2018/11/01 (木) 12:29
いきなり目に飛び込んできたスポーツ新聞の記事に、思わず目を疑ってしまった。以前、このコラムでも触れた市田佳寿浩(福井76期)が引退するというものだった。先月の23日に市田は奈良競輪場で記者会見を行い、バンクを去ることを報告したのだった。なぜ福井籍の市田が奈良で?となるが、24日に近畿地区プロ自転車競技大会が奈良競輪場で行われた為(23日は前検日)、そこに席を設けたのだそうだ。盟友とも呼ばれ、共に近畿地区を引っ張ってきた村上義弘(京都73期)が花束を手渡すと、市田は堪え切れなくなって目を潤ませたという。スポーツ紙の引用になるが、村上は市田に対し「兄弟」と、言ったそうだ。血の繋がりはなくても、それだけ深い絆で結ばれていたのだろう。
2010年のG1寛仁親王牌(前橋)で悲願のタイトルを獲得。既にG2は2006年にサマーナイトフェスティバル(函館)、2010年の西王座戦(玉野)を勝っているものの、なかなかG1には手が届かずにいた。
G1寛仁親王牌の決勝はこの大会がG1初出場の脇本雄太(福井94期)が先行。2番手の村上が番手捲りを放ち、ゴース寸前で市田が村上を捕らえた。何度も跳ね返されたG1の壁をデビュー15年でようやく超えた。余談ながら……その時は勝った市田より、脇本が人目もはばからずに号泣していた姿が筆者の記憶に残っているのだが。
初タイトルを獲った後、市田は怪我に泣かされ続け、大舞台からも少しずつ遠ざかっていた。昨年3月に行われたG2ウイナーズカップ(高松)の初日に落車し、右大腿骨頭粉砕骨折。いわゆる股関節、競輪選手にとって致命的とも言える大怪我だった。年齢も考え、復帰は難しいだろうとも言われていた。だが、市田は患部に人工股関節を埋め込み、苦しいリハビリに励んだ。今年5月の地元・福井で復帰。実に1年2ヶ月ぶりのことだった。期変わりの7月には22年間、守り抜いてきたS級からA級に陥落しながらも、ファンの声援に応えるべく、熱い走りを見せてくれていた。誰もが再びS級での市田の雄姿を期待していた矢先の引退であった。
市田のことを“人格者”だというマスコミ関係者は多い。確かに筆者もそれは感じる。加えて、市田の言葉には説得力があるものだった。決して口調は激しくないのだが、一つ、一つの言葉に重みがあった。一時期、村上がレースから遠ざかっていた際、市田は先頭に立って近畿勢をまとめてきた。これほどまでに引退が惜しまれるのは市田の生き様、性格や人柄によるものだろう。
市田が引退を発表した数日前、脇本がワールドカップ第1戦フランス大会のケイリンで金メダルを獲得した。その脇本は市田の引退を知らされていなかったそうだが、これも市田の優しさだろう。東京五輪の枠取りが懸かる大会前に余計な心配はさせられない、そんな意図があったのだろう。常に周囲へ気配りができる市田らしい話しだ。
今後の動向は未定らしいが、競輪界が彼を放っておくとは考えられない。後閑信一、鈴木誠が引退して、現在は評論家として活躍を始めたところである。賛否はあるだろうけれども、彼らの視点は新鮮だ。筆者の勝手な願いになるが、市田もマスコミ関係の仕事に就いてくれないだろうか。
岩井範一
Perfecta Naviの競輪ライター