アプリ限定 2024/12/08 (日) 16:30 51
日々熱き戦いを繰り広げているガールズケイリンの選手たち。その素顔と魅力に松本直記者が深く鋭く迫る『すっぴんガールズに恋しました!』。今回は引退した元競輪選手・康雄さんを父に持つ“2世レーサー”鈴木彩夏選手(29歳・東京=110期)。競輪学校での落第、デビュー直前に大ケガを負うなどデビューまで一筋縄ではいかなかった鈴木。不振や落車負傷を乗り越えて、デビュー9年目にして初優勝に期待がかかっている。
千葉県松戸市出身の鈴木彩夏。父は競輪選手の鈴木康雄(53期・引退)だ。小さいころから運動神経が良く、ドッジボール、バスケットボール、水泳、陸上競技と何をやっても器用にこなした。
中学生になると、「仲の良い先輩がいたから」とフランクな動機で柔道部へ。格闘技経験はなかったが、県大会に出場するなどセンスの良さを発揮した。高校は松戸市立松戸高校への進学を希望したが、中学の担任からは市立松戸高校より偏差値の低い高校を薦められた。
「スポーツの強豪校だったので、市松(松戸市立松戸高校の略称)に通いたかった。でも小さいころから勉強が苦手で…。必死で勉強しました」
念願の第一志望校へ入学した高校1年の春、いろんな部活動を見学して、女子サッカー部への入部を決めた。
「2011年、女子サッカーのワールドカップでなでしこジャパンが優勝しましたよね。自分も女子サッカーを見ていて、やってみたいと思いました。高校3年間は部活に熱中。自由な雰囲気だったので楽しくできました」
部活に打ち込む一方で、高校卒業後の進路は悩んでいた。
「小さいころからこれと言ってやりたいことはなくて…。進路相談では一応美容系の仕事を希望して、説明会も行ったけど…」
すると、そんな彩夏を心配した父が「ガールズケイリンはどう?」と声をかけてきたという。
「ガールズケイリンが始まったことは知っていました。でも自転車の経験はないし、最初は選択肢になかった。そうしたら父が『選手になったら勉強しなくていいよ』って言うんです(笑)。部活は4月で引退だったので、5月に自転車を組んでもらい、父と松戸競輪場で一緒に練習をしていました」
最初は流れのままに競輪学校受験へ動き出した鈴木彩夏だったが、気持ちにスイッチが入ったのは高校3年生の夏に体験した『ガールズサマーキャンプ』だった。そこでは同じ目標に向かう仲間との出会いが待っていた。
「一番最初に仲良くなったのは(児玉)碧衣ちゃんでした。いきなり『クリップバンドって何?』って声を掛けられてビックリした。同じグループには(引退した東口)純さんもいて、ガールズサマーキャンプ中は一緒にいましたね。キャンプの終わりにグループLINEを作って『これから試験に向けて頑張っていこうね』って話して別れた。みんなで一緒に競輪学校に入りたいって気持ちになりました」
競輪選手になりたいと決意を固めてからは練習に打ち込んだ。当時現役だった父と一緒に朝5時に競輪場へ行き練習。昼間は高校に行き、夕方はまた競輪場に戻って練習という日々を繰り返した。
そして迎えた108期の入学試験。伊豆修善寺の競輪学校で行われたが、思わぬハプニングが起きた。
「お父さんが用意してくれた自転車の車輪が検車を通らなかったんです。いきなり慣れていない車輪で1000メートルの技能試験を受けることになってしまって…。もうパニックで泣いていたし、あの時はお父さんを恨みました。でもなんとかやり切って、結果を待ちました」
借りた車輪で走るという状況にもベストを尽くし、1次試験はクリアした。苦手だという勉強が含まれる2次試験も突破。108期としての競輪学校入学が決まった。
「試験の結果は高校で見ました。友だちも喜んでくれたし、すぐ両親にも連絡をしました」
入学が決まったあとは、練習を続けるとともに社会経験として松戸競輪場でアルバイトもしていたそうで、「特別観覧席でお茶くみをしていました。競輪ファンの人にも会っていたでしょうね」と笑う。
そうして児玉碧衣や尾崎睦らとともに108期として競輪学校の門を叩くが、鈴木彩夏を待っていたのは苦難の連続だった。
「基礎がなかったから訓練でついていけなかった。長距離を乗り込む周回練習だと、ちぎれてしまって。試験に合格するためにタイムを出す練習ばかりしていたツケが回ってきたんでしょうね…。このままじゃヤバいって思いました」
自転車の訓練だけでなく、座学でもほころびが出てしまう。
「授業で居眠りをしてしまい、教官に怒られていました。競輪学校に入れて『これで競輪選手になれる』という気の緩みがあったのかもしれません…」
油断や慢心があったのか、108期では卒業認定考査で不合格。2回目の追試でも点数を取れず『卒業見送り』となってしまった。
「1回目のテストで点数が取れなくて、同部屋だった夕貴さん(遥山夕貴)が勉強を教えてくれたのに数学がまったくダメで…。まさか勉強で退学になるとは思っていなかったので、本当にショックでした」
108期として卒業できずに職員に修善寺駅まで送られ、自宅のある松戸へ帰った。駅にはガールズケイリンを勧めてくれた父が迎えに来ており、その目には涙があふれていた。
「迎えに来てくれたお父さんの顔を見たら、泣いていました。おばあちゃんのお葬式でしか泣いているところを見たことがなかったのに…」
父の涙を見て、彩夏も涙をこらえられなかった。
「お父さんはこんな私に『プレッシャーをかけていた。ごめん』と謝るんです。そう言われたら、自分も簡単にガールズケイリン挑戦をやめるとは言えなかった。競輪学校に戻りたい、戻らないと、って思いました」
しかしそんな思いとは裏腹に、再試験への準備はなかなか進まなかった。初めて経験する“挫折”に複雑な思いが渦巻き、引きこもりのような状態に陥った。父とけんかをしたこともあったそうだ。
「なかなか練習へ体が動かなくて、家でいろいろ考えてしまいました。でも応援してくれる両親の存在や、私が競輪選手になることを応援してくれた友だちや皆のことが頭に浮かんで…。少し時間がいりましたが、やっぱり『もう一度再試験に向けて頑張ろう』と決意を固めました」
再試験へ向けて気持ちが入ると練習にも熱が入った。一度は離れた競輪学校の教官ともこまめに連絡を取り、毎日自転車のこと、ガールズケイリンのことを考えて再試験に備えた。
「競輪学校の退学は自分の人生で初めての挫折だったんだと思います。小さいころから何をやってもある程度いい結果を出すことができて、知らず知らずのうちに人生をなめていたんだと思う。一回どん底まで落ちたけど、もう一度頑張ろうと前向きに取り組みました」
順調ならば一緒にデビューを迎えられるはずだった108期の同期たちからも熱いエールが送られてきた。
「108期が在学中にやっていた競輪学校のブログを見たら涙が止まらなくて…。サマーキャンプから一緒だった(児玉)碧衣ちゃんと離れたことは、やっぱりつらかったですね。同級生の細田(愛未)とか福田(礼佳)も心配してくれていた。競輪学校から届いた荷物の中に、手紙がいっぱい入っていたんです。みんなと離れてしまったけど、絶対110期で頑張ろうって思いました」
鈴木彩夏は110期の復学試験に合格した。2回目となる競輪学校の春、復学組の生徒たちは講堂で行われた入学式への参加はなく、別室で作文を書いた。
厳しい現実を受け止め、110期の候補生たちとの競輪学校生活が始まった。まわりの生徒が鈴木を“同期”として扱ってくれたおかげで距離はグッと縮まり、2回目の学校生活は充実していたという。
「108期は個性派の集まりだったので110期でうまくできるか不安だったけど、楽しくできました。練習も勉強もしっかり頑張ったつもりです。算数のドリルを買って、いつも空き時間に勉強しました」
自転車の訓練にも必死で取り組んだ。108期では練習についていくのが精一杯で、成績が現れる帽子の色は一番下のランクの青だったが、110期では持久力が評価されひとつ上の赤になった。
「練習も真面目に取り組んで、卒業するころには110期で良かったかもしれないと思えるまでになりました。もし108期で卒業していたら基礎のないままプロデビューしてしまい、すぐ代謝(成績不振による強制引退)になっていたかもしれない。遠回りになったけど自分にとって大事な時間でした」
110期での在校成績は10位と順位は振るわなかったが、成績よりも大事な経験をした1年を経て、念願のプロデビューを待った。
しかし、遠回りして掴んだデビュー戦を間近に控えた鈴木彩夏に試練は続いた。
「デビュー戦は静岡の予定でした。でも静岡に行く3日前に松戸のバンクで練習中に落車をしてしまいました。骨折はなかったけど肩鎖関節を痛めてしまい、肩の軟骨もつぶれてしまっていたんです」
人生初の挫折を乗り越え、競輪選手としての第一歩を踏み出そうとした矢先だった。
「肩も上がらなかったし痛くて、擦過傷もひどかった。届いて何日か練習で乗っただけの新車もつぶれてしまった。結構気持ちは落ち込みましたね。やっぱり私は競輪選手になれないんじゃないか、と…。お父さんもがっかりしていました」
7月前半に出ていたあっせんは2場所欠場し、2016年7月31日の高知でデビューを迎えた。
この開催には108期の仲間、尾崎睦と児玉碧衣がいたが、落車明けの鈴木には厳しい相手だった。1走目は自転車競技のスタートラインをともに切った児玉と同乗。流れの中で児玉の後ろに鈴木が追走する形となったが、児玉の仕掛けに鈴木はあっさりと離れてしまった。
「睦さんと碧衣ちゃんと一緒の開催でうれしかったけど、2人が遠い存在に感じました。肩の痛みもあり、まともにレースに臨める状態ではなかったです」
デビュー開催は5、5、7着に終わり、4場所目の松戸ではレース中の落車を経験。8場所目の京王閣を走り切ると、肩の手術を決断。長期休養に入り、翌年以降の巻き返しに備えた。
「肩の痛みがなかなか引かず、病院を回って3か所目の船橋整形外科で手術してもらえることになりました。そこでの手術がうまくいって、やっと練習ができるようになりました」
デビュー2年目の5月青森で初決勝進出を決めると続く京王閣、松戸でもファイナルへ。少しずつ練習の成果を発揮し、レースの流れに乗れるようになった。
この時期は同期の野口のぞみ(引退)を頼り、長崎にある諫早干拓練習グループへ出稽古に行っていた。
「松戸にいるとどうしても甘えが出てしまうので…。松戸の選手たちも、父や私に気をつかう部分はあったと思いますし。このままでは強くなれないと思ったので、野口のぞみさんにお願いして諫早の街道練習グループに混ぜてもらえることになりました」
諫早干拓の練習グループは練習内容の濃さで有名だ。S級トップの荒井崇博、井上昌己らを筆頭に脚力自慢の男子選手に練習でもまれ、徐々に力を付けていった。
「最初は付いていくのでいっぱいで苦しかったけど、中身の濃い練習ができました。長崎では誰も父のことを知らないので、みんな遠慮なくアドバイスをくれました」
特に荒井には“しごかれた”と振り返る。それも二世レーサーの鈴木にとっては新鮮な経験になったそうだ。
「荒井さんに『点数取りたいから教えてください』ってお願いしていろいろ練習を見てもらいました。荒井さんはダメなところはハッキリいってくれるから、自分はうれしかった」
厳しい練習のあとには、食事に連れて行ってもらうことも多かったそうだ。
「練習で褒められたことなんてなかったのに、お酒の席で荒井さんがポロッと『お前なら点数取れる、大丈夫』と言ってくれて…。すごく胸に響きましたし、何から何までお世話になって本当に感謝しています。抜群の環境で練習をさせてもらったおかげで競走得点を上げることができた。干拓の練習グループのみなさんには感謝しかないです」
自転車経験未経験で飛び込んだ競輪界で、鈴木彩夏の基礎を作ったのは長崎干拓グループの濃い街道練習だったのは間違いない。そしてデビュー3年目の1月、名古屋でようやく初勝利を挙げた。
「初勝利はホッとしました。同期はどんどん1着を取っているし、焦りもあったので。長崎の干拓でお世話になっていた米嶋賢二さんも開催にいて、すごく喜んでくれました」
この年の6月には父・康雄が引退。6月大宮のラストランは親子参加となり、レースの後、感動の一幕が待っていた。
「(父のラストランになった)大宮ではたくさん父の知り合いが来てくれていて。ラストランが終わったあとのあいさつで『競輪界に残る彩夏のことをお願いします』って泣きながら話してくれて。自分ももらい泣きしちゃいました」
愛娘に期待を寄せる父。娘・彩夏は時にあまりに高い目標に戸惑うこともあるようで…。
「お父さんはずっと『グランプリ優勝だ』なんて声をかけてくれるけど、私は高い目標を立てていくのはしんどくて。だからせめて『初優勝』って思いながら走っているけど、なかなか勝つことができないんですよね」
その後も父の意思を引き継いでマーク、追い込みでコンスタントに結果を出していたが、2020年春の新型コロナウイルスの大流行で状況は少しずつ変化していった。
「コロナ禍になってから“鈴木彩夏の入っているあっせんは開催中止や打ち切りが多い"ってファンの人がSNSで書いていたんです。自分でもうすうす感じていました。仲のいいガールズ選手には『彩夏がくると開催がなくなる』って言われていた。自分でも開催中止が増えるとなんのために練習しているのかなって思ってしまうことも増えた」
どういう風の吹き回しか、彼女のあっせんされた開催は中止や打ち切りが続いた。結果を出したくても出せない状況に、気持ちは切れかけてしまう。
「レースへの意識も落ち込んでしまい、厳しく位置にこだわるレースができなくなった時期と重なりました。接触して落車をさせてしまうこともあったりして、すごく悩んでいました。戦うことに疲れてしまい、選手を辞めたいと思うこともありました」
2023年3月の静岡1日目。鈴木彩夏は尾崎睦マークから直線で差し脚を発揮し、2018年10月弥彦以来となる予選での1着を勝ち取った。その尾崎とのエピソードを明かす。
「睦さんとは108期で競輪学校に入ったときの一番最初の同部屋で隣の机でした。最初は年も離れているし、どう付き合っていいか分からなかったけど、睦さんは私がふざけていたり、良くないことをすると叱ってくれる先輩です。睦さんは努力を怠らない人だというのが、近くで見ていてわかりました」
引退を考えるほど苦しい時期にアドバイスをくれたのも、元同期の尾崎だった。
「睦さんの言葉はすごく響くんです。戦い方で迷っていた時期も『彩夏はやればできる。もったいないよ』って言ってくれて。静岡では自分らしいレースができて久しぶりに予選で1着が取れたんです。真面目な話を一番するのは睦さんだと思います。尊敬する人です」
ガールズケイリンでGIレースができたことも鈴木彩夏の闘争心に火を付けた。
第1回のオールガールズクラシックは開催地が鈴木のホームバンク松戸に決定。最初は意識していなかったが、同期の鈴木奈央から松戸のクラシックの出場圏内にいることを知らされ、スイッチが入った。選考期間となる6月末まで賞金の上積みに奮起したが、最後の追加で行った名古屋で違反点が累積120点を超えてしまい、出場圏内にもかかわらず10月のあっせんが止まってしまったのだ。
それでも気持ちを第2回のオールガールズクラシック出場に切り替えて頑張っていたが、翌7月の青森で落車失格を喫する。右鎖骨と肋骨の骨折に肺挫傷という大ケガを負い、失格のペナルティで11月のあっせんも止まってしまった。
それでも気持ちは切らさず復帰へ向けて練習を積んだ。12月の復帰戦は準備万端で臨んだが、レースでは欠場する前のキレのある追走や差し脚は全く見えなくなってしまった。
「練習はやれていたのに、青森の落車の後、レースの中で怖さを感じるようになってしまった。自分らしいレースができなくなり、成績が下がっていって、気持ちも落ち込んで…。どんどん負のスパイラルにはまっていきました」
復帰後は大敗が続き、予選どころか最終日の一般戦でも負けてしまう状態だった。鈴木彩夏らしさは消え、すっかり存在感を失ってしまった。
「ファンの人からは『練習さぼっているだろ』って言われることもあった。違うんだよ、って思っても、この結果だから受け入れるしかありませんでした。練習とレースでのギャップは自分が一番分かっているけど、ファンの人に説明することではないですから。プロなので、結果を出すことでしか納得してもらえない。でも正直、このままクビになるのかな… という不安もありました」
負の連鎖に陥った彼女を、再び救ってくれたのは尾崎睦だった。9月の宇都宮ミッドナイト開催で尾崎と一緒になり、話す機会を得た。
「宇都宮で睦さんにいろいろ話を聞いてもらったら、スッと楽になりました。私の体のどこかにある『やる気スイッチ』をまた押してくれたんです。今年は睦さんだってグランプリ出場に向けて賞金争いをしている最中だったのに…。本当に睦さんには感謝です。尊敬しかないです」
この開催で1年2か月ぶりに決勝進出を決めると、川崎では予選1着もゲットした。近況は車券への貢献度も高くなり、GI出場も再び視野に入ってきた。
11月の平塚は決勝3着、いわき平は決勝2着。初優勝は手の届くところまで来ている。
「あと少しですね。いわき平は同期で仲のいい(鈴木)奈央が優勝だった。奈央とは競輪学校のときから相性がよかった。自分のほうが年上だけど、奈央がお姉さんみたいな感じなんです。あの開催は自分も優勝を狙いに行ったけど、奈央が強かった」
自ら掲げた『初優勝』の目標が近づいてきた今、やはり思い浮かべるのは引退した父のことだ。
「やっぱり優勝は早くしたいですね。父も待ち望んでいるので。それが少しプレッシャーにもなるけど(笑)、父は自分が自転車を乗り始めたときからずっと一緒にやっているので、少しの違いにも気付いてアドバイスをくれます。松戸の練習グループの人たちも声をかけてくれているので早く結果で恩返ししたい。優勝すればGIレース出場も見えてくると思うので頑張っていきたいです」
遠回りをしてようやくたどり着いた“競輪選手”という職業。デビュー9年目、時間はかかったが大ケガを克服し、ようやく軌道に乗ってきた。人との縁、つながりを借りながらここまで復活してきた鈴木彩夏。お世話になった人たちへ恩返しの優勝を届けるため、今日もひたすらペダルを漕ぐ。
松本直
千葉県出身。2008年日刊プロスポーツ新聞社に入社。競輪専門紙「赤競」の記者となり、主に京王閣開催を担当。2014年からデイリースポーツへ。現在は関東、南関東を主戦場に現場を徹底取材し、選手の魅力とともに競輪の面白さを発信し続けている。