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サッカーW杯と競輪

2018/07/10 (火) 23:50

サッカーW杯と競輪

サッカーのワールドカップが盛り上がっている。にわかサッカーファンも含め、寝不足の日々が続いているのではないだろうか。という筆者も毎日が寝不足。床に着く時、ほぼ外は明るい。日本のゲームだけでなく、他国のゲームも観てしまう。やはり、4年に1度の祭典、スポーツ業界に身を置く人間としては寝不足とは言っていられない。
日本はグループリーグを2位で突破してベスト16入り。グループリーグ最終戦の対ポーランド戦。試合終了10分前からボールを回し、勝ちを放棄した。西野監督のゲームプランには賛否両論、確かに難しい判断だったと思う。自らの力で決勝トーナメント進出を諦めたのだから。もし、あの場面で日本が1点リードまたは同点だったら、あの戦略は正解だった。「ルールの範囲内」という解釈をする解説者もいた。

ルールの範囲内、この言葉を聞いて思い出したのは1992年夏の甲子園であった。当時、石川・星稜高の松井秀喜(元読売ジャイアンツ・ヤンキース・エンゼルス・アスレチックス・レイズ)が高知・明徳義塾高戦にて5打席連続で敬遠された。当時、明徳義塾高の馬渕史郎監督は「松井君と勝負したい気持ちもあった。しかし、敬遠することで選手たちを少しでも長く甲子園でプレーさせたかった」と、こんなニュアンスの発言をしていたと記憶している。この時、日本人の大部分は「松井がかわいそうだ」だとか「スポーツマンシップに欠ける」であった。そして、この馬渕監督が悪者扱いをされていた。しかしながら、5打席連続敬遠もルールの範囲内である。サッカー日本代表・西野朗監督に好意的な意見の方が多かったと聞き、馬渕監督はどんな気持ちになったのだろうか?

少し強引ではあるが、このルールの範囲内を競輪に当てはめてみた。例えば、準決勝で3着に入らないと決勝に勝ち上がれないケース。逆の言い方をすれば、1着じゃなくても3着までならば決勝へ進める。先行選手が早くから逃げ、ゴール前ではバタバタの状態。それでも自分のために駆けてくれた先行選手を3着まで残したい。結果、かばいすぎて3番手の選手に抜かれてしまう。結局、自分は3着でも決勝に進めた、または決勝に備えて力を温存。人気になりながらも決勝戦のことを考えたうえで3着通過して、決勝戦では満を持して優勝。プロである以上、優勝が目的なのだから選手個人は非難される覚えはない。これはサッカーのポーランド戦と同じであろう。
ただ、競輪は公営競技(=ギャンブル)、お金が賭けられている。そこが難しいところなのだ。ファンと選手の思いが一致していない。もちろん、ファンのことを考えて1着を獲ることが自分のためでもあると思う選手はいるが、本音を言えば全員ではないだろう。決勝戦となれば思いは同じであろうが、選手はファンのために走っているのではない。自分のため、生活が懸かっているのだ。これは競輪だけでなく、他の競技でも同じだと考える。企業スポーツならば、その企業のために戦うのは当然のことだ。だから競輪は難しいと同時に面白いのだ。

サッカーの日本は決勝トーナメント初戦で世界ランク3位のベルギーに負けた。2点を先行しながら、追いつかれ、アディショナルタイムで決勝点を奪われた。敗戦後のインタビューで「夢を見た」と、コメントした選手がいた。競輪で言えばG1決勝戦で、最終第4コーナーを番手で回りながら優勝を逃がした時に「夢を見た。足が三角になった」というのと同じ。だが、プロが夢を見たというのは違和感がある。アマチュアならいざ知らず、プロが有利な展開、状況を活かせないのは「夢を見た」では済まされないと思ってしまう。
試合後のインタビューでは長友佑都、香川真司、川島永嗣らのベテランは敗戦直後にも関わらず、シッカリ対応していた。インタビュアーも野次馬根性で尋ねているのではない、仕事だから聞いているのだ。それなのにある選手は「もういいですか」と、インタビューを遮った。気持ちは分かるが、これは義務だろう。競輪も負けると一言も話さず、メディアを無視する選手がいるらしい。だが、プロとして最低限のことは答えるべきであろう。勝った時だけ語るのではなく、負けた時こそシッカリした対応を取るのが一流プレーヤーの務めだ。プロはどうあるべきか?ワールドカップを通じて改めて考えさせられた。

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岩井範一

Perfecta Naviの競輪ライター

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