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すっぴんガールズに恋しました!

【飯塚朋子・田中麻衣美】駆け抜けた10年 代謝制度で競輪界を去った1期生ふたりが今思うこと

アプリ限定 2022/07/23 (土) 12:00 66

7月のクローズアップは6月末の代謝制度で競輪界を去ることとなったガールズケイリン1期生・田中麻衣美と飯塚朋子。1期生としてガールズケイリン界を支えてきた功労者ふたりのこれまでとガールズケイリンの未来について、松本直記者がインタビューしました。

ガールズケイリン10周年企画に駆けつけた一期生たち 左から中山麗敏、山口菜津子、田中麻衣美、田畑茉利名、飯塚朋子

通算903走の飯塚朋子「完全燃焼できました」

 元々マウンテンバイクの選手だった飯塚朋子は、所属していたチームがマウンテンバイクから撤退することが決まり、2010年にガールズケイリン挑戦を決意した。

「マウンテンバイクのチームに所属しているときは食べていけませんでしたが、ガールズケイリンには気軽にチャレンジできました。ただ競輪学校時代は悔しかったですね。最初からトップではやっていけないと覚悟はしていましたけれど、運動経験のない子に負けたことが本当に悔しかった」

 さらに運悪く卒業記念レース後の訓練中に落車をしてしまい、「デビュー前から鎖骨と肋骨4本を骨折。そのためにデビューも遅くなりました。ガールズケイリン選手を辞めたい、こんな惨めな思いはしたくないと思ったこともありました(苦笑)」

 デビュー後は大きな着が続き、初勝利を達成するまでに1年10カ月を要すことになった。それでも飯塚は走り続けた。休むことなくコツコツと経験を重ねていくことで、車券に貢献する回数も増えていった。休まず走り続けるタフなスタイル。それこそが飯塚の持ち味だ。

飯塚朋子

「振り返ってみると、たしかによく走りましたね。頼まれると断れない性格でしたので、追加や補充も多かったと思います。ただ、練習よりも競走の感覚を大事にしていましたので、競走に行っているほうが成績が良かったです。だからコロナ禍でレース中止が続いたときには参りました。2週間以上レースの間隔が空くとわからなくなることがありましたから」

 そして21年4月の岐阜で落車。鎖骨を骨折してしまったことで、今期の代謝争いを抜け出すことができず、バンクを去ることになった。通算903戦、1着21回、2着115回、3着127回。

「代謝で引退することになったけど、後悔はないですよ。いっぱいレースを走れましたし、完全燃焼できました」

 競輪選手になってよかったことについて、「自分の時間が取れたことですね。普通に社会に出て働いていたら、自分を見つめる時間はなかなか取れません。自分を見つめ直すことで、今後の人生についても考える時間が取れました」と話す。

 今後は選手時代に貯めたお金を使ってハウスクリーニングの仕事を始めるそうだ。

「選手時代は無駄使いをしないで老後の資金にと思って貯金をしていました。他の人より得意なことや好きなことはないですが、元々事業はしたいなと思っていましたので。引退後は少し余暇を楽しむつもりでしたが、7月中旬から仕事が始まります。休む間もなく、すぐに仕事です」と笑いながら話した。

 最後に今後のガールズケイリンについては「1、2、3期くらいまではガールズケイリンがなくなるかも…という危機感の中でやってきました。これからの10年はスター選手が出てきてほしいですね。ガールズケイリンはスポーツとして見ても面白いと思います。公営競技の中で唯一オリンピック競技になっていますしね」とさらなるガールズケイリンの発展を願っていた。

飯塚朋子

田中麻衣美「生まれ変わっても競輪選手をやりたい」

 田中麻衣美は新潟県新潟市出身で学生時代は快足自慢のスプリンターだったそうだ。通っている学校では一番で、県大会に出場するレベルではあったが、大学に進学してまで陸上競技を続けるつもりはなかった。高校卒業後はエステ会社に就職。エステティシャンとして働いていたが、後輩からの誘いがきっかけで競輪の仕事を始めた。それが、弥彦競輪場のレディースケイリンレーシングチーム『すぴRits』だ。

「後輩が『すぴRits』で活動をしていたのですが、『すぴRits』のメンバーが足りなくなって人を探していた。面白そうだなと思って参加してみたら、トントン拍子で話が進んでいった。ガールズケイリン1期生募集のタイミングと重なったこともあり、やってみようとなりました。最初はタイムが出なくて本当にキツかった。当時から1期生の中でも最初に辞めることになるとずっと思っていましたよ」

 2011年ガールズケイリン1期生として競輪の世界へ飛び込んだが、レース以外の広報活動に声が掛かることが多かった。田中自身も「ガールズケイリンのためなら」と断ることなく、時間の許す限り手伝ってきたが、聞きたくない声も耳には入ってきて苦労をしたという。

「広報活動をすることでいろんな人にいろいろ言われましたよ。“練習しろ”とか“(田中だけ)取材ばかり受けてずるい”とか。最初のころはそういう声に悩んだこともありましたけど、慣れてしまいました。ガールズケイリンが世の中に広まればいいかなと思い、自分のできることをやるようにしていましたから」  

田中麻衣美

 レースに、広報活動に、“ガールズケイリン”というものに対し真摯に取り組んできた田中を苦しめたのが『代謝制度』のスタートだ。14年後期から審査が始まり、15年後期から3人ずつ引退していくが、代謝のボーダーライン上になっている時期が長かった田中は苦しい時間を過ごしてきたと語ってくれた。

「ガールズケイリンを始めたときから、先行でやりたかったんです。先行してバンクで名前を呼んでもらうことに憧れていましたので。でも、代謝制度が始まってからは自分のやりたいレースができなくなってしまって…。自分で決めたことをやりたくても、周囲の人は“点数を意識して走ったほうがいい”とアドバイスをくれる。もちろんその考え方もわかるのですが、どこか自分にウソをついているみたいで、次第にそれをストレスとして感じるようになりました。選手生活の後半になると“クビになるまで選手生活を好きにやらせて”って感じでした」

 通算成績751走1着4回、2着20回、3着47回。田中は21年6月に代謝制度でバンクを去ることになったが、本人に悲観した様子はない。

「悔いなく選手生活を走り切れました」と語った田中麻衣美

「まさか10年できるとは思っていなかったので、悔いなく選手生活を走り切れました。旦那が8年で選手を辞めているので、結婚したときは現役生活8年を目標にしていたけど、10年できましたからね。あっという間の10年でした。やりたいことをやれたのは家族のサポートのおかげ。引退したらゆっくり家族との時間を大事にしたいですね。遠征が多くてビビちゃん(愛犬)との時間も作れず、寂しい思いをさせてしまったので、その時間を埋めてあげたいですね。競輪のお仕事は声が掛かればできる範囲でお手伝いできればと思っています」

 最後にもう一度ガールズケイリンをやるかと尋ねると意外な言葉が返ってきた。

「次は男の子に生まれて競輪をやりたいですね。ずっと練習して、ずっと選手をやっていたいです。競輪は魅力とやりがいのある仕事。ガールズケイリンももっと若いうちから始めることができたらよかったのになと思っています」

 飯塚朋子、田中麻衣美、1期生ふたりの引退は残念だが、両者ともにガールズケイリンをやり切った様子で話をしてくれた。ふたりが直面した代謝制度。選手数が足りていない現状や、女性特有の出産、妊娠と言った問題も大きく関わってくる。11年目を迎えたガールズケイリン。これを期に代謝制度を考え直してもいいのかもしれない。

田中麻衣美

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すっぴんガールズに恋しました!

松本直

千葉県出身。2008年日刊プロスポーツ新聞社に入社。競輪専門紙「赤競」の記者となり、主に京王閣開催を担当。2014年からデイリースポーツへ。現在は関東、南関東を主戦場に現場を徹底取材し、選手の魅力とともに競輪の面白さを発信し続けている。

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