アプリ限定 2025/12/22 (月) 12:00 11
日々熱き戦いを繰り広げているガールズケイリンの選手たち。その素顔と魅力に松本直記者が深く鋭く迫る『すっぴんガールズに恋しました!』。 今回は、ガールズケイリン界の“サラブレッド”高木萌那選手(福岡・126期)が登場。競輪一家に生まれながら、かつて彼女が選んだ道は「野球」だった。女子高校野球で全国制覇を成し遂げた彼女が、なぜ自転車の道でプロの厳しさに揉まれながら覚醒したのか。その激動の歩みに迫る。
福岡県久留米市で高木萌那は生まれた。3人姉妹の末っ子で、父は現役競輪選手である高木和仁(福岡・76期)、そして祖父は1970年の日本選手権競輪を制した工藤元司郎氏(茨城・16期・引退)。まごうことなき競輪一家である。
小さな頃から活発だった彼女は、好奇心の塊だった。姉たちの影響でクラシックバレエやゴルフなど様々な習い事に挑戦したが、小学4年生のとき、運命のスポーツに出会う。
「クラスで野球ブームが起きて、男女みんなでやったらすごく楽しかったんです。地元のクラブチームに体験入会したら、一気にのめり込んでしまいました。そこからはもう、野球が楽しくて仕方なかった」
父・和仁もかつて高校球児だったこともあり、萌那は白球を追う日々に没頭した。中学時代は学校の部活動には入らず、放課後はクラブチームで汗を流す野球漬けの毎日を送った。
中学3年生になり、進路選択の時期が訪れた。ここで「競輪一家」としての父の親心と、娘の意志が衝突する。父は地元の自転車競技の名門・祐誠高校への進学を勧めたが、萌那の答えは「NO」。頭にあったのは、クラブチームの先輩が進んだ女子野球の強豪・神戸弘陵高校に行くことだけだった。
「父は私に祐誠高校で自転車競技をやって、ガールズケイリンへ進んでほしかったんです。だから『神戸弘陵に行って野球をやるなら、勉強で特待生にならないとダメだ』と言われました」
一見、野球を諦めさせるための高いハードルのようにも思えるが、父・和仁に当時の心境を聞くとそれはまったく違った。
「親としてはやりたいことをやらせてあげたかったし、高校でも野球を続けることを応援したかった。ただ勉強はしておかないと将来やりたい仕事に就けない可能性があると思い、頑張ってもらいました。結果的に養成所の試験にも役立ったと思います」
そのうえ、娘の“本気”は父の想像を超えていた。萌那はもともと勉強を苦にしておらず、特待生入学を目指し塾に缶詰めになった。
「野球を続けるため、必死に勉強しました。朝6時から夜11時まで塾にこもりっぱなしで、3食すべて塾で食べて勉強していました。とにかく神戸弘陵に行きたい一心でしたね」
努力の甲斐あって、見事に特待生での入学を勝ち取った。親元を離れ、兵庫・神戸での寮生活が始まった。
憧れの神戸弘陵学園高校での生活は、想像を絶する野球漬けの日々だった。
「青春の『せ』の字もない高校生活でしたよ(笑)。朝練、授業、放課後練習、寮へ帰る… その繰り返し。学校は山の上にあるので、電車で1時間以上かかる神戸の街へ遊びに行くことなんて皆無。同級生と遊んだ記憶もありません。とにかく野球をするには抜群の環境でした」
ストイックな日々の結晶は、最高の結果となって実を結ぶ。高校2年生の夏、甲子園球場で行われた全国高等学校女子硬式野球選手権大会。レギュラーのキャッチャーとしてマスクを被った高木は、チームを牽引し全国制覇を成し遂げた。
「簡単に『楽しかった』とは言えません。でも、野球を通していろんな経験ができたことは本当によかった」
完全燃焼した高校生活のあと、再び進路の壁にぶつかる。当初夢みていた女子プロ野球選手への道は、日本女子プロ野球機構が活動休止したため閉ざされてしまった。
高校では進学クラスに属しており、卒業後は防衛大学校への進学を考えていた。アクティブな仕事に就きたいという思いからだったが、動き出した時にはすでに願書の受付が終了していた。
進路に迷ったとき、ふと脳裏に浮かんだのが「競輪選手」という選択肢だった。幼い頃から当たり前のように流れていた競輪中継、それに出演する叔母の工藤わこさん、そして父や祖父の背中を思い浮かべ、自ら父に電話した。
「正直、最初は『競輪選手もいいかな』くらいの軽い感じでした。自分の意志で父に電話をしたんですが、最初は沈黙されました。そのあと、父は静かに『甘くないぞ』と。それでも、スポーツ選手として自立したい、ガールズケイリンの選手になりたいという思いを伝えました」
両親の承諾を得て、新たな挑戦が始まった。当時はまだ神戸の寮にいたため、父から直接指導は受けられなかった。電話で練習メニューを聞き、高校の自転車競技部が所有するパワーマックスを借りてペダルを漕いだ。秋にある適性試験に「必ず一発合格する」と誓い、ジムでのトレーニングにも打ち込んだ。
しっかりと準備をして臨んだ日本競輪選手養成所126期試験に見事合格。しかし、ここからが本当の戦いだった。高校卒業後に久留米に戻り、父と久留米競輪場で特訓して入所を迎えたが、自転車経験の浅さが露呈し、入所直後は苦労の連続となる。
「最初は全然自転車に慣れなくて、入所式前の事前研修ではまったくタイムが出ずハロン(200m)も14秒台。どうなることかと思いましたが、最初の記録会で12秒5まで縮まって『なんとかなるかな』と思えるようになりました」
一方で、ルールが厳しいことで知られる養成所生活。高校時代も寮生活だった高木にとっても、驚きの連続だった。
「携帯電話も使えず外出もできないのは、高校時代と比較にならないほど制限された環境でした。プロの競輪選手になるためには慣れなきゃいけないと分かっていたけど、生活面は厳しかったです。その分、同期との絆は深まりましたね。特によく一緒に練習した豊田美香さんとは、レース形式の練習をして楽しくやっていました」
練習環境に順応すると、持ち前の身体能力が開花する。記録会はD評価からB評価に上がり、そして最後には最高評価のSを獲得しゴールデンキャップを獲得。卒業記念レースでも決勝3着、在所成績3位という堂々たる成績で卒業した。
デビュー直前の4月、地元久留米で「オールガールズクラシック(GI)」が開催された。そこで見た先輩・児玉碧衣の優勝と輝く景色は、高木の胸を焦がした。児玉を筆頭にガールズケイリンのトップレーサーが多数在籍する抜群の練習環境で、デビューに備えた。
GIの興奮冷めやらぬまま臨んだデビュー戦は、富山でのルーキーシリーズ。父であり師匠でもある和仁も同開催に参加しており、心強い船出となった。
後方で仕掛けが遅れ3着に敗れた1走目を修正し、2走目は逃げた小林諒の後ろから早めの番手捲りで1着。決勝戦では在所1位の仲澤春香との対決となったが、好位確保からの先まくりで見事に勝利。同期一番乗りの優勝を飾った。
「春香さんには養成所で勝てたことがなかったし、まさか優勝できるとは思っていなかったので嬉しかった。久留米のGIでいいものを見させてもらったおかげだと思います」
喜びを胸に帰路についたものの、思わぬアクシデントに巻き込まれたことも今はいい思い出だ。
「電車がトラブルで止まってしまって…。久留米の自宅に着いたのは翌日の午前3時。10時間以上も電車の中にいて、もうヘトヘトでした。優勝も含めて、忘れられない1日になりましたね(笑)」
順風満帆に見えたスタートだったが、続く函館ルーキーシリーズでプロの厳しさを味わう。予選1走目で5着、2走目では自身初の落車に終わった。
「養成所時代も落車したことはありませんでした。骨折もなく軽傷でしたが、今振り返ると函館は気持ちがフワフワしていたかもしれません。レース用のサングラスを忘れたり、気持ちの面でも準備が足りていなかった。『開催に臨む気持ちが甘い』と痛感させられました」
7月の本格デビュー戦(高松)では、さらなる衝撃が待っていた。ガールズグランプリ出場実績を持つ鈴木美教(静岡・112期)らトップ選手たちの気迫だ。
「レースに臨む先輩たちの、気迫や集中力に驚きました。鈴木美教さんは恐ろしいくらいの気迫がありました。周りのピリッとした集中力に、私がついていけていなかった」
予選1走目は最終ホームからカマシ先行を打つも、末脚を欠き6着に沈んだ。2走目は鈴木美教の後位を回り、差して1着。挽回して決勝に勝ち上がったが、決勝戦では主導権を取りにいったところを西島叶子に叩かれ終わった。経験の差に圧倒された3日間だった。
その後は苦しい戦いが続いた。予選で車券に絡めず、最終日は一般戦回りに。次に決勝に進出できたのは11月だった。
「養成所にいるときから、先輩たちとのレースではうまくいかないだろうと思っていました。あとは周りの期待を感じて、プレッシャーにも苦しんでいた。なかなか結果が付いてこず、負の連鎖でした」
それでも闘志は衰えなかった。休まず練習を重ね、反撃の時を待った。しかし11月のルーキーシリーズプラス(防府)でも同期相手に見せ場を作れず、7着と大敗してしまう。
「今の自分の実力がわかり、打ちひしがれました。このレベルなんだな、頑張らないとなと。逆に燃えました」
2025年の幕開けも苦しかった。松戸では予選敗退となり、欠場者多数により一般戦が中止となる不運も重なり、競走得点は代謝(成績下位の強制引退)の危険水域が見える48点からのスタート。「やばい。死ぬ気でやらないと」と尻に火がついた。
転機となったのは、1月の久留米開催で同宿だったトップレーサー・坂口楓華(愛知・112期)からの何気ない一言だった。
「『今は成績がダメかもしれないけど、これが一番下だと思って。あとは上がっていくだけだよ』と言ってもらえて、救われました。坂口さんにとっては深い意味はなかったかもしれないけど、落ち込んでいたときだったので、あの言葉があったから頑張れました」
その後、3月の玉野では決勝3着と初めて決勝で車券に絡んだ。4月には岐阜で行われた「オールガールズクラシック(GI)」の前座戦に参加。1年前にバンクの外から見た輝く舞台に、胸が高鳴った。
「GI参加選手はみんなすごかったです。とくに準決勝の(児玉)碧衣さんはかっこよかった。佐藤水菜さん一強のような雰囲気があった中で、碧衣さんが先に仕掛けて押し切った。それを間近で見られて、とにかく参加できてよかったです」
高木自身もきっちり決勝に進み、予選2走目では豪快なまくりで1着とガールズケイリンファンに存在をアピール。本格デビュー後の初優勝も間近に思われたが、あと一歩が届かなかった。5月の熊本では惜しくも準優勝。優勝は久留米の先輩である尾方真生だった。
「久留米の先輩と一緒になると、いつもより勝ちたい気持ちが強くなる。いつまでの憧れているままじゃ勝てないよなって」
その後は練習内容を改革。2025年後期直前、それまでのバンク・街道練習中心から、室内でのフォーム固めにシフトチェンジした。「同じことをやっていても成長がない」と新しい刺激を取り入れると、すぐに結果に表れた。
2025年7月、大宮でついに本格デビュー後の初優勝を達成。同期では仲澤春香、中島瞳、大浦彩瑛に続く4人目の優勝だった。自宅には父が作った練習部屋があることもプラスに働き、成績は安定。2025年後期は決勝進出を外していない。
そして11月、再び大宮で今年2度目のV。シリーズリーダーとして期待される中で勝ち切る強さを見せた。
「競輪祭女子王座戦(GI)に出る選手はいない開催で、競走得点は自分が一番上だった。初めてシリーズリーダーになり、勝てたのはホッとしました」
年始の競走得点48点から這い上がり、今やトップレーサーの目安である55点を目指せる位置まで来ている。今期最後の開催は、祖父・工藤元司郎氏のホームバンクだった取手だ。父いわく、萌那が選手になったことを一番喜んでいるのは祖父だそうだ。
「今の目標は、1期間で55点を取ること。状況は厳しいけど、諦めず走りたい」
同期の仲澤春香や大浦彩瑛がGI決勝に進出するなど活躍を見せているが、高木のスタンスは極めて落ち着いている。
「同期のGI決勝進出は素直にすごいなと思う。でも特に感情は持たないようにしています。この職業は、いかに自分を客観視できるかだと思う。他人と比べると言い訳できるし、成長も止まってしまう。だから感情に振り回されないように、いい意味で自己中心的にやっていこうと思います」
スランプを脱し開花した愛娘に、父・和仁もエールを送る。
「デビュー戦での優勝には良い意味で裏切られました。その後、プロの世界で壁にぶつかって悔しい思いもしたでしょうが、この仕事は課題を見つけて練習する、その繰り返しです。やり続けている人にだけ、勝利の女神は振り向いてくれる。自転車に乗り始めてまだ約3年、まだまだこれからですよ」
現在の課題は“初動の遅さ”。勝負どころでの反応を磨き、恵まれた体格を生かして躊躇なく仕掛ける勇気を持つことが、飛躍への鍵を握る。
来年にはGIレースへの参加も控える高木萌那。甲子園の土を踏みしめた足で、今はバンクを駆けている。2026年、競輪一家のDNAを受け継ぐニュースターから目が離せない。
松本直
千葉県出身。2008年日刊プロスポーツ新聞社に入社。競輪専門紙「赤競」の記者となり、主に京王閣開催を担当。2014年からデイリースポーツへ。現在は関東、南関東を主戦場に現場を徹底取材し、選手の魅力とともに競輪の面白さを発信し続けている。
