2019/01/19 (土) 05:36
深夜にパソコンをいじっていると『アトランタ五輪銅メダル、十文字が引退』という記事に引っかかった。そこには2019年1月15日付けで選手登録が消除されていたという。十文字貴信(茨城75期)クラスの選手ならば、もっと派手な幕引きもあったのではとも思ってしまう。引退会見もなし、本人のコメントもなしでは寂しい限りだ。
今から23年前に十文字は彗星のごとく現れ、アッ!という間に1996年アトランタ五輪の出場権を得た。当時、ケイリンは種目になく、1kmタイムトライアルとスプリントが目玉だったと記憶している。代表選考会となる「全日本プロ選手権」の1kmタイムトライアルで優勝。神山雄一郎(栃木61期)が優勝候補の筆頭と見られていたが、相手にしなかった。
五輪では最終走者のS.ケリー(オーストラリア)がスタート直後、クリップバンドが外れ走行不可能になるアクシデント。当時、ケリーは世界チャンピオンで金メダルの最右翼。運も味方した格好だが、それでも日本人として2人目、プロとして初のメダルを獲得した。1984年ロサンゼルス五輪スプリントで坂本勉(青森57期・引退)が銅メダルだが、当時の坂本は日本大に在学中だったからだ。それ以前はプロに門戸が開かれておらず、アトランタ五輪からプロアマが一つになったばかりだった。
競輪ではまだ実績がなかった十文字であったが、五輪メダルの特例でKEIRINグランプリ1996に選抜された。結果的には落車で終わったものの、先行して大いに見せ場は作っていた。アトランタ五輪のスプリントに出場した神山とその後は何度も連携して“アトランタライン”とも呼ばれた。とは言っても、勝つのは神山ばかり。十文字は逃げるだけの印象しかなかった。2000年シドニー五輪には出場しないで競輪に専念。S級1班まで上り詰めたが、華々しい記録は残っていない。度重なる落車による骨折と、持病の腰痛で本来のパフォーマンスができなくなっていった。そして、どんなことがあってもついて回る“五輪メダリスト”のプレッシャーもあったのではないだろうか。
筆者は十文字に数回、取材したことがある。もう20年近く前のことだが。印象は爽やかな好青年。一つ、一つの質問に、丁寧に答えたくれた。これが五輪メダリストの対応なのかと、感心したものだ。もちろん、他の競輪選手の対応が悪いとは言っていない。だが、十文字だけは特別なように思えた。
確かにここ数年、競輪場で彼の姿を見る回数は減った。落車の後遺症以上に、腰痛がひどかったらしい。歩くことも困難だと人伝に聞いたことがある。満足いくパフォーマンスができなくなった以上は“五輪メダリスト”としてのプライドも許さなかったのだろう。今後について触れているマスコミはなかった。彼にも考えはあるだろうが、ナショナルチームのスタッフとして招聘(しょうへい)してみてはどうだろうか?十文字なら実績は申し分ない。現在の五輪種目に1kmタイムトライアルはないにしても、五輪メダリストの言葉には説得力がある。これだけの人材を競輪界が放っておいてはダメだろう。十文字がこの業界に残した業績は忘れてはならない。もっとリスペクトされてもいいくらいだ。東京五輪を間近に控えた今こそ、十文字の名前をそこで聞いてみたいと思うのだが。
岩井範一
Perfecta Naviの競輪ライター