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すっぴんガールズに恋しました!

【高木香帆】代謝ピンチ跳ねのける急成長! 浪人経てデビューした22歳は“諦め悪い努力家”

アプリ限定 2023/08/03 (木) 18:00 86

日々熱き戦いを繰り広げているガールズケイリンの選手たち。その素顔と魅力に松本直記者が深く鋭く迫る『すっぴんガールズに恋しました!』。今回のクローズアップ選手は急成長を見せ代謝争いを切り抜けた高木香帆選手(22歳・岩手=120期)。選手をめざしたきっかけから現在に至るまでの軌跡を写真とともにご紹介します!

幼少期から“英才教育!?”で競輪に親しむ

 高木香帆は岩手県滝沢市の出身。6歳上の兄・翔(105期)と2人きょうだいで、自然の多い町で育ったこともあり、小さいころから体を動かすことが大好きだったそうだ。一方で勉強は苦手だったが美術や図工は得意な“感覚派”で、幼いころの夢はケーキ屋さんだった。

幼少期の高木香帆(本人提供)

 父が競輪好きだったという彼女は、幼いころから父について青森競輪場やサテライト石鳥谷(現・クラップ石鳥谷)へ行くこともあったそう。

「自宅でもスピードチャンネルが見られたし、父に付いていろんなところへ行きました。青森競輪場のバックストレッチ側にある滑り台は小さいころに遊んだこともありますよ」と、少女時代の思い出にも競輪が焼き付いているようで、ある意味“英才教育”を施されていたのかもしれない。

 中学生になると、陸上競技を始めた。最初は短距離、中盤から砲丸投げに転向。当時は「スポーツで食べていく」というイメージは沸いていなかったというが、中学2年生の冬に衝撃が走る。日本競輪学校105期で競輪選手を目指していた兄・翔の卒業記念レースを見に、平塚競輪場へ行ったときのことだ。

「家ではあまり喜怒哀楽があるほうではない兄が、卒業記念レースで決勝に乗れたときにすごくうれしそうにしていたんです。高校時代の自転車競技大会を家族で何度も応援に行ったけど、一番いい顔をしていましたね。あと、一緒にガールズケイリン106期の卒業記念レースもやっていたんですけど、ガールズケイリンがすごく格好良く見えて。スポーツでお金を稼げるっていいなと思いました。岩手に戻るとき、両親に『自分も競輪をやりたい』って伝えました」

6歳上の兄・翔も競輪選手に(本人提供)

 そうして岩手県の自転車競技強豪校・県立紫波総合高校を受験。晴れて合格し入学すると自転車競技部の門をたたいた。同級生に女子部員はおらず、先輩も3年生が3人だけ。そのため男子部員と練習することが多かった。高校の1学年上の先輩はナショナルチームで活躍する中野慎詞(121期)だったそうだ。

「高校の自転車競技部はガールズケイリン選手になるためのステップだと思ってやっていました。高校から紫波自転車競技場が近かったので、練習はバンクがメイン。たまにある長く乗るロードの練習が本当に嫌だった(笑)。中野先輩は当時も強かったです」

 ガールズケイリン選手になるために高校の自転車競技部で練習を積む彼女に、父は厳しい言葉もかけていたそうだ。

「父は本当に競輪が大好きなんですよ。だから兄と私が選手になって、車券が買えなくなることは残念がっていたみたい。兄が選手になるときにそれまで続けていた仕事を辞めて、自転車屋さんを始めたんです。私が選手になりたいって伝えたときには『覚悟はあるのか? ガールズケイリンも落車はあるんだぞ。顔から落ちたらキズも残るんだぞ?』って何度も言われました。レースをよく見ているからこそ、ガールズケイリンへの愛もあったし、心配してくれていたのだと思います。それでも自分の意思は変わりませんでした」

ガールズケイリン選手を目指し強豪・紫波総合高校へ(本人提供)

一度目の養成所受験は不合格も… すぐ浪人を決意

 高校3年生になると本格的に日本競輪選手養成所の試験に向けて動き出す。夏には兄の師匠でもある佐藤友和(88期)に弟子入りすると、佐藤は試験に向けて自転車のセッティングを1から見直してくれた。118期の入所試験は秋。長距離種目を苦手としていた高木は克服のため練習を重ねてきたが、不安は的中し1次試験で不合格となってしまう。118期での養成所入りはできなかった。

「試験結果は受け入れるしかなかったです。努力が足りなかったんだと思います。でも落ち込んでいる暇はなかった。勉強は苦手だし、競輪選手以外は選択肢がないと腹をくくっていました。120期の試験に合格することだけを考えて1年頑張ることを、落ちたその日に決めました」

家族のサポートを受け努力が実る

 浪人時代は練習に明け暮れた。高校時代は電車で通っていた自宅から競技場の道のりを自転車で通い、競技場に着くと1日中自転車に乗り込んだ。昼は母が作ってくれた弁当を食べて体力を回復させ、午後の練習に取り組んだ。

 両親は「バイトするより練習しろ」と厳しくも温かいエールを送り、練習に集中できる環境を整えてくれたそうだ。

1日中自転車に乗り込み養成所入りを目指した(本人提供)

 120期で再受験するにあたり、朗報が届く。118期までは1000メートルタイムトライアルが試験に含まれていたが、120期からは500メートルタイムトライアルに変更されたのだ。

「苦手だった1000メートルが500メートルに短くなった。自分にとっては追い風になったと思います」

 夏には師匠の佐藤友和が付きっきりで練習を見てくれた。その甲斐あって、120期の1次試験は見事に突破。次の難関は筆記と面接の2次試験だった。

「勉強は小さいときから本当に苦手で…。兄は頭がいいので勉強を教えてもらい、何とか2次試験まで頑張りました」

 必死で机に向かってSPIの問題を解き、120期の試験に合格。ようやく悲願の養成所入りを果たした。

 合格の知らせは同じ時期に苦しい思いをした同じ年の仲間と分かち合った。

「合格を確認してからすぐ118期の試験を現役で受けた仲間と連絡を取りました。刈込奈那、菅原ななこ、太田瑛美と自分が118期で試験に落ちてしまい、120期で合格することができた。4人とも合格できたことが本当にうれしかったんです」

養成所を浪人した苦労人仲間・太田瑛美(左)と(本人提供)

 120期の養成所生活はコロナ禍真っただ中。日曜日の外出も制限が掛かり、それまで当たり前だった夏と冬の帰省もなくなり、養成所にいる時間は長かったが、“選手になる”という強い気持ちで乗り切ることができた。

「10か月は長かった。最初のころは競走訓練で刈込と先行で競い合いました。後半は着順を意識したレースをしました。でも養成所では1回も勝つことはできなかった」

 在所成績は17位で養成所を卒業。悔しさもあったが、選手になれた喜びは大きかった。

本デビュー後は不運の連続…

 ルーキーシリーズでデビューを迎え、第1戦の5月静岡は2、6、7着、第2戦の名古屋は6、3、2着、第3戦の大宮は3、5、5着という成績を残した。ルーキーシリーズでは車券にも貢献し、決勝にも静岡、大宮と2回進出と好成績を収めたが、手応えは全くなかったそうだ。

「いい着が取れたといっても、マーク戦の流れ込みでしたから。自分で展開を作ったわけじゃない。この状態で先輩たちと走ってもレースにならないと思いました」

 その予感は的中する。本格デビューの7月青森で7、5、5着と洗礼を浴びた。最終日は落車に乗り上げてしまい転倒。ゴールには自転車を携えて入った。

「最終日の落車が痛かったですね…。体の左側をバンクに打ち付けてしまい、骨盤を痛めてしまいました。その後も休まないで走ったけど、体の軸がずれていたんです。それではいい成績が出るわけないですよね。8月の西武園でたまたま決勝に乗れたけど、それも展開が良かっただけ。9月のいわき平で今度は肉離れをしてしまい、その後はレースに行ってもちぎれるだけに…。悔しくて、悔しくて仕方なかったです」

成績不振は続き“強制引退”のピンチに

 そんな高木に手をさしのべてくれたのは同期同学年の太田瑛美だった。

 冬の岩手は雪の影響でバンク、街道での練習はできなくなる。1年目の冬、練習環境を求めていた高木に、太田は自身の地元・松阪への冬期移動を勧めてくれた。

太田瑛美(右)に誘われ松阪へ冬期移動

「いろんな冬期移動の候補はあったのですが、瑛美ちゃんが『松阪に来れば? 師匠(萩原操)にも話をしておくから』って声を掛けてくれました。落車でバランスの崩れた体で肉離れもしていて、一番弱かったときに面倒を見てくれたので感謝しています。太田姉妹(美穂、瑛美)たち萩原操さんの練習グループはみんな努力家。特に太田姉妹は365日練習をしている感じでした。自分は乗り込みが苦手でちぎれてばかりだったのに、(萩原)操さんはやさしく指導してくれました。コツコツやることの大切さを三重で教わることができました」

 しかし、年が明けてからも成績は大敗続きだった。競輪選手は3期(1年半)連続で成績不振が続くと、代謝制度で強制引退となってしまう。ガールズケイリンは成績下位3名が引退となるが、高木もその争いを避けることはできなかった。

「選手生活2年目もずっと競走得点を気にしながらの開催参加でした。レースに行っても成績が悪い。自分のせいなのに、同期に強くあたってしまったりして迷惑を掛けていたと思います」と精神的にも苦しい状態だったと明かす。

 代謝争いの佳境である3期目の後半、福岡・久留米へ冬期移動したことが高木にとって大きな転機となる。

「競走得点も上がらず、ずっと『クビになる』とビクビクしていました。そんなとき、師匠(佐藤友和)や兄から久留米での練習を提案されたんです。2人とも久留米への冬期移動の実績もあったし、なにより久留米はガールズケイリンの選手が多い。ぜひ久留米で練習したいと思って、師匠から話をしてもらいました」

 クビになりたくないーー。藁にもすがる思いで久留米へ行った。

 人見知りの彼女にとっては人間関係を作ることも大変だったが、“ゲーム”がきっかけで久留米勢との距離が一気に縮まったそうだ。

「やっぱり最初、(児玉)碧衣さんに声をかけるのは緊張しましたよ。でも碧衣さんがゲーム好きなのは知っていたから『碧衣さん、ゲーム何しています?』みたいな感じで声をかけた。そこからいろんな話をさせてもらえるようになったんです。みんなと打ち解けて、練習も付いていけるようになりました。松阪でコツコツやる練習、久留米では技術の練習ができた。藤田剣次さんにもバイクで引っ張っていただいて練習をしたり、なんとか3期目の代謝争いを乗り切ることができました」

児玉碧衣
久留米でともに練習に励んだ児玉碧衣(撮影:北山宏一)

 事実、このタイミングでは120期の3名がストレート代謝(デビュー1年半での強制引退)となった。高木はここを切り抜けたが、年が明けた2023年前期も代謝争いは続いた。

練習が実を結び、代謝ピンチを脱却

 しかし苦しい状況の中でも、練習の成果は少しずつ成績に現れてきた。最終日の一般戦で車券に絡み出すと、6月の京王閣で3、2、5着で決勝進出。競走得点を大きく上げて、前期の代謝争いのボーダーラインから抜け出したのだ。

「4月の別府が終わってからしっかり練習をしました。だから京王閣は自信を持ってレースに臨めた。練習のおかげで初日は鈴木奈央さん、2日目は坂口楓華さんと前の選手に離れず付いていけた。京王閣には太田瑛美ちゃんもいたので、この開催でいいレースをすれば、松阪でお世話になった(萩原)操さんや(太田)美穂さんにも届くから、と思って頑張れました」

(本人提供)

 ガールズケイリンでは3期連続で47点を下回ると代謝の対象となってしまう。高木は2023年前期を47・82で終えたため、今後3期(1年半)は代謝対象から除外となった。

「これで安心しちゃダメなんです。ガールズケイリンの選手になりたくて浪人までしたんですから。今終わってしまったら、今までお世話になった人に申し訳なさすぎます」

“恩返しの1勝”届けたい

 ギリギリの戦いを経験して、心身ともに成長した高木。デビューから続いたピンチにも決して諦めず、努力で現役続行を掴んだ22歳は、表情も凛々しくなったように思える。

「次の目標は初白星。養成所からまだ1着を取ったことがないし、まずは1つ勝ちたいですね。いろんな人との縁で選手を続けることができているし、初白星を挙げることが恩返しになると思うので頑張ります。5月には同じ岩手から124期の熊谷芽緯ちゃんもデビューした。刺激をもらえるし、一層頑張っていきたいです」

 近況は6月末の練習中に落車をしてしまい、7月18日の大垣から復帰した。決勝進出はならなかったが、最終日の一般戦(3着)で勝利への執念を強く感じるハンドル投げを披露した。目標の初勝利は目の前まで迫っている。

 競輪が大好きな父や選手を目指すきっかけとなった兄、練習を見てくれた大勢の人へーー。“恩返しの1勝”に向けて全力投球する。

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松本直

千葉県出身。2008年日刊プロスポーツ新聞社に入社。競輪専門紙「赤競」の記者となり、主に京王閣開催を担当。2014年からデイリースポーツへ。現在は関東、南関東を主戦場に現場を徹底取材し、選手の魅力とともに競輪の面白さを発信し続けている。

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