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競輪界の代謝サバイバル

クビ危機脱し現役生活10年“延命” 山田二三補さんを救ったグランプリ覇者との絆と、愛弟子とのラストラン秘話/インタビュー前編

アプリ限定 2025/02/14 (金) 18:00 36

2023年7月に代謝制度により引退した、元競輪選手の山田二三補さん。40歳過ぎで一度引退危機に追い込まれたが、グランプリレーサー金子貴志とのトレーニングで奇跡の復活。S級昇格は一度もなかったものの、55歳まで約34年間におよぶ現役生活を送った。選手にもファンにも愛された『フミちゃん』こと山田さんに、34年の競輪人生と今後について聞いた。(取材・構成 netkeirin編集部)

山田二三補さん(金子貴志選手提供)

高校球児から転向し競輪界へ

 学生時代は野球で活躍した山田さん。地元愛知の豊川高校で甲子園出場を目指し、“ギャオス”の愛称で知られる内藤尚行さん(元ヤクルト)とバッテリーを組んで試合に出たこともある。進路は地元の社会人野球チームに入団する話もあったが白紙となり、一般就職も検討したものの最終的には豊川高野球部の先輩である高橋慎一さん(愛知・49期)を頼って競輪学校入学を目指した。

「おふくろは競輪選手になることを少し反対していました。ケガが心配だったのだと思います。父は競輪好きだったので喜んでいましたけどね。両親からは『競輪学校挑戦は2年まで』という条件で挑戦させてもらいました」

 当時は競輪学校の入試が半年ごとに行われており、結果的に山田さんは1年半で合格。1989年にデビューした。S級昇格はなかったが、34年間という長い現役生活を送った。選手時代を振り返る山田さんは、少し複雑な表情を浮かべた。

「今思えば、もっと一生懸命にできたんじゃないかっていう…。競輪選手はトップになれば1億、2億と稼ぐ人もいますが、そうでなくてもお給料はいい仕事だと思うんです。じゅうぶん生活をしていけるだけの稼ぎを得て、満足してしまったのがダメだったのかなと」

 悔いは残ったが、山田さんにはひとつのポリシーがあった。

「ただ、僕の中では“長くやりたい”というのがあった。選手になったなら強くなりたい、と思うのはそうなんですけど、強くなって10年で辞めるというのではなく、最低でも40歳までは現役でいられるようにと思っていました」

 キャリアハイは27歳ごろで、唯一のA級優勝は新婚ほやほやの時だった。

「初優勝したのが結婚してすぐだったんです。当時優勝賞金が100万円くらいで、分厚い封筒を持って帰って妻に渡すことができたのが嬉しかったですね。と言っても、A級戦なんですが(苦笑)」

訪れたクビ危機、グランプリ覇者から救いの手

 40歳を過ぎた頃、山田さんは成績不振に陥った。競輪では半期に一度、成績下位30名が強制的に引退となる“代謝制度”がある。山田さんもこの対象となっていた。

「それまでただがむしゃらに練習していて、研究が足りなかったと思う。根性論でずっと来て、年齢を重ねて通用しなくなったんですね。自分のなかで決めていた『40歳まで現役』というのはクリアしていたし、もうほぼクビというところまで成績も落ちていたので、このまま流れに身を任せて終わるのだろうと思っていました」

 そのときに山田さんに声をかけたのが、地元の後輩であり、2013年競輪グランプリ覇者・金子貴志だった。金子は“クビ寸前”の山田さんに声をかけた理由をこう明かす。

「山田さんは絶対まだまだいけると。練習を見ていてもったいないと感じていたんです」

 金子はもともと自主的にウエイトトレーニングを行っており、当時はいろんな選手とともに取り組んでいた。そのうちの一人が山田さんだった。

「金子は『デッドリフトを毎日必ずやりましょう』と。ほかの自転車に乗る練習は普段のメンバーと普段通り続けて。レース前でも体がしんどくても関係なく、1日5分でもいいから『絶対に1日も休まずに継続しましょう』と」

金子選手が見守るなかウエイトトレーニングに励む山田さん(金子貴志選手提供)

 毎日の自転車の練習の後に、ウエイトトレーニングを取り入れた。“1日5分でも”というのは気持ちの負担を取り除く意味合いが大きく、実際に道場に行けば30分、1時間とトレーニングを積んだ。

「金子は『2年やれば結果が出ます』と自信満々に言うんです。1日5分を2年か、じゃあやるわ、と軽い気持ちで始めたんですよね。でも半年たっても1年経っても手応えはありませんでした」

 山田さんと同時期にウエイトトレーニングを始めたほかの選手たちは、次々やめてしまったそうだ。

「これ本当に結果出るのか、と思いましたよ。でも金子が『頑張りましょう』と…。実際、不思議とクビにはならなかったんですよ」

突然の完全優勝「どうなってんの!?」

 疑心暗鬼になりながらも、日課としてデッドリフトを続けた山田さん。変化は突然訪れた。

「前の開催まで全然勝てなかった僕が、和歌山でいきなり3連勝(完全優勝)したんです。自分でもわからないけど、急にめちゃめちゃ強くなっていた。勝手に自転車が進んでいくような感覚でした」

 山田さんは驚きを隠せなかった。優勝を引っ提げて和歌山から帰り、金子に会うなり問い詰めた。

「おい、どうなってんのって(笑)。金子は驚きもせずに『結果出たじゃないですか』って言うんです」

金子選手と山田さん(金子貴志選手提供)

 その真意を金子に問うと「ウエイトにしても何にしても、みんな1週間、1か月くらいはできるんです。でも1年となるとできる人はかなり減る。続けられることがもう武器なんです。結果はある日突然出るんです」という。

 そしてこの変化はまぐれではなかった。“覚醒”した山田さんはチャレンジ戦で何度も優勝。漠然と続けていた選手生活が、突然色鮮やかになった。他県の選手にも名前が売れ、張り合いのある日々を送った。

「僕は“西の強いおじさん枠”のような感じで、東では庄子信弘(84期・宮城)が当時チャレンジに落ちていて強かった。彼とたまたま高松の開催で一緒になると『おお、山田さんですね。お互い歳いって頑張ってますね』なんて話しかけてきて。決勝で戦って、負けたんですけど。一度も話したことなかったのに、意識してくれてたんだなと思うとうれしかった」

 快進撃は続き、クビの対象となる競走得点70点未満から、90点近くまで成績を上げた。

「新人の特別昇級(9連勝で飛び級となる)を止めたこともありました。気持ちよく先行しているところを僕が1人で捲って優勝。田頭寛之(109期・千葉)なんだけど『僕の特進止めましたよね』って今でも言われます(笑)。お互いに記憶に残っているから、仲がいいんです」

クビ寸前からの復活劇、50代でS級視野に

 成績はクビ寸前からS級昇格が見えてくるほど急上昇。周囲の期待も高まった。

「51歳の時にA級1班で『S級に行けるんじゃないか』ってみんなに言われました。50代のS級選手は結構いるけれど、50代で初めてS級に上がった選手はいない。それができたらカッコいいじゃないか、なんて金子と話して毎日充実していました」

 山田さんの目を見張るほどの活躍ぶりに、競輪場に行くと他の選手から声をかけられることも多かったそうだ。

「開催に行くと知らない選手に『どうして急に強くなったんですか』って聞かれるんです。そのたびに『金子に言われて2年間デッドリフトをやり続けた』と答えて。真似した選手もいっぱいいたけど、続けるのはなかなか難しかったみたい」

“フミちゃんポーズ”明るいキャラクターで知られる山田さん

 金子が語るように、山田さんには“続けられる才能”があったに違いない。金子の弟子である深谷知広にも、こう声をかけられたという。

「金子さんの練習についていって、山田さんはすごい、と。彼とは一緒には練習していないんですけど、遠まわしに見ていてくれたんですね。うれしかったな」

 S級には上がることはできなかったが、結果的に現役生活は10年以上延びた。

育成のポリシーは「いくらでも練習付き合う」

 当時、もうひとつ山田さんの環境を変えた出来事があった。地元・豊橋では『T-GUP(豊橋ガールズケイリン育成プロジェクト、当時)』と称してガールズケイリン選手の育成に力を入れており、山田さんは女子選手の師匠になった。T-GUPからは18名が選手デビューしており、そのうち4名が山田さんの弟子だ。

「豊橋に練習に来ているアマチュア選手とは面識があったんです。彼女たちがプロを目指すにあたって師匠が必要となったときに、佐々木(恵理)と中嶋(里美)が僕にお願いしたいと言ってくれて。おかげで練習量が増えました」

 育成を通じて、練習量が増えたという。女子選手とは体力差があるために、男子選手と練習していた時よりも多くの量をこなすことができた。

弟子の佐々木恵理選手と田中千尋選手、深見仁哉選手とともに(現役ラスト開催にて)

「僕は弟子たちに絶対的な指示はしていないんですよ。乗り方やセッティングのアドバイスはするけど、僕が絶対正しいと思わなくていい。他の選手に聞いてもいい、と。だけど弟子のやりたい練習は全部一緒にやるし、いくらでも付き合う。そういう接し方でしたね」

 佐々木恵理と中嶋里美がデビューした2年後には、田中千尋と黒沢夢姫(旧姓・吉田、埼玉へ移籍)も山田さんに弟子入りを志願。

「田中と吉田は先の二人よりさらに若かったから、最初は心配だったんだけどね。佐々木と中嶋が間に入って頑張ってくれて、二人のおかげでいい関係を築くことができたかなと思います」

 型にはめない育成スタイルで弟子たちはのびのび成長。年代も性別も異なる弟子と信頼関係を築いた。佐々木恵理は現在、“豊橋グランプリレーサー育成プロジェクト”と改めた『T-GUP』のコーチを務めている。

ラストランは弟子の思いに涙こらえきれず

 選手生活晩年は腰のケガの影響で成績が下降し、55歳の時に代謝制度で引退した。

「金子とやったデッドリフトのおかげで、クビ寸前のところから強くなれた。ウエイトトレーニングによる腰への負担はあったけど、これがなければ選手生命は延びていないから。最後の代謝争いに関してはやり切った思いでしたね」

 コツコツ努力を続け、10年も選手生命を延ばした山田さん。ラストランは玉野で迎えた。引退を控えた選手には「希望あっせん」という制度があり、ゆかりの深い選手と同じ開催を走ることができる。

「最後は弟子と一緒がよかったので、まず絶対にガールズがある開催じゃなくちゃいけなかった。玉野を選んだのは、新しい宿舎の評判が良かったので一度行ってみたいなと」

ラストランを終え駆けつけた仲間に応える山田さん(金子貴志選手提供)

 最終日には地元から遠く離れた玉野の地に、金子貴志をはじめとした仲間たちが山田さんの応援に駆けつけた。ラストランで連係した愛弟子・深見仁哉とのエピソードを明かす。

「最後は深見と一緒になったので気合いを入れていたんですけど、あいつ顔見せから泣いているんですよ。なんでお前がもう泣いているんだよって…こっちも泣けてきちゃって」

 深見は山田さんに“有終の美”を飾らせようと積極策に出た。しかし山田さんは追走するのが精一杯で、ラスト1周でとうとう離れてしまう。

「深見からは僕を連れていかないと、っていう気持ちが伝わってきた。周回中から『フミちゃん』って声援が聞こえていて、もう途中から涙がこらえられなくて…。お世話になったみんなに遠いところまで応援に来てもらって、深見が頑張ってくれたのに全然ついていけず… 悔しいラストランになってしまいました」


 ラストランは大差の7着。持てるすべてを振り絞って、競輪人生を完走した。レース後はたくさんの人に出迎えられ、花束を贈られた。

「男子も女子も、開催にいたほぼ全員の選手が出迎えてくれて。車に載せきれないほどの花束をいただいて… 最後の走りを見てもらえてありがたかったです」

 笑顔がトレードマークの山田さん。愛する仲間たちと、溢れる笑顔と涙のなか選手人生の幕を下ろした。

「僕はお酒も飲まないし、練習後にみんなご飯に…とかもなくて。そんな人間なのに、周りの仲間に恵まれて、力を借りて。みんなに感謝です」

ラストランで連係した弟子の深見選手は人目をはばからず涙(金子貴志選手提供)

2020年豊橋GIの思い出は“うれし涙”

 もうすぐ地元・豊橋競輪場ではGI「全日本選抜競輪」が開催される。当地では2020年以来のGIで、5年前に行われた同大会の開催指導員は山田さんだった。

 そして、その大会の敢闘宣言を務めたのが金子貴志だ。先のエピソードだけではなく、山田さんは金子らとともにYouTubeチャンネル『カラフルスタイル』で競輪の魅力を広めるため発信を続けてきた。

「開設から50年以上GI開催がなくて、一時は廃止とも言われて…。全日本選抜で、金子が敢闘宣言をした時は涙が出ました。もう、本当に嬉しかったもんね」

金子貴志の敢闘宣言(YouTube『カラフルスタイル』より)

 走った選手も裏方で支えた人たちも、豊橋で競輪に関わる人たちが一体となった瞬間だった。

「金子たちは選手として頑張りたい、僕らは指導員として地元を盛り上げたい。持ち場は違っても、みんなの気持ちが同じ方向を向いて。力を合わせていました」

 最終的に本場には4日間で3万人以上の観客が訪れ、GIは大成功。そして5年ぶりのGIに、山田さんはまた違った形で姿を見せることになる。

「去年からキッチンカーでたこ焼き屋をやっているんです。GIの時は豊橋競輪場でたこ焼きを売ることになりました。まだ始めたばかりでご迷惑をおかけするかもしれないんですが、競輪ファンの方にまたお会いできたらうれしいです」

引退後、キッチンカーのたこ焼き屋をスタート

 56歳で飲食業界に転身するという新しい一歩を踏み出した。“継続は力なり”を体現し、34年の競輪人生のゴールを切った山田さんは、今も挑戦を続けている。

インタビュー後編では、山田二三補さんにセカンドキャリアで「キッチンカー」を始めた経緯を聞いた。その裏には、山田さんの人柄と周囲との絆、そして家族の存在があった。

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