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すっぴんガールズに恋しました!

【林真奈美】ボート競技で摂食障害、転向後は「センスなし」自覚…“縁”が助けた30歳からの競輪人生

アプリ限定 2024/06/08 (土) 18:00 40

日々熱き戦いを繰り広げているガールズケイリンの選手たち。その素顔と魅力に松本直記者が深く鋭く迫る『すっぴんガールズに恋しました!』。今回は久留米GI「オールガールズクラシック」で落車負傷から復帰した林真奈美選手(38歳・福岡=110期)。選手をめざしたきっかけから現在に至るまでの軌跡を写真とともにご紹介します!

優等生だった学生時代、ボート競技と出会う

 林真奈美は大分県日田市の出身。水が綺麗な街で育った。3歳上の兄、1歳上の兄と3きょうだい。兄ふたりと一緒に何でもやりたい女の子だったそうだ。

仲良しの兄ふたりと好奇心旺盛な少女時代を送る(本人提供)

 中学時代は勉強で1番になることを目標に頑張った。得意科目は数学、理科の理数系。クラス役員やボランティア活動にも精を出し、スポーツでも駅伝の選手に駆り出されるなど、文武両道の優等生だったようだ。将来は「看護師か学校の先生になる」という夢を抱いていた。

 高校は地元の進学校・大分県立日田高校へ進学。部活選びは慎重に進めたそうだ。

「兄2人がボートをやっていたけど、ボート部に入ることを決めて日田高校に行ったのではなかったので、いろんな選択肢がありました。バレーボール、陸上競技、ボート。どの部活をやるか考えました。長男がインターハイや全国選抜に行ったり、次男も全国で活躍しており、小さいころに思っていた感情が湧いてきて…。兄たちと一緒のことをやりたい、と。それで『自分もやる』とボート部に入ることを決めました」

強豪校でボート一筋の高校生活

 日田高校はボートの強豪校。日々の練習は厳しかったそうだ。

「ボート一筋の高校生活でした。授業が終わると、急いで部活の準備。集合場所へダッシュで向かって顧問の先生が来るまでに急いで着替える。顧問の先生が到着したらバスに乗って練習場へ。選考合宿や世界ジュニア選手権などボート部の活動で、体育祭や文化祭に参加できないこともありました」

 部活がメインの生活だったが勉強も頑張った。卒業後は大学進学も選択肢の一つだったが、恩師のアドバイスで状況が変わる。

「(林は)五輪を目指せる力がある。実業団のデンソーから声がかかっている」

 大学進学か実業団入りか。家に話を持ち帰り、両親と兄に相談した。兄ふたりも世話になった信頼できる顧問の勧めだったため、実業団に挑戦することを決めた。

実業団チームで五輪目指すも摂食障害に

 高校卒業後は、愛知県にあるボート競技の強豪実業団「デンソー」に入社。社員として働きながらボート部の活動をして五輪を目指す生活が始まった。

強豪実業団・デンソーでボート競技に打ち込む(本人提供)

「入社当時、仕事はフルタイム。早朝練習をして、仕事をして夜に練習。なかなかハードでした。でも少数精鋭のチームで、2004年のアテネ五輪に出場した選手(内山佳保里さん)も所属していました。目の前にトップ選手がいるので、高いモチベーションで練習することができました」

 一生懸命ボート競技に打ち込む充実した毎日だったが、しだいに林の心身は悲鳴をあげた。ボート競技でナショナルチームとして活動するには減量がつきもので、日々節制が求められていた。

「初めて世界選手権に出た入社2年目から摂食障害になってしまいました。国内のレースでは体重制限がなく練習に集中できたけど、ナショナルチーム活動となると体重の問題がありました。選考合宿に参加する段階から体重規定があり、筋肉の重量がある私には苦しかったです。ナショナルチームに挑戦できないくらい体重が増えてしまうときもあり、人の視線が怖かった。シーズン中もオフシーズンの選考合宿期間も、一年中減量を意識した生活を毎年重ねることで代償が出過ぎており、ナショナルチームでいるのはもう厳しいと感じていました」

 ボート競技には高校で3年間、実業団で9年間熱中したが、2012年のロンドン五輪が終わったタイミングで区切りを付けた。もう、身も心もボロボロだった。

「2012年のシーズンが終わった時期に母に電話しました。それまでは電話をしても私が落ち着くまで話を聞いていた母が『こっちに戻ってくる?』と言ってくれて、競技に区切りをつけることにしたんです。母は何度も仕事を休んで愛知まで来てくれたり、実家で飼っているペットの写真をメールで送ってくれたり、苦しいときはいつも支えてくれました。私の限界を察して逃げ場があることを示してくれた母には本当に救われました」

地元に戻り、社会復帰へ

 2013年3月にデンソーを退職。同年4月、地元の日田に戻った。

「退職したあとも母は『ゆっくりしなさい。動き出したくなるまで仕事はしなくてもどうにでもなるよ』と優しかった。日田に戻った当時は燃え尽きて灰のようだったので、本当に助かりました」

苦しいときは家族が温かく支えてくれた(本人提供)

 長期にわたる減量でボロボロになってしまった心と体を、地元日田の空気が癒した。1か月は何もせずゆっくり過ごすと、少しずつ回復していった。

「できることから始めよう、と地元のハローワークに出向いて、スポーツ施設で働き始めました。新しい生活に少しずつ体を慣らすと、人の視線も気にならなくなり、普通の生活ができるようになりました」

 社会復帰をすると、自然とセカンドキャリアのことを考えるようになった。

「スポーツ施設で子どもの水泳教室のお手伝いをするバイトをしながら、今後のことを考え始めました。ただもう28歳になる年だったので、年齢ではじかれる職業も多くて。その中でも昔やりたかった看護の仕事なら、今からでも目指せるかなと思い、まずは看護の学校に入るために勉強しようと」

恩師のもとで“運命の出会い”が

 看護の道へ進もうと決めアルバイトに区切りをつけたタイミングで、運命が大きく動いた。

「恩師がボート部のトレーニングにワットバイクを導入するから『真奈美もおいで』と誘ってくれて、最後に皆で体験として測定をしてみたら、数値が良かったんです。その数字を見たワットバイクの方が『ガールズケイリン、どうですか』って声をかけてくれたんです」

 ガールズケイリンとの思わぬ出会い。だが、すぐに答えは出せなかった。

「精根尽き果ててボートを辞めている私が、またスポーツをやれるのか不安もあったし悩みました。でもワットバイクの大木社長はボート競技時代の私を知っていてポテンシャルを買ってくれていたんです」

 そんな大木社長に勧められ、ガールズケイリンへの興味はふくらんだ。帰宅して家族でガールズケイリンを検索、YouTubeで動画を見て挑戦したい気持ちが湧き、大木社長に会うため東京を訪れた。

「大木社長が交流のあった後閑信一さん、中村由香里さんと話をする機会を作ってくださり、京王閣競輪場を訪ねました。1期生の中村さんが学校の先生を辞めて挑戦したというお話が印象的で、年齢は関係ないということを知りました。ボート競技は減量生活が厳しかったけど、競輪は食事をしっかりとって健康的にスポーツができる最後の機会かなと思いました。ここまでいろんな方とつながったことも縁だと思って、ガールズケイリンに挑戦することを決めました」

(撮影:北山宏一)

自転車のセンスなし!?「一発合格じゃなければ諦める」

 地元に戻り、競輪選手を目指すために問い合わせると日田から最も近い久留米競輪を紹介された。そして当時選手会の支部長をしていた藤田剣次に弟子入りすることになった。

 当時から久留米はガールズケイリンの強豪選手が集まっていた。106期の小林優香が日本競輪学校を卒業しデビューを控えている状況で、林は110期の試験を目指して自転車に乗り始めた。

「師匠からは『試験まで時間があるし、まず自転車に乗ろう。適性ではなく技能で受かるように練習をしていこう』と言われました。でも自転車に乗り始めても特別なセンスはないと自覚しました。当時の久留米は(小林)優香がデビューして、(児玉)碧衣が競輪学校に入学して、1期下に高校で活躍している(大久保)花梨がいて…。今は笑って話せるけど、当時は比べられるのがつらかったです」

 当時から次々に若きスター候補が出現していた久留米で、“オールドルーキー練習生”の林は久留米のレベルを下げてしまうと肩身の狭い思いをしていた。厳しい言葉もあったが、すべては自身の将来を思ってのことと受け止めていた。

「久留米では、優香や碧衣のようなセンスはないねと言われていました。ただ自覚もあったから、しっかり練習だけはやりました。師匠からは『スポーツ経験者は1回で受からないなら辞めた方がいい。プロになってからも厳しいと思うから』と言われていて、自分も競輪学校の試験も1回で受からなかったら諦めようと思っていました。年齢的にも厳しいと思っていたので」

(撮影:北山宏一)

 ボート競技時代との大きな違いはやはり食事だった。体重を気にせずしっかり食事をとり、時には甘い物も食べてしっかりトレーニングをする。きわめて健康的な生活を送ることができた。なにより110期の競輪学校の試験に向けて、練習だけはとにかく一生懸命にやり切った。

競輪学校に一発合格、急成長遂げる

 入学試験を目前にしても不安は消えなかったというが、無事に1次試験を突破。学科と面接の2次試験は難なくクリアし、一発合格で日本競輪学校への入学をつかみとった。

 110期では“年上組”として競輪学校の門を叩いた。

「それまでは周りにレベルの高い久留米の先輩期がいてプレッシャーを感じていたけど、入学後は同期に助けられました。自転車のことは全くの素人でしたが、高卒現役組で自転車競技をやっていた鈴木奈央ちゃん、大谷杏奈ちゃん、坂本咲ちゃん(引退)はとにかく優しくいろいろ教えてくれました。人のことを思いやることができる生徒がそろった110期で本当によかったです」

 1年間の学校生活で力を付け、在校成績は4位。卒業記念レースでは決勝進出も果たし(7着)、「センスがない」と感じていたのが嘘のような好成績を残した。

デビュー後すぐに結果を残す

 30歳でデビューした林。初戦は2016年7月の松戸だった。予選2走を3着、2着で決勝に進み、尾崎睦との力勝負に打って出て惜しくも準優勝。デビュー2場所目の小倉初日には最終2角4番手からまくりを決めて初勝利。7月から12月までの12場所で全て決勝進出と好スタートを決めた。

 2年目の2017年5月小倉では初優勝も達成。はたから見ると順風満帆な選手人生をスタートさせたように思えるが、本人の感覚は違ったそうだ。

「昔のことはあまり覚えていないんですよ。こうやって成績を言われて思い出すくらい。優勝は1年以内にはできないなと思っていたので、小倉で優勝できたことはうれしかったです」

安定した成績の裏で抱えていた悩み

 その後も成績こそ安定はしているが、殻を破れないモヤモヤを抱えていた。そんなときにきっかけをくれたのは同期の存在だった。

「自転車に乗り始めたころから“乗れている感じ”がなかったんです。自分が自転車と繋がれていないと悩んで、中嶋里美に相談しました」

 林はボート競技で、状況に応じたセッティングを自分で考えて恩師に提案する習慣があった。自転車もセッティングが重要なスポーツだが、周囲には師匠の出したセッティングで感覚をつかんで、結果を出す選手が多かった。

「久留米のガールズはみんなセンスがある。でも私は自分で考え体感して納得しないとダメなタイプ。自転車のセッティングも自分で考えたかったけど、どうすればいいか分からなかった。そんなことをさとちゃん(中嶋里美)に相談したら、広島の吉本哲郎さんを紹介してくれた。剣次さんに相談して、哲郎さんのところに練習に行かせてもらいました。そしたら『悩んで、模索することはいいことだよ』って肯定してくれたんです」

 選手のレベルが高い久留米は良い練習環境だが、年齢を重ねてから転向した林にとっては考え方の違いに混乱してしまうことも多かった。師匠の理解を得て環境を変え、自分の気持ちを出せるようになった。

「広島で練習させてもらって、試行錯誤することは悪いことではないと思うことができて楽になったんです。そこから自転車に乗れている感じも出て、成績も良くなりました。哲郎さんとの出会いがなかったら、プレッシャーに押し潰されていたかもしれないですね」

 吉本を頼った2019年春以降は感覚を掴み、メンタル面も安定。成績は右肩上がりになった。その後はコロナ禍で他県での練習がやりづらい状況になってしまったが、今度は久留米の仲間が林真奈美を支えてくれた。

「広島での練習ができなくなってしまい、一人で考えて練習することが続いていた自分に田中誠さんが声を掛けてくれたんです。バンクでバイクを使って引っ張ってくれたり、一人ではできない練習に混ぜてくれて。自分から誠さんたちの練習グループに正式に入りたいとお願いしました。ちょうど優香がナショナルチームを引退して戻ってくるタイミングも重なって、一緒に練習させてもらうようになりました」

伊豆から久留米に帰ってきた小林優香と(本人提供)

不調に落車、スランプ中に入った朗報

 2022年には優勝7回とキャリアハイの戦歴を残した。しかし2023年は後半から流れが悪くなり始めたと振り返る。

「感覚が悪くなる、セッティングが迷子になる、体調も崩す…。悪いことが重なりました。今年に入ってから予選敗退が2場所連続で続き、2月に入って最初に岐阜で落車。1回休んで仕切り直せと言われているような気がしました」

 岐阜の落車は肩鎖靱帯の損傷。選手生活で落車は何回もあったが、それらとは違った感覚だったという。それでもネガティブにならず、焦らず治していくことを第一に考えていたところ、後輩から思わぬ一報を聞く。

「とにかく保存療法。負荷を掛けず何もしないことが一番の治療だった。そんな時期に後輩から『真奈美さん、久留米のオールガールズクラシック出られますよ』って言われて。出られると思っていなかったのでビックリでした。治療でお世話になっている方に相談をしたら、4月末なら間に合うかもと言われたんです。それなら久留米のオールガールズクラシックでの復帰を目標に頑張ろうと思った。同じ時期に優香も落車をして肩を痛めていたので、ふたりで『痛いね、しんどいね』と励まし合いながらトレーニングをやっていきました」

練習仲間の後輩、124期の枝光美奈(奥)と126期の高木萌那(本人提供)

地元GIで復帰、存在感をアピール

 復帰戦となった4月の久留米GI・オールガールズクラシック。地元バンクでの大舞台に、たくましくなった林の姿があった。

「3月の時点でまだ上半身はあまり使えないけど、下半身の練習はできていた。競輪選手としては細かった脚やお尻のトレーニングをしっかりやってボリュームが出た。持っていた服はパンパンになったけど、選手としてはうれしかったです」

 3日間走り5、4、2着の結果で終わったが存在感は大いに発揮した。

「復帰1走目はレースができたことがうれしかった。ちぎれることなく集団でゴールできて、無事に走れた。最終日は自力を出すレースをしようと決めて臨んだ。落車をしてから計画的にやってきた練習の成果を体感できるチャンス、どう転んでも収穫があると気持ちを強く持ってレースに向かいました」

 結果は石井寛子にまくられてしまったが、先行して2着。多くのガールズケイリンファンに復活を強くアピールした。

「落車して良かったとは思わないけど、落車して走れなかったことに意味を持たせることができたかな」

地元GIに“久留米ガールズ”が集結

またGIの舞台に戻るために…

 久留米の後の松山でも準優勝。今年前半まで続いた悪い流れは断ち切れている。

「今年は久留米のオールガールズクラシックがたぶん最後のGIだと思う。今年は気持ちをリセットする時間だと思っています。一戦一戦、自分の力を出し切ってやり直す時間。来年またGIに出るための時間にしたいと思います」

 兄たちを追いかけて始めたボート競技。限界まで追い込んだが、五輪出場の夢は破れてしまった。しかし縁がつながり、ガールズケイリンに巡り合った。

 どんなに苦しい時も、縁を通じて這い上がってきた。久留米で一緒に高め合うガールズケイリン選手との縁、同期の縁、練習仲間との縁がつながって今がある。

 林真奈美の2024年は、大きく羽ばたくための1年になりそうだ。

(撮影:北山宏一)

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すっぴんガールズに恋しました!

松本直

千葉県出身。2008年日刊プロスポーツ新聞社に入社。競輪専門紙「赤競」の記者となり、主に京王閣開催を担当。2014年からデイリースポーツへ。現在は関東、南関東を主戦場に現場を徹底取材し、選手の魅力とともに競輪の面白さを発信し続けている。

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