アプリ限定 2025/07/04 (金) 12:00 27
日々熱き戦いを繰り広げているガールズケイリンの選手たち。その素顔と魅力に松本直記者が深く鋭く迫る『すっぴんガールズに恋しました!』。今回は教員から競輪選手に転向した豊田美香選手(29歳・徳島=126期)。地元を離れ徳島で教壇に立っていた豊田選手は、ひょんなことから自転車の魅力にハマり、ガールズケイリンに挑戦。徳島の先輩たちの熱いハートを受け継ぎ、ケガを負っても自分を見つめ直しながら奮闘している。
豊田美香は長野県須坂市出身。5歳上の姉と2人姉妹で育った。
自然の多い街で育った豊田は子どものころから体を動かすことが好きで、男子に混ざってサッカーをするなど活発な少女だった。小学3年生からはバスケットボールクラブに入って熱中。高校までバスケットボール部で汗を流した。
高校は地元の進学校・県立須坂高校へ通い、勉強と運動に励んだ。
「両親から須坂高校を強く薦められました。両親や親戚、みんな須坂高の卒業生なんです。自分はバスケットボールの強豪校に進学したかったんですが…」
高校でもバスケットボール部に所属したが、進学校ということもあり、そこまで運動部は活発ではなかった。
「強くもなかったし部員も少なかった。ケガをしていても人数が足りなくて試合に出ていたこともありました」
高校時代はこれといってやりたいことが見つからない日々を過ごしていた。将来の進路についても明確なものは無かったそうだ。
「小さい頃は影響されやすい性格で、いろんな職業に憧れていました。新潟中越地震のときは自衛隊の方が救出している姿をテレビで見て、自衛官になりたかった。ほかにもハイパーレスキューの特集を見てやってみたいとか、その時その時の思いつきでやりたい職業が変わっていたんです」
好奇心旺盛で移り気だった豊田は、いざ進路を決めるとなると“自分が本当にやりたいこと”がないと気がついた。
「ちょうど自分の進路を決めるタイミングで、姉が臨床検査技師になりました。それで自分も医療系の仕事をしようかなと思って、高校3年生のとき担任に『看護師を目指そうと思っている』と伝えると『人の命を預かれるのか? 今のお前にオレの命は預けたくないぞ』と言われてしまって。安易な考えだと見抜かれていたんでしょうね」
担任の厳しい言葉は図星で、進路検討は振り出しに戻った。不安な日々を紛らわしてくれたのは、バスケットボールだった。部活は引退していたが、後輩の練習に混ざって体を動かしていた。
進路に悩む豊田の姿を見たバスケットボール部の顧問は「体育の先生、いいんじゃない」と声をかけてくれたという。それまで教員になることは一度も考えたことがなかったが、豊田は後輩たちと一緒に汗を流す時間が好きだった。そして高3の秋、ようやく進みたい道がはっきりした。
教師を目指すにあたり、もともとの第一志望は地元長野の信州大学教育学部だったがセンター試験で失敗。仙台にある宮城教育大学へ進学した。
「高3のときはガラスのメンタルだったので、浪人はせず志望校を変えました。須坂高から宮城教育大へ進学して保健体育の先生になった先輩もいたので、特に不安はなかったですね」
大学入学とともに親元を離れ1人暮らしを開始。バスケットボールは継続し、学びにスポーツにとキャンパスライフを満喫した。
「アルバイトもいろいろしましたよ。飲食業のバイトが楽しくて、居酒屋や牛タン屋さんでも働きました。大学時代は仲間たちと飲みにいくことも多かったので、頑張ってお小遣いを稼いでいました」
保健体育の教師になることを目指して宮城教育大学に進学したが、大学生活を送る中で心境の変化が生まれた。
「大学に通い始めたら自分の運動神経の無さに気づいて(笑)。進学校にいたから気が付かなかったけど、運動神経がいい人の集まりの中だと自分は何をやっても遅くて、劣っていた。それで保健体育だけに絞るのはやめて、小学校、中学校、高校、特別支援学校の教員免許を全て取って、卒業のタイミングで行きたいところに行けるようにしようと思いました」
大学卒業後の就職地は悩みに悩んだ。結果的に徳島県の特別支援学校の教員になるのだが、そのきっかけはバスケットボールの大会だった。
「就職では長野に帰るか、大学のある宮城にするか迷いました。両親は地元に帰ってきてほしかったと思うのですが、一度きりの人生だしいろいろ考えて…。そんなとき教育大学だけのバスケットボールの大会が徳島県の鳴門市であったんです。明石海峡大橋を渡って鳴門市に入ったとき、海がめちゃくちゃ綺麗でワクワクした。現地の人との出会いもあり、徳島は良いところだなって思った。親は反対したんですが、自分の気持ちを押し通して徳島で働くことに決めました」
大学4年生のときは保健体育の先生になることを目指し、徳島県と長野県の教員採用試験を受けたが、両方とも不合格。それでも諦めず、徳島で1年間小学校の特別支援学級の講師をした。
「徳島の保健体育の試験は水泳、器械運動、柔道などハードルが高いんです。2回目の教員試験に向けていろいろ考えました。1年間小学校の特別支援学級でお世話になって、子どもたちが純粋ですごくかわいかったので、特別支援学校で働こうと思いました」
目標が明確になると勉強にも力が入った。2回目の教員採用試験に合格し、特別支援学校で働くことになった。仕事はやりがいがあったが、多忙だった。
「平日の業務がハードで、土日はだいたい次の週の授業で使う教材の準備をしたり、食事の作り置きをしたりと、ゆっくりできずに終わってしまっていました。そうしたらだんだん心がしんどくなってしまったんです」
忙殺され身も心も消耗していた日々の中で出会ったのが、自転車だった。それまで豊田はマイカーで通勤していたが、ある日学校の駐車場が使えなくなったのだ。
「駐車場が運動会の準備で使えなくなって、自分は家から学校も近いし年齢も一番下だったので、数少ない駐車場は先輩に使ってもらおうと。ちょうどボーナスが出たので、通勤にも使えるしとマウンテンバイクを買って、軽い気持ちで乗り始めました。そうしたら、ほとんどしゃべったこともなかった先輩の先生が『自転車乗るの? 』と声をかけてくれました。『通勤で使っているだけです』と答えたのですが、先輩は『もったいないよ。今度休みの日にサイクリングしてカレーを食べに行こう』って」
ひょんなことから乗り始めた自転車だったが、休日もオフらしいことをしていなかった時期に自転車を介して人との縁がつながった。徳島市内から往復70キロの距離を自転車で疾走してカレーを食べに行くと、いい気分転換になった。
その後、その先輩から「70キロも乗れるんだからもったいない、いい自転車を見に行こう」と誘われるがまま自転車屋へ行き、今度はロードバイクを購入。仕事の合間に遠乗りをするようになり、それを息抜きにオンとオフの切り替えができるようになったのだ。
「自転車の魅力にハマって、100キロでも200キロでも平気で乗っていました。サイクリングクラブにも入ったりしました。それまで土日は仕事の疲れを取る時間だったけど、自転車と出会ってからは月曜日の朝が一番疲れている(笑)。土日に向かってどんどん元気になりました」
自転車に乗っているときが一番生き生きしている豊田の姿を見た先輩は、「そんなに自転車が好きなら仕事にできるよ」とガールズケイリンを紹介した。豊田自身は保健体育の教員を目指した時期に自分の運動神経が平凡だということを嫌というほど思い知っていたので『そんな簡単にできるわけがない』と感じ、断っていた。
それでもその先輩は声をかけ続けた。熱意に押されて豊田の気持ちが傾くと、一気に話は進み、後に師匠となる川口雄太との出会いへとつながっていく。
「先輩が『一度競輪選手の話を聞いてみない? 』と誘ってくれた。先生の息子さんの幼なじみが川口雄太(111期・徳島)さんだったんです。先輩と雄太さんと3人で会うことになりました。雄太さんは現れて第一声で『やる気があれば大丈夫。気持ちがあれば受かります』と言ってくれて、その後もいろいろガールズケイリンのことを教えてくれた。その場で自分の心に火が付いたことを覚えています」
次の休みには早速、川口とマンツーマンの練習をした。街道練習をしたあと、川口からレーサーシューズをプレゼントしてもらった。「この靴を履いて試験を頑張ろう」と言う川口の熱意に、豊田の決意は固まった。ガールズケイリン挑戦を決めた瞬間だった。
「その後も自転車もいろいろ準備してくれて、身一つで行けば練習できる環境を整えてくれた。ここまでしてくれたのがうれしくて、私も『よしやるぞ! 』となりました」
川口雄太と豊田美香の出会いは124期の試験直前。翌年の126期での合格を目指して動き出した。
トレーニングに本腰を入れてからも、仕事は一切手を抜かなかった。4月には練習拠点の小松島市から遠く離れた三好市にある特別支援学校に転勤となったが、朝7時に家を出て23時に家に帰る生活で仕事と練習を両立させた。
「養成所の試験に向けての練習も一生懸命やりました。教員の仕事も4年目になり、任されることも多くなったけど、全力で取り組みました。周りの先生には競輪選手を目指していることを話していなかったし、練習のせいで仕事がおろそかになるのは嫌だった。試験までの1年、教員生活をやり切る気持ちで毎日乗り切りました」
練習でヘトヘトになりながらも帰りのサービスエリアで仮眠を取り、教員の仕事をしっかりやり切った。努力の甲斐あり、タイムは順調に良くなっていった。秋の試験前の夏には日本競輪選手養成所の1次試験に合格できるレベルまで到達していた。
「小松島競輪場の練習の雰囲気はすごくいいんです。そのおかげで春から夏にかけてハロンの200メートルと500メートルのタイムが良くなっていきました。最初のころは『公務員をしながら選手を目指している人』という感じで見られていたと思うけど、タイムが出てくると応援してもらえるようになっていった。そのおかげで自分もモチベーションが上がって頑張ることができた。夏には絶対1回で合格しようと強く思いました」
自信を持って試験に臨めるタイムも出ており、不安は全くなく試験会場に向かったがアクシデントは現場で起きた。
126期の1次試験が行われた当日、日本競輪選手養成所は大雨。豊田は雨の日にバンク練習をしたことがなかったのだ。
「雨の日に練習して滑ったりしたら仕事に影響するかもしれないと、雄太さんが気を使ってくれていたんです。だから雨のコンディションのバンクは乗ったことがなかった。上板(バンクの上)から駆け下ろす200メートルのハロン測定も手応えがなかったし、500メートルタイムトライアルのときは発走機からうまく出られなかった。ボロボロの1次試験でした。試験が終わって雄太さんに『やばいです』って電話しました。雄太さんも雄太さんのお父さんの川口秀人(57期)さんも『そっか…』と絶句していましたね」
手応えなく1次試験を終えたものの、結果は合格。こうなったら絶対に2次試験で落ちるわけにはいかなかった。
「ホッとしました。ダメならもう一度受けるつもりだったけど、やっぱり1回で受かりたかった。気を抜かず2次試験に向けてめちゃくちゃ勉強しました。もし1次試験がギリギリの合格で、2次試験もギリギリの評価だったら落とされるかもしれない。SPIは1番を取るくらいの気持ちで勉強しました」
試験に向けた準備は功を奏し、2次試験も無事合格。晴れて126期として日本競輪選手養成所への入学が決まった。5年間の教員生活(講師1年、教師として4年)に別れを告げ、ガールズケイリン選手候補生として新たなスタートを切った。
養成所では、高校卒業したばかりの候補生たちとの寮生活。すでに27歳だった豊田だが、楽しかったと振り返る。
「大変だったけど楽しく過ごせました。若い子たちともわちゃわちゃ楽しくやっていましたよ。養成所時代の帽子の色は黒、白、白。徳島の先輩たちから『ゴールデンキャップ取れるぞ』って声を掛けてもらっていたのに、取れなかったことだけが悔しかったですね。同い年の大浦(彩瑛)さんのことは勝手にライバルだと思っていて(笑)、タイム測定で競い合っていました」
そして迎えた卒業記念レースは2、2着で決勝進出、決勝は7着だった。在所成績6位とまずまずの成績で1年間の日本競輪選手養成所生活を終えた。そして地元小松島に戻ると、男子選手と中身の濃い練習で脚力アップに努めた。
デビューは2024年5月富山ルーキーシリーズで、2、4、2着で準優勝。函館、松山のルーキーシリーズでもきっちり決勝進出し、好素材の新人選手として7月の本格デビューを迎えた。
7月弥彦で本格デビューした後も、4開催続けて決勝進出としっかり車券に貢献した。だが8月の京王閣で落車し、その後は決勝に乗れない開催も続いてしまった。
「まだ競輪が分かっていなかったですね。ルーキーシリーズは漠然と走って確定板に載れていた。Sを取って飛び付いて差す、これが自分の戦い方かなと思っていた。まくりも深く考えないでまくっていた。とにかく競輪は難しいなって1年目でした」
落車からの復帰には時間がかかり、並走への恐怖心も生まれた。
「京王閣の落車は左の鎖骨のヒビ。膝の靭帯損傷もあって長引きました。川崎で復帰したけど並走が怖くなっていましたね。11月の玉野では発走機を出てよろけてしまい、同期の野寺梓さんと接触して落車させてしまった。周りの選手に本当に申し訳なかったです。恥ずかしくて申し訳なくて逃げ出したいくらいだったけど、再発走で発走機についたときお客さんの『しっかり走れよ』って声が聞こえてきた。それを聞いて『このままじゃダメ。しっかり走らないと』気持ちが入りました。何とか車券には貢献することができたけど、すぐ医務室に行って野寺さんに謝って、同じレースの選手にも謝りました」
今年に入ってからは7場所連続で決勝進出が続いた。初優勝は時間の問題かと思われたが、4月高知で落車。右手小指には折れた骨を固定する大きなピンが入っている。
「今年に入ってさらにレースを難しく感じるようになりましたね。うまく走れなくなっている。最初のころの自分はノーマークだったからまくりが決まっていたのだと思う。だんだん警戒されて、まくりが決まらなくなって…。それでもお客さんは自分から車券を買ってくれているし、高知の落車の前はどう走ればいいか分からなくなってモヤモヤしていました。高知は心が疲れていたように思います。初日に4着で、決勝に乗るにはもう確定板に載るしかなかった。いろいろ考えているうちに落車していました」
オッズには、競輪ファンからの期待が表れていた。豊田はそれに応えなければとプレッシャーも感じていた。しかし高知の2日目には落車失格。再びの負傷欠場となったがこの時間を無駄にすることなく、心身のリセット期間として有意義なものにした。
「落車では迷惑をかけてしまいました。ケガでの戦線離脱は、自分に与えられた考え直す時間だと受け止めました。負傷した手はものすごく痛かったけど、メンタルは休んだ期間で回復しました。落車前はプレッシャーに押し潰されていた。結果が出ていたのは、偶然ラッキーが続いただけ。もう一度1からやり直そう、早くまた自転車に乗りたい、と思えました」
手術、リハビリを経て6月の静岡から復帰。復帰戦で決勝に乗ると、続く玉野の補充で1着をゲット。7月には地元小松島での開催も控えている。
「ケガで入院している間も筋肉が落ちないように階段でトレーニングをしていました。4月高知の失格の影響で、8月はあっせんしない処置。7月いっぱい治療に充てて、9月から復帰でもいいかなとも思ったけど、徳島の先輩たちが落車しても休まず走っている姿を普段から見ています。ここで休むのは違うかなと思って復帰しました。小指はハンドルを握るときに大事にしている部分だけど、今の私は休んでいる場合じゃないかなと」
徳島の“仕事人”小倉竜二を筆頭に、落車やケガに負けずしぶとく立ち上がる先輩レーサーたちから熱いハートを受け継いでいる。
「まだ医師のOKは出ていなかったけど、バンクに乗りにいったら指の具合がよくなったんです。どうなるか分からなかったけど、静岡は走りにいきました。スタンディングのフォームも崩れているし、シッティングの加速力も落ちていたけど、それも実戦を走らないと分からないことなので早めに復帰してよかったと思っています」
126期はナショナルチームの仲澤春香が先日のパールカップでGI初挑戦。さらに8月のGI女子オールスター競輪には仲澤春香に加え、養成所のT教場で一緒に汗を流したライバル・大浦彩瑛もGI初参加となる。豊田美香も追いついていきたいが焦りは禁物だ。
「競輪選手になれてよかった。負けず嫌いな性格なので、自分の性に合っていると思います。もちろんいずれはGIレースに参加したいです。でも私は私。徳島は練習環境がいいので自分のペースで頑張りたい。最初のころは目標を意識し過ぎて心が疲れてしまった時期があるので」
堅実な教員の仕事から、お金が賭けられ勝敗がつく競輪選手への転職。メンタル面での苦労もあるが、後悔はしていない。
「人生を終えるとき、“あの時ああすればよかった”と思いたくない。それよりは“いろいろ挑戦して痛い目みたけど楽しかったな”って人生を送りたい。それが私の生き方です」
豊田美香のチャレンジは始まったばかり。初優勝までにはそれほど時間はかからないだろう。持ち前の反骨心と熱いハートを武器に、これからどこまで上り詰めていくのか、期待は高まるばかりだ。
松本直
千葉県出身。2008年日刊プロスポーツ新聞社に入社。競輪専門紙「赤競」の記者となり、主に京王閣開催を担当。2014年からデイリースポーツへ。現在は関東、南関東を主戦場に現場を徹底取材し、選手の魅力とともに競輪の面白さを発信し続けている。