2024/08/06 (火) 12:00 8
2020年12月、当サイト「netkeirin」のオープンと同時にコラム「ノーメイクな私の本音」の連載をスタートした太田りゆ選手。いよいよ今夏、自転車トラック競技の日本代表選手として、フランス・パリで走ります。本記事では、これまで選手が連載コラム内で綴ってきた言葉を並べ、五輪出場の切符を掴むまでの“軌跡”を辿ります。後編となる今回は2022年12月〜2024年5月まで。いよいよ夢舞台に挑む太田りゆ選手を応援する前に、ぜひぜひチェックしてみてください。(構成:太田りゆ連載コラム「ノーメイクな私の本音」担当・篠塚久)
「絶対に自己ベストを更新したい」と気合を入れて臨んだ2022年の世界選手権ではチームスプリントで日本記録を更新し7位、予選で自己ベストを更新してスプリント15位、ケイリン13位の結果でした。世界選手権後に更新されたコラムでは「正直この結果に全然満足していません」としながらも、チームスプリントで日本記録を更新し、スプリント予選で自己ベストを更新した“内容”に大きな収穫を得たと結論づけています。
りゆ選手は東京五輪を見た時、「1番大事な場面で自己ベストを出すことがどれだけ強いことか」と感じたそうです。(五輪を除けば)世界選手権は最高峰の開催で、1年に1度きり。その年の“1番大事”なシリーズの出場2種目でベストタイムを出せたことは、選手にとって順位よりも価値があることだったのでしょう。
今までは選手本人の言葉を並べてきましたが、コラムに綴られたジェイソン・ニブレットコーチの言葉も紹介します。「りゆの負けはオレの負け」、これはニュージーランドの国際試合でコーチから選手に伝えられた言葉です。五輪開催年の前年は「出場枠争い」の非常に重要な年。その年の最初のレース前、コーチは「自信を持って捲りに構えるように」と指示を出しました。
ガールズケイリンでは強烈な捲りを放つ選手というイメージですが、トラック競技において「自信」を次のレベルに押し上げていくためには捲りの戦法をさらに磨くこと、捲りに対して一切の苦手意識を取り除くことを課題にしていたそうです。レース結果は一発の捲りが決まり金メダル獲得。
りゆ選手は国際大会で勝った時も、代表内定の発表会見でも「ひとりでここまで来たわけではない」と強調しています。コーチを信頼して戦ってきた日々・関係性が成長の大きな一因になっているのは言うまでもないでしょう。また、自信を帯びた捲りを武器にさせる意味を持つジェイソンコーチの勇敢なアドバイスと、そのプロ意識にも目を見張るものがあります。
「国枠獲得争い」と「代表選考」がはじまるときには自分を鼓舞するような発言が目立っていました。“もう一度”と挑戦を決意した以上、2023年は人生を左右する1年。ネイションズカップに出発する前には「Be strong me!つまりは頑張れアタイ!ってこと!」と気合を入れました。この時のコラムではRachel Platten(レイチェル・プラッテン)の「Fight Song(ファイトソング)」を聞きながら、気持ちを盛り上げていることが書かれています。自信を結果に繋げなくてはならない“決戦”に向けてバッチリのマインドがありました。
そんな中でネイションズカップ第1戦、第2戦を走り、どちらも好成績。笑顔の帰国となりました。2022年、『相手がメダリストでもなんとかなる』と実感してからのスプリント種目の伸びは凄まじく、テクニックと戦法の幅を広げ、目覚ましく成長。第1戦で8位、第2戦で6位とメダル射程圏の位置に。
結果報告のコラムでは「どうにもならないなんて思えないところにきています」と力強い言葉を残しました。この時期、ハロンタイムは10秒7を安定的に出し、崩れることもなく、「もっと出せる、絶対に行ける」と先のレベルに到達することを確信していました。
パリへの挑戦が続く合間、講演活動にも力を入れていた時期があります。東京五輪リザーブ選手としての経験を次世代に伝えることで、誰かにも私自身にも価値が生まれる、と話していました。りゆ選手がインタビューで話している表現やコラムに綴られている言葉を時系列に沿って見ると、「東京五輪の捉え方」に変化があった時期だったように思います。“失敗の経験”という言葉をストレートに使いつつもネガティブな意味合いはなく、“失敗”という言葉を笑顔で発するシーンが増えたように感じます。
余談ですが、ハードな練習や人生を懸けて戦っている大会が続く中、講演会で使用するボリューミーなパワポ資料は自作によるもの。当時、「いざやってみるとパワポって全然わからなくて大変!でも前田のお姉(※)も手伝ってくれるし、教わりながらやってやる!」とケラケラ笑っていました。完成したパワポはプロ仕様でした(笑)。コラム原稿の誤字脱字も少ない方ですし、ケイリン・スプリントに加えてデスクワークも得意なのかもしれません。(※2012年ロンドン五輪代表・前田佳代乃元選手)
ネイションズカップで好成績をおさめて迎えたアジア選手権。前年にスプリントを制しているので、連覇のプレッシャーがかかる一戦でした。結果は優勝、連覇達成。スプリント、ケイリン、チームスプリントで金、銀、銅のメダルを全色コンプリートしました。
また、ハロンタイムで当時の日本新記録を更新する10秒596を叩き出し、自己ベストも更新。ネイションズカップ終了時点で「タイムは絶対もっと出せる」と宣言していましたが、いよいよ10秒5台の世界に突入しました。
りゆ選手は、予選でタイムを出すためには「どれだけ無心になれるかが大事」だと言います。邪心を捨て去るために走る前の自問自答もタブーにしているそうです。しかし、この記録を出した時は「絶対的なマイルール」を破り、自分にはっきりとエールを贈ったとのことです。「緊張しないでとにかく思いきり踏んで!」と。
帰国後に「あのタイムがすぐに出せるかわからない」と元日本代表・新田祐大選手に相談すると、次の言葉が返ってきたそうです。『世界記録だって高地のトラックの記録が認定される。その日その場所で同じ環境下で1番速かったことに変わりはない』と背中を押されたそうです。コーチや先輩選手のアドバイスを受け取りながら、世界選手権を迎えました。
キャリア5回目となる世界選手権の前に「おそらく最後の世界選手権になる」と覚悟を持ってシリーズ入り。ケイリンでは世界選手権における自己最高順位となる11位に。五輪前年の極めて重要な大会になるため、各国は五輪想定モードで参戦。パリでメダル獲得を目指すにあたり、決勝進出レベル一歩手前に位置していることを証明しました。大一番で過去最高順位を記録したことも収穫になりました。
ただ、スプリントでは17位と振るわず。この種目は“うなぎのぼり”と表現して良いくらいに調子を上げ続けてきた種目なので、ファンのみなさんも物足りない結果だったことでしょう。りゆ選手本人も「自分に腹が立つ」と回顧しました。「言い訳ができないし、しているヒマもない」と厳しい態度で、「とにかくその日その場所で最大限速く走ることを大事にしなくては」と総括しています。
世界選手権から帰国して、所属する「チームブリヂストンサイクリング」の報告会がありました。その報告会はりゆ選手の“超・地元”にあるブリヂストン本社で行われ、選手たちは工場見学もしたそうです。りゆ選手は自分のためだけに作られた型があることや、製作者と会えたことに「大感激した」と話しており、「自分の相棒の親にあった気分」とコラムに綴っています。
この工場見学では「記録や勝利に挑戦しているのは自分ひとりではない」と改めて感謝の思いを深められたそうです。「フレームやパーツに込められた技術力、ナショナルチームのスタッフ、期待を乗せて応援の声を届けてくれる人たち、みんながいてこその私」とコラムに綴り、それらを胸に刻んでアジア大会に出発しました。
アジア大会は過酷なレースプログラムの中、スプリントで銅メダルを獲得。メダル獲得自体が素晴らしい実績ですが、選手本人は「悔しい色」と表現しました。ですが、銅メダルの獲得をかけた一戦では「周囲が応援してくれたから頑張れた」とコラムで明かしています。
ちなみに、りゆ選手から入稿される原稿は「感謝」の言葉が多く、向ける相手もかなりの広範囲です。時にそのボリュームは(その回のコラムのメインテーマを圧迫するほどで)、公開前の編集工程で手を入れさせてもらうこともしばしばありました。SNSでもファンのみなさんの応援は温かく、選手にもそれがはっきりと届いています。りゆ選手の「ありがとう」とファンや関係者の「がんばれ」のラリーはもう何年も続いていますし、担当編集として何年も目にしてきました。パリの地でも“みんな”の応援が選手のパワーになることは間違いありません。
五輪前年となる2023年を走り終えて、コラムも3周年。大晦日に更新したコラムでは「コラムを読み返してみると、3年前の私と今の私は選手としても一人の人間としても“別人”だと思えるくらい大きく成長しているように感じます」と書かれています。身体は脚だけではなく、上半身もサイズアップして、タイムも速くなっており、アスリートとしての成長は火を見るよりも明らかです。また、メンタル面もかなり変化していました。
月に一度、コラムのテーマを打ち合わせたり、レーススケジュールを加味して原稿締め切り日を設定したりと選手に連絡を取るため、担当編集は意図せず“定点観測”しているような感じになるのですが、連載を打診した時期とこの時期では正直別人です。特に「自分を信じること」や「失敗の許容」といった、選手のプライド系メンタルに違いを感じることが多々ありました。“きのうの自分を超えるつもりで”の言葉には説得力しかありません。
2024年のオリンピックイヤーがはじまり、ネイションズカップ第1戦に出発する前に「東京五輪開催年と今とで何が違うのか?」を書き記しています。りゆ選手が書いたのは「日本代表としての誇りは格段に違う」という言葉でした。
その言葉は力強く、過去最高のパフォーマンスを見せてくれるのではないかと期待が高まりました。しかし、テレビドラマや映画のようにストーリーが都合よく進行しないのが現実です。アデレード大会ではケイリン18位、スプリントは1/16決勝で敗退。コラムには「自分という輝きをすべて失った」と表現するほどで、本来の実力を発揮できませんでした。
五輪代表選考も大詰めのタイミングで、何が何でも結果が欲しい局面。レース前に感じた緊張がコントロールできず、“恐怖”になってしまったと振り返りがありました。東京五輪の切符に手が届かなかった経験を味わい、この時期に“トラウマ”に触れないわけもありません。「気合を入れ過ぎて失敗」とかそういう次元の話ではないような一戦だったように思います。
帰国後にはコーチと相談し、スプリント3連覇のかかるアジア選手権の不参加を決め、ネイションズカップ第2戦に向けてトレーニングを開始しました。「1番ダメなことを1番大事な場面でやらなくて良かった」と考えをシフトして、「自分に負けた経験”は最終章に生かす」とコラムで表明しました。
五輪選考の対象なおかつ五輪前最後の国際大会・ネイションズカップ第2戦。(五輪を除き)最後の国際大会だと思って、会場の空気感を心に焼き付けるように走り抜きました。結果はケイリンで9位、スプリントで13位。“最後”を感じながらも“次走・パリ”に繋げるための慣れないギヤでの参戦、試行錯誤。最後まで力を出し惜しみすることなく、ゴール線を切りました。
この開催を終え、いよいよ選考結果を待ちながら、トレ-ニングで仕上げる日々に突入しました。帰国後に更新されたコラムの一節をご紹介します。
オリンピックという夢や目標に向かって、今まで何度も何度も転んできました。なんとか立ち上がっても「もうやだ!私、普通に生きたい!」と思うことが正直何度もありました。でもここまでを振り返って、この“普通じゃない道のり”を1番に楽しんでいたのは自分自身です。
転んで立ち上がるためには強さが必要。その強さで何度もチャレンジしてきたこと、何度もチャレンジすることに楽しさがあったこと。東京五輪の挫折を乗り越えて、再びパリを目指し“挑戦の終着駅”を降りて見た景色でした。その終着駅で待っていたのは次章に進むためのパリへの切符です。
2024年5月、パリオリンピック自転車競技日本代表の内定会見にて、太田りゆ選手の正代表としての選出が発表されました。
「ありがとうの言葉を撒き散らしたい」という表現でコラムを更新しました。また、競輪学校時代から夢見た五輪の舞台に辿り着いた道のりを振り返り、「無我夢中であっという間だった気持ちと私の20代をすべて捧げたよ!って気持ち」と書き記しています。短いようで長く、長いようで短い挑戦だったのかもしれません。パリ五輪への意気込みは『最高傑作の自分で』と言葉を綴りました。
さて、パリ五輪が閉幕する翌週8月17日、太田りゆ選手は30歳になります。20代ラストの夢舞台を最高傑作で戦い、第1回コラムで書いた“大目標”「パリ五輪でメダル獲得」を実現できることを切に願っています。
いつも連載コラム「ノーメイクな私の本音」をご愛読いただきまして、誠にありがとうございます。選手に連載を打診した時点では、「東京からパリに向かう太田りゆ選手のサクセスストーリー」のような企画イメージでした。そして、選手は見事に夢をかなえてパリを走る権利を手にしました。それにしても“サクセスストーリー”といったひとことでは語ることのできないドラマがあり、ドラマとは言えないリアルがありました。
これまで選手からは良い時も悪い時も毎月のように「ファンのみなさんの応援に対する感謝」を聞いてきました。コラム担当者である私自身、大会会場やSNSで太田りゆ選手への温かい応援の声を聞き、見てきました。自転車競技、日本代表チーム、太田りゆ選手を応援するみなさんに本稿を読んでいただき、応援の熱を1度でも上げることができたら嬉しいです。「五輪出場への挑戦」は終わり、「夢舞台での表現」に物語は移行しています。1発目の女子ケイリン第1ラウンドは8月7日から! いよいよ本番です!
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netkeirin特派員による本格的読み物コーナー。競輪に関わる人や出来事を取材し、競輪の世界にまつわるドラマをお届けします