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山口健治の『競輪 時代の輪郭』

小倉から始まった競輪の歴史ーー色濃く残る競輪祭の記憶、かつては“雹の降る決勝戦”も?/連載コラム

2025/10/29 (水) 12:00 9

 江戸鷹の愛称でおなじみの競輪評論家・山口健治氏のコラム。今月は、来月行われる今年最後のGI「競輪祭」にちなんで、競輪発祥の地でもある小倉競輪の歴史や競輪祭の思い出を語ってもらいます。
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 みなさんこんにちは! 山口健治です! 今年も残すところあと2か月…。毎月言っていますが本当に月日が経つのが早い。気温もグッと下がり、朝晩の冷え込みが強くなってきました。体調管理にはくれぐれも気を付けてくださいね。

 さて、競輪界で11月といえば、今年最後のGI「競輪祭」が行われる月。そして競輪祭の舞台といえば小倉競輪場だ。ご存じの方も多いだろうが、小倉は競輪が誕生した発祥の地でもある。そこで今回は小倉にまつわる話をさせてもらおうと思う。

小倉から始まった“競輪の歴史”

 競輪が初めて開催されたのは、戦後間もない1948年(昭和23年)11月のこと。当時の小倉市長だった濱田良祐さんいう方が、国体のためにつくられたバンクをつかって財源確保を目的に競輪を施行したのが始まりだった。娯楽としてもたいへん魅力があったようで、売り上げも含めて大盛況だったという。翌年1月には東日本の大宮でも開催され、全国的にも一気に競輪というものが広がり、こうして現代まで70年以上も続いてきた。

70年以上も続いてきた競輪(photo by Shimajoe)

 もし濱田さんがいなかったら競輪という競技そのものが存在していなかったかもしれないし、私も競輪選手にはなっていなかった。この70数年間で、私も含めて何万人という人が競輪に携わってきたことか。今、競輪が身近にあるのは、濱田さんという市長がいて、小倉が競輪を始めてくれたからというのは紛れもない事実だろう。

 また、ミッドナイトを初めて行ったのも小倉競輪だった。当時の競輪界は売り上げも厳しい状況で、廃止の方向で話が進んでいた競輪場も複数あった時期。批判的な意見も当時は結構届いたようだが、それでもミッドナイトを続け、また車券の発売方法を工夫するなどして売り上げを伸ばしていくと、次第に開催する場も増えていき、売り上げも高いレベルで安定。今ではその利益で改修工事を行う競輪場が増えるなど、競輪界になくてはならないものになった。
「ミッドナイトから競輪を始めた」という声も多く聞かれるなど新規のファン獲得にも成功。ミッドナイトのおかげで競輪の人気が再燃してきたといっても過言ではないだろう。

 このことを競輪関係者は忘れちゃいけないし、競輪祭の時期になると改めて「小倉が挑戦してくれた」ことに対する感謝の思いを強くするね。

小倉は競輪の原点(撮影:北山宏一)

色濃く残る“九州勢の気迫”

 競輪誕生3周年を記念して開催された「第1回競輪祭」が行われたのは1951年(昭和26年)。競輪祭はとても歴史のある大会で、初期の頃は高原永伍さんや福島正幸さんといったレジェンドが3回ずつ獲っていて、大スター中野浩一さんも5回優勝しているのかな。

 私が走っていた時の競輪祭のイメージといえば、とにかく「九州勢の気迫がすごかった」ということ。中野さん、井上茂徳さんの二大巨頭をはじめ、九州勢の〝競輪王のタイトルは譲れない〟という圧のようなものをすごく感じたし、実際に競輪王のタイトルはなかなか関門海峡を越えられなかった。あの滝澤正光でさえ、競輪祭だけがなかなか獲れず、30歳でやっと優勝してここでグランドスラムを達成したんだよね。
 そんな中、私は2回ほど競輪祭を優勝させてもらった(笑)。でも本当に競輪祭の時の九州勢は強かったという印象が強く残っている。

 また、昔は競輪祭の前に「新人王」というのがあった。90人くらいの若手で開催される新人王で決勝に乗った9人には、少しあとに行われる競輪祭の出場権が与えられたんだ。高原永伍さんも新人王で出場権を取って、そのまま競輪祭でいきなり優勝しちゃったんじゃなかったかな。高原さんだけではなく、当時は新人王で権利を取った若い選手が、本番の競輪祭でも結構活躍していたみたい。私のころは新人王と競輪祭はもう別物になっていたけどね。

雹の降る競輪祭?「レース後は腿が真っ赤」

 小倉がドームになったのは、1998年のこと。今でこそ『小倉=ドーム』が一般常識だけど、やっぱり私にとっては小倉といえば屋外バンクのイメージで、当時の競輪祭といえば、少し肌寒くなってきて薄暗い中でやっていた記憶があるね。

 ほかにもたくさん思い出があるけど、中でも1988年(昭和63年)の決勝戦はすごかった。2回目の競輪祭優勝の年なんだけど、この時はレースがスタートしてすぐに、雹(ひょう)が降り始めたんだよね。周回を重ねるごとに強さも増していって、あっという間にバンクに氷が積もってしまった。滑りやすくなっていたから、とにかく転ばないようにと集中していた記憶があるし、実際、誘導員は退避した後にひっくり返っちゃって。レース後に自分の足を見てみたら腿(もも)のところが真っ赤になっていたよ。これも屋外だからこそのハプニングだね(笑)。

 そういえば、屋外の旧バンクを閉鎖する前に行われた「お別れ会」にも参加させてもらった。今のドームの隣に広い公園があるんだけど、かつてはそこにバンクがあったんだよね。なので、バンクから隣でドームを建設しているのが見えるんだけど、なんて大きい建物なんだ!って衝撃を受けたことは今でも覚えている。

今ではドームがすっかり定着した(photo by Shimajoe)

 ちなみに、ドームになって一番最初の競輪祭は、吉岡稔真が失格になり加倉正義が優勝したんだったかな。その後も大きくて立派なドームバンクの中で、幾多の名勝負が繰り広げられてきた。そしてこれからも多くの感動のシーンや好レースが展開されることだろう。

 さて、競輪祭が終わると同時に、今年のグランプリ出場メンバーが決定することになる。今年旋風を巻き起こしている近畿勢がまたしても中心になるのか、他地区が意地を見せるのか。多くの方によって歴史がつくられてきた競輪祭。今年はどんなドラマが待っているのか。熱戦を期待するとともに、選手の活躍と、大会の成功を心より祈りたいと思う。

※(文中敬称略)

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山口健治

Kenji Yamaguchi

山口 健治(ヤマグチ ケンジ) 東京都荒川区出身 “ヤマケン”、“江戸鷹”の愛称で親しまれる元トップ競輪選手。兄を追い38期生として在所1位でデビューし、3年も経たずうちダービー王に輝く。その後は競輪祭を二度制覇し長らく活躍するも2009年に惜しまれつつ引退。現在はスポーツ報知の競輪評論家として活躍中。

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