涙がこぼれた。
「今はレースで動いて、何かしら得るものがある。私は自分で仕掛けて勝てる選手になりたい。何もしないで7着より、何かしての7着のほうが意味はあると思って頑張っています。今やっている練習の成果がすぐに出るとは思っていないけど、地道にやっていくしかないですね」
又多風緑といえばSNSやYouTubeでの発信を熱心に行っていることでも知られている。ファンとの距離の近さも後押しし、2024年の女子オールスターのファン投票では17位に食い込んだ。
「動画は兄が編集してくれるので、私は出る側で頑張っています。今年からオールスターはGIに昇格するし、ファン投票で出られる枠も広がった。GI出場のチャンスはあると思っています」
発信に力を入れている理由は、ガールズケイリンの裾野を広げたい思いがあるからだ。
「ガールズケイリン選手に興味を持って、挑戦してみようって思う人が増えたらいいなと思って。私の動画が競輪選手になるきっかけになったという後輩が、いつか現れたら嬉しいですね」
デビューしてもうすぐ3年。まだキャリアは浅いが、ひとつひとつの経験から学び、考えて「又多風緑のスタイル」を編み出してきた。
「昔の自分では『賞金女王になる』って恥ずかしくて言えなかったけど、今なら言える。まずは自力をどんどん出して脚力を付けていって、GIに出られる選手になること。それからGIを優勝すること。最終的な目標は賞金女王になりたいです。それから佐藤水菜さんに勝ちたいです!」
今は強気に自力で攻めるスタイルを確立しつつある。自信をなくし、低迷していた又多風緑の姿はもうない。
ちょっぴり不器用でも、まっすぐ自分を貫くところが又多風緑の魅力であり、武器だろう。失敗と挑戦を繰り返しながら強くなっていく又多がトップの舞台で輝く日は、そう遠くはない。
松本直
千葉県出身。2008年日刊プロスポーツ新聞社に入社。競輪専門紙「赤競」の記者となり、主に京王閣開催を担当。2014年からデイリースポーツへ。現在は関東、南関東を主戦場に現場を徹底取材し、選手の魅力とともに競輪の面白さを発信し続けている。