アプリ限定 2024/10/03 (木) 18:00 41
2024年7月、熊本地震で被災し本場開催を中止していた熊本競輪場が8年ぶりに再開した。その陰で、熊本をホームバンクとする63期の礒田義則さんは、6月末をもって35年の現役生活を終えた。半年に1度、成績下位30名が強制引退となる“代謝制度”による引退で、ホームバンクをもう一度走ることは叶わなかった。7月20日、再開初日の熊本競輪場を訪れた礒田さんの口から語られたのは、“競輪選手としての矜持”だった。(取材・構成 netkeirin編集部)
35年の現役生活、55歳まで走り続けた礒田さん。デビューは1989年で、車券売上が2兆円に迫る競輪界が非常に盛り上がっていた時代だった。
「もともと親父が競輪選手になりたかったらしいんです。でも家族に反対されて、夢を諦めた。それで、子どもに競輪選手になってほしいという願いがありました。私が選手になって、親父は喜んでくれました。母はケガを心配していましたが、見守ってくれていました」
20歳のとき、豊橋競輪場で行われた「新人リーグ」でデビュー。当時は新人リーグの結果で本格デビュー時の級班分けがされていた。しかし、デビュー2戦目で礒田さんは落車棄権してしまう。
「ショックでした。怖かったですよ。でも落車の恐怖に勝つためには、痛くても次の日も走ったほうがいいと」
陸上競技からの転向で適性試験で競輪学校に入った礒田さんはレース経験の少なさに焦りもあったことから、落車の翌日も出場。根性で走り切り、デビュー節を終えた。
デビュー年の9月に挙げたA級初勝利とその10年後に挙げたA級初優勝、そして2002年のS級初勝利の地は、奇しくも同じ防府競輪場だった。
「私はS級の経験は少ないですが、防府は縁がありましたね。一度だけ出られた特別競輪『ふるさとダービー』も防府競輪場で、3日目に1着が取れました。忘れられないバンクです」
現役生活でもっとも思い出に残っているのは、2000年に挙げた地元熊本でのA級優勝だ。
「熊本は最後の直線がとても長い“滑走路バンク”。地元3割増しとはよく言いますが、若いころから先行しても先行しても食われてしまって。どんなに頑張っても1着は少なかったんです。だけどこの一度だけ優勝させてもらって… 一生忘れられません」
熊本競輪場ならではの熱い雰囲気も大好きだった。
「本場ならではの熱気がね。いろんな地方を走ったけど、熊本と近畿はとくにお客さんが熱かったんじゃないかな。厳しい言葉もあったけど、次走るときにはまた応援してくれる。お客さんがいてくれるからこそ私たちも走れると、ありがたく感じていました」
その一方で、車券売上は1991年の1.9兆円をピークに下がり始め、2010年には6300億円まで落ち込んでしまう。
「デビューしたころはどんどん売上が上がって、年金制度や退職金制度がつくられたり、賞金も上がっていい時代でした。でも下がってからは収入面でも苦しみました」
当時、競輪選手は4,500人ほどいた。だが売り上げの低迷で廃止となる競輪場が増え、出走数が減ってしまった。賞金で生活している選手にとって、あまりに影響が大きいことだ。
「トップ選手はそれなりに稼げていたので平均年収は悪くなかったと思うけど、下のクラスはシビアでした。1か月2開催を走るのが基本でしたが、正規あっせんが1本しかなく、あとは追加待ちという時代もあったんです」
2016年4月、熊本を悲劇が襲う。4月14日と16日に最大震度7の地震、さらに5弱〜6強の地震が立て続けに起こった。
「あの経験だけは… 絶対に忘れない、消し去りたい部分もありますが、忘れてはいけないと思うんです」
そう話すと礒田さんはスマートフォンに保存された1枚の写真を見せてくれた。熊本競輪場のバンク内に、崩落したメインスタンドの窓ガラスの破片が散らばっている。これが熊本競輪場と礒田さんの最初の別れとなった。
「私の場合は住まいが熊本市内から離れていたので、家に大きな影響はありませんでした。でも市内に住んでいる方々は大変で、それを思うと…。バンクもひび割れて、練習場所も失って」
被災した熊本競輪場は本場開催が中止され、熊本の選手は「ホームバンク」を失った。しかし地震から19日後、中川誠一郎がGI日本選手権を優勝し、熊本にタイトルを持ち帰った。
「うん、あれは感動しました。単騎でしたからね。あの状況のなか、誠一郎は自分の持てる力をすべて発揮して… すごく嬉しい気持ちと同時に、背中を押してもらった。『自分たちも頑張らないかん』って、たぶんみんなが思ったんじゃないかな」
礒田さんは目を輝かせて当時を振り返る。
「誠一郎が『熊本の皆さんに』というメッセージを話してね。私は画面越しに見ていたんですけど、ちょっと涙が出そうなくらいでした。すごく格好良かった。自分のレースよりも、よっぽど印象深いです。そんなタイミングでGIを勝つなんて普通できない。すごく勇気づけられました」
ヒーロー誕生に沸いた熊本だったが、熊本競輪再開への道は一筋縄ではいかなかった。一時は廃止案も含めて検討され、選手たちももどかしい思いを抱えていたそうだ。
「市議会で廃止論が出るたびに不安でした。地元の競輪ファンのためにも、業界の売上としても絶対になくなってほしくない、というのが本音でした。でも建て直すにしても壊すにしてもお金がかかる。震災前は車券売上が落ち込んでいた時期だったので『この際競輪場をなくしてしまっても…』と言われても仕方なかったですからね」
当初の2020年の再開目標から紆余曲折を経て、2024年度の再開へ、工事は進むことになった。
「いろんな方が諦めずに働きかけてくれた。周りにいい影響を及ぼしていく熊本競輪にしていこう、と動いてくださったことが嬉しかった。市の皆さんの尽力はもちろん、競輪を応援してくださっているファンの方の声も、近隣住民の方の理解も必要でしたから。私たち選手は、周りの支えに感謝しなくてはと改めて思いました」
再開に向け動き出した熊本競輪場。礒田さんも再開後の熊本競輪場を走れる日がまた来ると、信じて疑わなかった。
2023年2月の西武園競輪場。礒田さんは落車し、肋骨や鎖骨など10か所の骨折に肺気胸という大ケガを負ってしまった。
「本当に一瞬のことなんですけど、転んでからは息が入っていかなかったんです。肺が破れて縮んで、呼吸ができない。このまま気を失ったら死んでしまうんじゃないかと…。若いうちは別だと思うんですが、50代になってからはケガが一番自分をダメにする。元の身体に戻すことはできない。正直復帰は無理だと思いました」
ケガの直前に礒田さんは父を亡くしていた。競輪選手になる夢を、息子の礒田さんに託した父だ。
「親父も亡くなったことだし、ここで区切りをつけたほうがいいのかなと…。家族にも相談して、みんな引退に賛成していました」
落車したレースを最後に引退も考えた。だが最終的には『このまま終わるのは悔しい』と、6月に満身創痍のまま復帰。熊本にはまだバンクがなかったため、街道練習やジムのプールで心肺機能を上げるトレーニングを積んだ。復帰に際しては一度は引退に賛成した家族を再び説得したという。
「本当にごめん、最後まで走らせてくれと。悔いなく終わりたいという自分の身勝手ですから。妻と3人の娘は『自分でそう決めたなら』と言ってくれました。ならば最後まで全力で走り切ろう、と。私のポリシーは絶対にゴールまで諦めないこと。どんなに道中で離れても、いい着が見込めなくても、ゴール線では必ずハンドルを投げる。それを競輪人生でも、ね」
礒田さんが在籍していたA級3班(チャレンジ)には公傷制度(負傷により最低出走本数をクリアできなかった場合の級班保障、A級3班とガールズ以外には存在する)がない。3か月以上の戦線離脱で競走得点は0となり、代謝制度を意識せざるを得ない状況に追い込まれた。しかし礒田さんはそれより前からこの制度を意識していたそうだ。
「(2021年7月に)チャレンジに落ちてからは代謝制度を意識していましたよ。最近のチャレンジは若手が強いからスピードもあって、力の差を痛感しました。上がっていくのは難しいし、落ちた時点で終わりに近づいたのかなと」
選手生命の終わりを意識するようになると、気持ちに変化が生まれた。
「若い子に付けきれなくて離れてしまうと、悔しいです。でもいくら悔やんでもそのレースは戻ってこない。だから前を見ようと、自分に残された一戦一戦を大事にしようと考え方を変えました」
覚悟を胸に走り続ける一方で、先述の落車があるまでは“引退”を目前のものとまでは思っていない部分もあった。
「それでもあの落車があるまで『来年辞めるかも』なんて考えたことはなかった。この6月で代謝になってしまったのは、やっぱり落車が大きかったかな。あれがなかったら、それまでと同じようにチャレンジで走っていたと思う」
ケガからの復帰後は、勝ち上がりは激減してしまう。そして6月に迎えたラストランは別府モーニングだった。2日目は3着に入り、車券に貢献した礒田さん。
「競輪選手は毎日の積み重ねが大切で、やるべきことをやっていれば取り返せると思うんです。競輪は脚があれば必ず勝てるというわけではありません。レースの中で良い展開になった時、いかに掴み取ることができるかが大切で、そのためにも日々努力を惜しまずやる。そんな35年でした」
最後のレースを終えての率直な心境はどうだったのか。
「無事に完走できてほっとしたのが一番です。競輪界には感謝しかないので。ここまで走らせていただいて悔いもなく、本当にありがとうございました、と」
ご家族から労いの言葉はあったのか? 聞くと礒田さんは頭をかいた。
「妻からは『これで安心できる』と言われました。昨年の大ケガのときは埼玉の病院に1か月ほど入院していて、熊本から3回も来てくれた。そのたびに妻が泣くんです」
入院してすぐ、手術の日、そして退院の日。肺気胸で飛行機には乗れないため、電車で長時間かけ二人で熊本に帰った。遠路を苦にせず3度も埼玉まで足を運んだ伴侶に感謝の思いを語る。
「やっぱりその時が本当に大変だったので。妻の『やっと安心できる』という一言にはもう…『今までご迷惑をおかけしました』と伝えるばかりでしたね。ケガをしたときは義理のお父さんお母さんにも送迎などでお世話になって。ラストランには来ていただいて、終わって挨拶させてもらいました。私の親は高齢で呼べなかったものですから」
“悔いはない”とはっきり話した礒田さんだが、引退してから1か月足らずで地元・熊本競輪場が再開を迎えた。一時は6月の再開を目指すという報せもあったが、実際は7月20日だった。あと1期、現役が続けられたらきっと礒田さんももう一度地元を走れたのではないか。
「まさか復活前にやめるとは(苦笑)。走りたかった気持ちもあるけど、自分の今の力がわかってるので。“地元3割増し”と期待される状況で、今の状態で走るのは怖かったかもしれないね。地元を走るのに車券に貢献できない自分というのはつらいから。それが選手としてのプライドなんです」
そう話す礒田さんはすがすがしい表情だった。
「走るからには車券に貢献したいのが当たりまえです。(復活した熊本で車券に貢献する)その気持ちを味わえなかったのは残念だけど、ファンの期待に応えられない自分を応援してもらうのは苦しい」
そこにあったのは、35年間にわたり現役を貫いた競輪選手の矜持であった。
そして熊本競輪場が再開を迎えたこの日、観客のひとりとして競輪場を訪れた。本場には大勢の観客が詰めかけて、熱気に満ちあふれていた。
「(再開は)本当に嬉しい。感無量です。残念ながら外からですけど、バンクをいざ見て、再開に携わってくれた皆さんの努力のたまものだと感動しました。お客さんの多さも… これからも足を運び続けてほしいですね」
快晴の熊本競輪場のスタンドで、礒田さんは目を細めた。
「引退して、自分の中では気持ちの整理もして今日を迎えたんですが…。実際生でレースを見て、走っている時の緊張感や選手の息遣いを目の当たりにすると『ここを走ってみたかった』という気持ちも出てきたりして」
それも競輪選手として生きた者の本能だろう。再開した熊本バンクを走ることなく二度目の別れを告げることになってしまったが、初めて観客として満員のスタンドに立つと選手たちが繰り広げる熱戦に心が動いた。
「これまでは選手として競輪に接していたけど、今日はお客さんとして見て新しい魅力に気づけた。選手たちを応援していると、私も自然と大きな声が出ましたよ。今日は必ず最終レースまで応援して帰ります。誠一郎と嘉永(泰斗)が走るからね」
若手選手は、再開後のバンクで初めて地元を走ることになった。この競輪場とともに未来を担っていく選手たちに礒田さんが伝えたい想いは…。
「熊本のファンって昔から厳しい言葉もあるけど温かい声援もすごく多くて、それが忘れられないです。声援は聞こえるんですよ。ちゃんと選手に届いている。熊本のお客さんの温かさはすごく伝わっていました。若い選手たちには、地元の応援や激励、厳しい言葉も『嬉しいものだ』と感じてもらいたいかな」
「やっぱり私にとって、競輪は人生だったと思います。私が言ってもそんなたいそうなことではないんだけど…(笑)」
そう言って笑う礒田さん。数千人いるプロの競輪選手のなかでトップ戦線で輝く選手は一握りだ。礒田さんが送った選手人生は、多くの人がイメージする“プロの世界”より泥臭く、地道なものだったかもしれない。
それでも55歳という年齢まで、人生の半分以上を競輪選手として走りぬくことは並大抵の努力では成し得ないことだ。
「本当に35年間、いい経験をさせていただきました。いいときばかりではなかったけれど…。自分から車券を買ってくれたお客様がいるから、ちぎれても必ずゴールまで踏み切るというのを最後まで貫きました。それが私の生きざまだったのかな、と思います」
35年間、ポリシーである“力走”を貫いた。それが「競輪選手・礒田義則」の生きざまであった。
熊本生まれ、熊本育ちの礒田さん。地元への愛はあふれ、再びスタートした熊本競輪場と熊本の街がさらに盛り上がることを願っている。
「熊本は食べ物がおいしいし、繁華街もすごく楽しいところ。競輪場に来て、いっぱい応援していただいた後にゆっくりビール飲んで、馬刺しとか食べたら最高だと思います。観光地もいろいろあるので、ぜひ遠方からも旅打ちに来ていただけたら嬉しいですね」
再開の日、盛況の熊本競輪場には観客たちの声が轟いていた。声援は間違いなく、選手たちの背中を押す。公営競技の発展には、ファンの存在が不可欠だ。
「選手にとって励みになる声援をいっぱいいただければ。すごくいい競輪場として続いていくと思います」
終始明るい笑顔が印象的だった礒田さん。満身創痍でも信念である“敢闘精神”を貫き、35年間で2,890レースを力走した男はすがすがしい表情でかつての地元バンクを見つめた。
netkeirin編集部
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