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村上義弘 全ては競輪から教わった

【村上義弘の情熱】平凡な自分が日本一の競輪選手になるためには

2021/07/14 (水) 18:00 23

KEIRINグランプリ2勝、日本選手権競輪4勝を含む特別競輪13勝。46歳の今もなお、近畿の柱として存在感を放ち続ける村上義弘選手。競輪界のレジェンドはどのようにして誕生したのか。その原点を探るべく村上義弘ヒストリーを3回に分けてお送りします。第2回は苦しんだプロデビュー直後を語ります。

家族のためにお金を稼ぎ、競輪界で頂点に立ちたかった(撮影:桂伸也)

「お前じゃ日本一になれない」の言葉に反発

 前回は、家族を支えるために、競輪選手を目指すようになった中学・高校時代について書いた。そのエピソードの数々を知った読者の方たちからの反響もかなり大きかったようで、正直驚いているし、ありがたさを感じている。

 そんな自分が、競輪学校を経て、念願のプロデビューを果たしたのは1994年4月。現在のほぼ倍にあたる競輪選手約4000人の仲間入りができたときはもう、うれしくてたまらなかったね。

 ただ、しばらくすると、気づいたことがあった。競輪選手の誰もが、常に向上心を持っているわけではないということだ。

 たとえば、競輪選手になれたことだけで満足している選手もいたし、あくまでも職業として捉えている選手もいた。もちろん、それはそれで構わない。本人の自由だろう。でも、自分は違った。

「どんどん稼いで、生活で苦労している家族を支えたい!」ということとは別に、もう1つ、大きな目標があったからだ。それは、「日本一の競輪選手になる」ということ。競輪の世界に足を踏み入れた以上、どうしてもその頂点に立ちたかったんだ。

 デビュー当時、そのことを口にすると、先輩たちから、決まって言われたのが「お前じゃ、日本一にはなれない」。トップ選手にくらべると、身長170cmというのは体格的に小柄だし、かといって、才能に恵まれているわけでもない。客観的に見れば、彼らがそんなふうに判断したのは無理もなかったかもしれない。

 しかし、その度に心の中に湧き上がってきたのが、「ふざけんな! 絶対に日本一になってやる!!」という熱い感情だった。

師弟制度が当たり前の中、自分が師匠を持たなかった理由

 日本一を目指すにあたって取り組んだことは、そのための練習環境作り。師弟制度が浸透している競輪界で、自分があえて師匠を持たなかったのも、その一環だった。

 なぜなら、師匠と弟子という関係に縛られ、師匠に言われた通りに何かをやるということが、もともと性格的に向いていなかった。中学2年生から自転車に乗り始めたときと同じように、自分がやるべきことは、自分で考えたうえで決めたかったし、自分に一番合った練習環境を自分で作っていきたかったんだ。

 ただ、“心の師匠”として、お手本にしてきた選手は1人いる。かつて同じ京都に所属していた松本整さん(45期)だ。

 15歳上の松本さんとは、自分が花園高校自転車競技部の3年生のとき、高校の先輩で競輪選手の山本真矢さん(65期)から紹介されて出会った。ちょうどその年(1992年)、松本さんはオールスター競輪で優勝。33歳にして初タイトルだったものの、30代のベテラン選手になっても、競輪に人生をかけ、肉体を鍛え続ける姿には、憧れを抱かざるを得なかった。

 実は、その頃から、こんなふうに思うようになっていた。

「これだけ身近に、日本一を経験した人がいるんだから、競輪に対するさまざまな取り組み方を参考にすることが、日本一の競輪選手になるための近道なんじゃないか」

 そんな松本さんは“来るものは拒まず、去る者は追わず”というタイプ。師匠を持たないことを理解してくれたうえで、こちらがアドバイスを求めるとすべて受け止め、一から厳しく教えてくれた。その中で最も印象に残っているのが、「プロの競輪選手ならば、24時間、競輪のことを考えなさい」という言葉だ。

 以降、レースや練習の時間はもちろん、自宅に帰っても、必ずレースのビデオを観て研究するなど、まさに競輪漬けの日々を過ごすようになった。それは今もなお、続いている。

焦り苛立つ自分を救ってくれた松本さんのアドバイス

 しかし、20代前半までは、思うように結果を残せず、特別競輪で優勝することも、GIの決勝に進出することもままならなかった。

 そうした中、太田真一(75期)や伏見俊昭(75期)など、自分より年下の選手たちがどんどん出世していくものだから、否応なしに、挫折感や焦燥感を味わうこととなった。

 当時の自分の練習量は、自転車に乗っている時間でいえば、彼らよりも断然長いと自負していた。尊敬する滝澤正光さん(43期、現日本競輪選手養成所所長)が、毎日200kmの乗り込みをしていたことを見習い、1日に7、8時間乗っていることもザラ。それが、自分に適している練習だと信じていた。

 だからこそ、「これだけやっているのに勝てないなんて…。もしこれが才能の差なら、不公平すぎるじゃないか…」と、精神的に追い込まれていった。今振り返ると、長い競輪人生の中で、あれほど思い悩んだ時期はないだろう。

それまで積み上げてきた練習と新たな練習が上手くミックスされて結果が付いてきた(撮影:桂伸也)

 そんなとき、的確なアドバイスをしてくれたのも、やはり松本さんだった。その内容は、低い出力で長く乗っている時間を減らして、その分、もっと高い出力で短時間走る、質の高い練習を増やすこと、つまり、競輪に必要なスピードとパワーを身につける練習も重視すべきということ。陸上にたとえれば、それまでの自分は、マラソン選手のトレーニングをして、200mの短距離走で勝とうとしていたようなもので、200mを勝つには200mの練習があるということを、松本さんは教えてくれたんだ。

 しかも、精神的に楽にしてくれるこんな言葉とともに……。 「今活躍している選手は数年先に追い越せばいい。それまでは、ジャンプする前にしゃがんでいる時間だと思って、大事にしなさい」

心技体の充実にともない結果が出始める

 そうした練習方法に切り替えたことがよかったのだろう。もともと長時間の乗り込みで培われていた基礎体力も一気に生かされ、競輪選手としての開花につながったと思う。

 2000年2月、25歳のときに、ふるさとダービーで優勝し、特別競輪を初制覇。それまでが嘘のように快進撃が続き、気がつけば、負けるイメージがほとんど沸かなくなっていた。そして迎えた2002年11月の全日本選抜競輪。このときばかりは、優勝以外、頭になかった。

 というのも、その年の7月、松本さんが43歳で寬仁親王牌を制し、年末のKEIRINグランプリ出場を決めていたからだ。

「ここで優勝すれば、松本さんとグランプリで一緒に走れるぞ!」

 自分としては、そんな思いが強かったし、それが、ずっとお世話になってきた松本さんに対する恩返しの1つにもなると考えていた。

 そして、4日間の開催を通して、ガムシャラにペダルを漕ぎ続けた結果、デビュー9年目にして、初めてGIのタイトルを獲得するとともに、KEIRINグランプリ初出場を確定させることができた。それは言うまでもなく、ついに「日本一の競輪選手になる」という目標を達成した瞬間でもあった。(取材・構成:渡邉和彦)

松本さん(写真左)の引退レースとなった2004年の高松宮記念杯競輪では優勝に貢献することが出来た(撮影:村越希世子)

※次回は7月28日(水)公開予定です。

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村上義弘 全ては競輪から教わった

村上義弘

Yoshihiro Murakami

1974年京都府生まれ、花園高出身。日本競輪学校73期卒。代名詞は「先行日本一」「魂の走り」。KEIRINグランプリ2勝、日本選手権競輪4勝を含む特別競輪13勝。実績だけでなく競輪に向き合う姿勢や常に全力を尽くすレーススタイルは、選手・ファンから絶大の信頼を得ている。ファンの存在を大切にし続ける競輪界のレジェンド。

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