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【新田祐大独占インタビュー・前編】東京五輪という目標、ブノワとの絆が「不安から信頼」へと変わった瞬間

2021/09/02 (木) 18:00 8

ロンドンから足掛け9年五輪に挑み続け、世界を相手に自転車競技の舞台で戦ってきた新田祐大選手。競技の前線からの引退も発表し、1つの節目を終えた今、東京五輪までの5年間を振り返る。18,000字のロングインタビューとなったため、《前編》《後編》に分けてお送りする。

《前編》では、日本代表ヘッドコーチ・ブノワ・ベトゥコーチとの初対面から信頼関係を築くまでの過程、競技に向かう葛藤の日々、東京五輪開幕からスプリントまで。前編・後編ともに、1人のアスリート・競輪選手として今後どのように進みたいか、競技と競輪界のために貢献したいことなど織り交ぜて語り、非常に濃い内容となっているので必見だ。(取材・構成=netkeirin編集部 神島由圭)

※このインタビューはZoomで行いました

東京五輪からオールスター競輪、松戸競輪という強行スケジュールの中、取材に応えてもらった(写真:島尻譲)

ロンドンとは全く違うコンディションで臨めた東京五輪

ーー前回出場されたロンドン五輪以降と比較して精神的・肉体的な面でコンディションはいかがでしたでしょうか?

 ロンドンの時に関して、メダルを獲得するという観点では難しかったのかなと感じていました。

 一方、今回(東京五輪)は、メダリストを何人も指導したブノワ・ベトゥコーチのもとですごく説得力のある過酷なトレーニングを日々積むことができ、肉体的にほぼ完璧な状態で五輪に挑むことができました。

ーー新田選手はブノワコーチにはかなり信頼を置かれていたようですね。一方でロンドン五輪の時には悔いが残るような感じだったのでしょうか。

 ロンドンの時は悔いというよりは、「本当にメダルってこれで獲れるのかな」と不安が残るような感じでした。ロンドンに出発するまでの間に、メディアから半ば「メダルを獲りたい」と言わされていたような感覚がありました。

 自分の口から自分の気持ちで「メダルが獲りたい」「獲れるであろう」と思って発言したことは基本的になく、正直参加する事がゴールだったという感じがありました。もちろん適切な発言ではないので控えていましたが。

 僕が出た種目はチームスプリントという競技で、メダルが獲れたらいいな…という淡い期待がありましたが今回は全く違う状態で、メダルを狙いにいける状態で始まりました。

ブノワ体制、不安が信頼に代わる5年間

ーー精神的にも大きな違いがあったという事ですね。

 ブノワには5年間精神面もすごく鍛えられました。特にブノワ体制が始まった最初の2017-2018年の間はキツいトレーニングにも関わらず全く結果が出ず、本当に正しいトレーニングが出来ているのかなと思いながらやり続けていた部分もあり、肉体もそうですが精神的にもかなり大変でしたね。

 ただ僕自身は2018年の世界選手権でメダルを獲れなかったのですが、チームメイトの河端朋之選手が男子ケイリンで銀メダルを獲得したんです。世界選手権というのはオリンピックに近く、そのためだけにみんな調整してくるので、勝つべくして勝つんです。だから、そこでずっと一緒にトレーニングしてきた河端選手がメダルを獲れたのを見て、やってきた事は間違っていなかったなと確信しました。

 自分がメダルを獲れなかったのは、日ごろのトレーニングや生活の中でまだ足りない部分があったのではないかと考えるようになりました。そこからブノワから教え込まれた精神論などを自分なりに咀嚼し、解釈して実行したりすることが出来て、翌年の世界選手権での銀メダルを獲得に繋がったと思います。結果が出て、彼の精神論が理解出来るようになりましたし、東京五輪に向けて精神的にも整ってきたという風に思いました。

UCIトラック世界選手権「男子ケイリン」表彰式。銀メダル獲得時(2019年)(写真:アフロ)

競輪と五輪の両立、皮肉屋ブノワに初めは反発も

ーー新田選手は2017年の競輪は51回の出走、2018年でも20回とすごく数が減っています。一気にこれだけ競輪の出走が減っているというのは、このあたりから五輪に賭けようという気持ちが強かったのでしょうか?

 僕の場合、その前の段階から他の競輪の選手と比べても、競輪の出走レースって圧倒的に少なかったと思います。多分2012年以降、徐々に減っていって2016年以降は本当に少なくなってきているんじゃないかな。五輪に対して想いが強いから出走本数を減らしたという感じではなくて、どちらかというと1本1本の競輪の成績を高めるっていうところに重点を置いて取り組んできたので、トレーニング期間をしっかり取ることを大事にしていました。

 さらに、ブノワ体制になってブノワから「本当はオリンピックまで競輪を一本も走らないでほしい」と言われていました。彼は日本の競輪を全く知らない状態で入ってきていて、かなり僕としてはイラっとした部分もあったりました (苦笑)。

ーーイラっとされたんですね(笑)。

 はい。僕は当時、競輪のタイトルを常に獲っている状態でナショナルチームにいて、他の選手はタイトルを獲った事のない選手たちという状況でした。ブノワに「日本代表選手たちの中には競輪で活躍している選手がいる。ただ日本の競輪の選手というのは世界で活躍できない」みたいな事を言われて。さらに、「そんなところで戦っていて世界で通用する訳がない」と (苦笑)。

短距離種目ヘッドコーチとして2016年に就任したブノワ・ベトゥ氏(提供:日本自転車競技連盟)

ーー最初のうちは内心で反発もあったのでしょうか。

 ブノワから出走本数を減らして欲しいと言われたわけですが「だからと言って減らすわけにはいかないでしょ」みたいになっていて。僕としては競輪の中でGI・GIIは必ず出ないといけないと考えていました。「世界選手権など海外のレースに向けての調整は必要かもしれないけど、競輪のGI・GIIは重要なのでそこを削ることは考えていない」っていう話もしました。

 それでも彼は「国代表のほうが大事に決まっている!」と言って、コーチとしての自分の発言権を強くするために国際大会で選手に結果を出させる事を最優先にしていたんです。なので、結果として五輪に向かっていくために僕の競輪の本数が減っていった方向に繋がっていて競輪から学びながら、最低本数をできる限り守りたいと思っていました。例えば年間6回のGIは必ず走りたいっていう気持ちは常にありましたが、五輪の3年前からGIの出走本数は3回〜4回に減っています。

ブノワが話した「結果は痛みとともにある」の本当の意味

ーーブノワコーチが競輪の方に出ないでと言った理由はなぜでしょうか?

 1番は怪我のリスクですね。何事においても怪我は駄目だっていうことは言っていて、トレーニングの中でも必ず言っていましたし、海外のレースに行った時も怪我をすることは何の意味もないと言うことを繰り返していました。唯一怪我をしてもいいのは優勝して転んだ時だけだと。

ーー意外ですね。ブノワコーチは「結果は痛みとともにある」という言葉を残しているので。

 彼が求めている結果は五輪の金メダル。そのために、トレーニングで乳酸が溜まった時の肉体的な痛みや、つらいことを乗り越える時の精神的な痛みがあるのは仕方ない。ですが怪我の痛みは全く必要ないと言っていました。「メダルを獲るためだったら何をしても良い。ただ、怪我をした事によって金メダルに近づくことは基本的にない、時間をロスするだけだ」と。

ーーレース中に攻めすぎたり、無理に突っ込んだりはしないでという感じだったんでしょうか?

 レースの中での怪我…落車等については「逃げ道だ」って僕らにも事あるごとに言っていて。それはどういうことかというと、転んだことによって次のレースに出られなくなるわけです。例えばレースが続いていて2日目に転んでしまって3日目のレースが出られないとか、勝ち上がりで負けてしまったという場合に「転ばなければその後も戦えたけど、落車したってことは自分でそのレースを放棄したんでしょ」っていう事を言われていて。僕たちの中では一生懸命やって“少しでも良い着順を獲りたい”と思ってシビアなコースを攻めてみたりして、結果として転んじゃったりもするんですけど、それが絶対許されない。

 結果として金メダルだったらそれは100歩譲ってしょうがない怪我だったとは言われると思います。それでも基本的には怪我は駄目だと言われていて。僕たちは怪我をしてもその次のレースを走ったりしなくてはいけないこともあります。大怪我であっても、骨折であっても、骨折した場所によってはそのまま次の日トレーニングという場合もあったりするんですよ。

 実際、僕自身骨折はなかったですが、山での走行中に崖から落ちてしまって、翌日から再開とはいきませんでした。しかし、出来る限り効果のある練習方法やメニューを組みトレーニングをするっていう事はありました。

ーー崖から落ちてからの再開はかなり大変そうです。

 苔が生えている山の下り坂で、見えなくて滑ってしまい、急カーブだったのでそのまま崖みたいになっているところに突っ込んでしまいました。僕はそんな感じですけど、他の選手とかも練習中に落車してしまって骨折した人はいました。

 キツいトレーニングになった時にブノワは「全ては脳が決める」と語りかけてきます。「自分でトレーニングを止めたいと思った時にトレーニングを止めているだけだから、トレーニングを止めたくないと思えばいつまでも続けられる」と。

骨折しても戻ってくる監督の熱意、次第に感化される選手たち

 キツいトレーニングになった時にブノワは「全ては脳みそが決める」と語りかけてきます。「自分でトレーニングを止めたいと思った時にトレーニングを止めているだけだから、トレーニングを止めたくないと思えばいつまでも続けられる」と。

ーー相当厳しいですね。

 その限界が来た時に選手が転んじゃった時がありました。その転んだところにブノワも一緒に追従していたので、彼も骨折してそのまま運ばれましたが、翌々日には普通に練習に来ていました。

ーーブノワコーチ自身も驚異的な強さです。

 コーチングをしにすぐに戻って来ました。そういう姿勢が僕たちへの説得材料にもなっていて。そういう人がコーチングをするのなら僕たちも諦めずにやろうという。常にトレーニングにも挑み続けなければいけないなという気持ちでやっていました。

ーー背中を見て、という部分もあったんですね。練習は脇本雄太選手や小林優香選手と主にされていたような感じでしょうか?

 小林・脇本に限らずナショナルチーム全員ですね。

ナショナルチームで共に戦った(左から)脇本雄太、小林優香、新田祐大(提供:日本自転車競技連盟)

ーー脇本選手、小林選手をはじめナショナルチームでは普段お話されたり、プライベートの交流はどのようにされていましたか?

 チームで毎日集まるので練習中に談笑するぐらいだったと思います。1番プライベートでも色々な話をしたり、チームの成績を上げるために相談をしていたのは深谷(知広)ですね。

競輪の感覚を忘れてしまう不安は常に抱えていた

ーー競輪を休んで自転車競技を優先する不安はありましたか? 金銭面だったり、競輪での地位が落ちてしまうのではないか…というような。

 ありました。「競輪を走らない=感覚もズレていってしまう」という懸念もあるのですが、そもそも走らないから結果が出ないじゃないですか。僕たちナショナルチームが五輪に向けて練習している間にも、競輪はずっと続いていて、松浦がどんどん強くなってきたり、清水に安定感が出てきたりとか…そういう風に変わっていく中で、戻る場所はあるのだろうかと考えたこともありました。ナショナルチームのメンバーはタイムや海外での成績で自分の成長を確認しますが、これが競輪に直結するのかなっていう不安があったりはしましたね。

ーーむしろずっと競技をやられていたから、競技が人生としてはメインという意識でしょうか?

 自転車競技をやっていた理由というのも、もともとオリンピックに興味があったからというのが大きいです。それに自転車競技をやり続けるメリットとデメリットを考えた場合、今まで話してきた内容と矛盾して聞こえる部分もあるかもしれませんが、メリットの方が大きいと考えていました。その理由としては、世界一を目指した結果、日本一にはなれるけれど、日本一を目指した結果、世界一にはなれないからです。

 外国人選手が今までに短期登録制度で日本の競輪を走っているのをみて、圧倒的なレベルの違いを感じました。過去SS級がいない時はGIを獲るような選手たちが全然敵わないのを見ていて、海外のすごく強い人選手たちが競輪に来たらこんなに簡単に勝ってしまうんだっていうのを目の当たりにした時に、競技をやることに間違いはないなと改めて思いました。

 ライン戦で日本人選手が多い時には勝てることもありますが、日本人選手:外国人選手が6:3や7:2になった時には、やはり外国人選手に何をやっても勝てないという状況に陥るんですよね。

人生の先輩たちからのアドバイスに勇気づけられた

ーー東京五輪開幕前に、ご家族や仲間あるいは先輩からどのような言葉をかけられましたでしょうか? その中で印象に残ってるものなどありますでしょうか?

 僕自身かなり精神的にも肉体的にもキツいと思っていた時期が2016年から世界選手権でメダルを獲る2019年までの3年間でした。ただ、そんな中で競技とは直接関わりのない方たちと一緒に食事をして、有意義なお話を聞く経験がありました。

「2018年頃だったと思いますが、続ける理由やメリットが見えてこない。辞めた方がいいのかな」という話をその方たちにした際 、「あと2年でオリンピックが終わるから、その2年間だけはやりきった方が後悔しないんじゃないの?」と人生の先輩としてアドバイスをいただきました。勇気づけられましたし、最後までやりきる原動力にもなっていたと思います。

ーーむしろスポーツ以外、自転車競技以外の方からの言葉の方がスッと入ってくるというような場合も。

 そうですね。会社経営者の方などが、社員をたくさん抱えてやっている中での不安や、様々な葛藤があるというのは聞いていたので重なる部分もありました。僕たちアスリートのような肉体的な疲労感とは違うと思いますが、精神的な部分で苦渋の決断をしないといけない場面など、積み重なっていく苦痛があると思います。そういう人たちの言葉を自分の立場に置き換えて、心の中で励みにしていました。

ーー【netkeirinのインタビュー】中に中川誠一郎さんが“新田にしかわからないようなエール”を送るとおっしゃっていました。「今回はスタートがないから安心して金メダルを取ってね!」これはどういう意味なんでしょうか?

開幕直前に“アスリート目線で”エールを送った中川誠一郎(写真:島尻譲)

 ロンドン五輪の時に僕と(中川)誠一郎さんと(渡邉)一成さんの3人でチームスプリントに出場していました。僕が1走、2走が一成さん、3走が誠一郎さんという順番です。

 予選でスターティング・ブロックから発走した時に僕のペダルが外れたんです。予選1回目のスタートでフライングをしてやり直しになった状況もあり、2回目の発走はどんな事があっても止めちゃうともうそこで失格なんです。

 競輪のペダルと違って競技用は1回外れると嵌らないので、もう1回戻して踏み込もうというのが出来なくて…片足でなんとか走って乗り切る事だけを考えてレースに挑みました。レース後に、誠一郎さんたちが「新田、大丈夫か」と言っていて、ペダル外れたということを話しました。

 1回戦では9チーム中8チームが勝ち上がるので、1チームだけが落ちることになります。僕のタイムだけだともう確実に9番目でしたが、誠一郎さんと一成さんが巻き返してくれて何とか8番目で予選通過。そんなこともあって、誠一郎さんがあのメッセージをくれたんじゃないのかなと思います(苦笑)。

ーーちなみにそのメッセージは読まれていましたでしょうか?

 はい。笑っちゃいました(笑)。

五輪開始、初戦スプリントでは予想外の敗戦

ーー東京五輪がはじまってからはどのようなスケジュールでしたか?

 生活やトレーニング場が変わるということはありませんでした。僕たちはホテルにアスリートハウスという日本チームの拠点を作って皆で寝泊まりして、そこから練習に行くという感じでした。有明の選手村は競技会場の伊豆ベロドロームと地理的に離れているので使わず、自転車競技開始5日前くらいに伊豆に特設の選手村を作りました。

ーー開幕式の日はどうでしたか?

 ナショナルチーム皆で食事をしながら、20時からの開会式を観ました。

出走直前の新田とブノワコーチ(写真:AP/アフロ)

ーー初戦のスプリントについて振り返っていかがでしょうか? ブノワコーチからアドバイスなどはあったのでしょうか?

  結果として予選で敗退してしまいましたが、過去予選で敗退してしまったことは、ブノワの着任初年以来だと記憶しています。最近に関しては勝ち上がることが当たり前で、勝ち上がり後に誰が対戦相手かを見て、どう戦うかを考えて…という流れが当たり前でした。直前の練習でのタイムもよかったので、今回の脇本くらいのタイムは出るだろうと、そして、恐らく下位選手と当たるだろうからどういう戦いをするかみたいな話をしていたくらいで。

 ところが、いざスタートしてみたらタイムが全く出ていなかったので「これはマズったな」と思いました。悔しいというよりもどうしてだろうと…。ブノワも「こういうタイムになったのは悔しいだろうが、ケイリンに切り替えよう」と。その日は一応最後のレースまで見て帰りました。

続きは《後編》へ。

《後編》では、人生で一番緊張したというケイリンでの心境と脇本選手との秘話。そして五輪直後に地元で開催されたオールスター競輪、秋以降のビッグレースに向けての意気込み、「今後日本の自転車競技者がメダル獲得のために何が必要か?」など後継育成の話題も…お楽しみに!9月6日公開予定です。

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